言葉の不在について/ルイーズ・グリュック『野生のアイリス』の感想
詩が書けない時間は、どれぐらい続くものなのだろう。それは人によって場合によって千差万別で、1ヶ月ほどで書けるようになることもあれば、何年も書けなくて苦しむこともあるのだろう。ルイーズ・グリュックの場合、再び書けるようになるためには2年の歳月が必要だった。
2020年にノーベル文学賞を受賞したアメリカの詩人ルイーズ・グリュックは、現代のアメリカを代表する詩人だ。しかし、日本では全くのノーマークだったようで、受賞の発表とともに邦訳を探したが1冊も見当たらなかった。その年の終わりぐらいに、『現代詩手帖』(何月号か忘れました)でグリュックの紹介記事が出て、受賞から1年後の昨年秋に代表作の『野生のアイリス』が対訳で刊行された。(2022年7月現在、『アヴェルノ』も刊行されています)
そのとき本屋で立ち読みして、グリュックが「詩人として長く辛い沈黙の後にやってきた奇跡のような詩集」と言うあとがきを読んで以来、ずっと詩が書けないもやもやを抱えている身としては、ずっと気になっていた。そして最近電子書籍でも買えるのをいいことについつい衝動買いをしてしまい、行き帰りの電車の中で少しずつ読み進めている。
結局よくわからない詩の方が多いのだけれど、巻頭の「野生のアイリス」だけは、わかりそうな気がした。それだけではなく、ちょっと勇気づけられた。というのもこの詩が、自分の言葉を失った辛さを乗り越えて再び言葉を取り戻したことの喜びが歌われているからだ。
アイリスは、アヤメ科の多年草で、球根の状態で冬を越え、春から初夏にかけて花を咲かせる。そのアイリスを一人称の「わたし」に据え、詩人である「あなた」に語りかけるという形式で、この詩は成り立っている。難解な語句も、奇抜な表現も使われていない。細部の表現や思想まで批評する力はないけれど、長い沈黙を越えて再び自分の言葉を見つけた喜びが歌われている。
例えば「暗い地中に埋められたまま/意識として/生き続けるという残酷。」という表現。言葉を失ったままで生きていくことを、長い冬を暗い地中で過ごす球根に仮託して表している。言葉を失っていても、意識はある。さまざまな感情がある。言いたいことだって山ほどあるのに、適切な言葉が見つからないまま出口の見えない冬の中を生き続けなければならない残酷さ。「魂でありながら/話すことのできなかった恐怖の時間」が、球根の言葉として語られていく。これは詩を書けない詩人の苦悩の表現であると同時に、より普遍的な言葉の不在をめぐる問題に繋がっているように思う。
「自分の悩みを言葉にできたときには悩みの半分は解消している」とか、「たまたま開いた本の一節に自分の感じていた気持ちを発見して救われた」とか、言葉というのは単なる情報伝達の道具というのに止まらない、人間の生存に関わる重要な部分を担っている。あるいは電車内で、「目から鱗が落ちました」云々という感想が並ぶ新刊書籍の中吊り広告を見かけることがあるが、求めていた情報が手に入ったということ以上に、運命的な言葉との出会いを求めているふしが我々にはある。それが松岡修造の名言か、宮沢賢治の詩の一節か、あるいは身近な人の一言なのかは人によって違うけれど、それぞれが自分の拠り所にするべき大切な言葉を求めている。だからこそ、必要なときに言葉が見つからない時は苦しくて、安易な言葉に踊らされることも、騙されてしまうこともあるのだ。さらに言えば、言葉がないことはときに生死にすら関わる恐ろしいものである。
グリュックは、肉親との葛藤や激しい拒食症を詩を書くことで乗り越えてきた人物である。そのように、生きるために自分の言葉を紡いできた彼女は、言葉の不在がときに命に関わる切実な問題であることを理解していたはずだ。
そのような彼女が、詩人としての地位を確立してから、2年間、詩が書けなかったということが、どのようなことであるのか、その問題の内実は私にはわからない。しかし、詩を書き始めて大した時間も経っていなくて、詩のいろはもわからないままに最近なんか全然書けないなあと思っている私にもまだ言葉にならないもやもやとか、書いてみたい主題みたいなものもある。そう言うものの輪郭が何にも見えてこないことがなんかもどかしいなあ、と思う程度には苦しいこともあるし、もう二度と書けないかもしれないと不安になることもあるのだ。
そんな時、グリュックの詩は、苦しみの果てに扉があることを教えてくれる。詩が書けない、言葉が見つからない冷たく暗い「もう一つの世界」から、言葉に満ちた世界に帰るための帰路があることを教えてくれる。「わたしは告げよう、わたしは再び話すことができた」。これが喜びの表現であるとともに、言葉を見つけられずに苦しんでいる多くの人たちに対するはげましの言葉でなくて何だろうか。その言葉は、アイリスの花が「あなた」に向けて歌う小さな声として届けられることで、親しい関係の中で発せられる友人の言葉のように響いてくる。