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桜と人間の関係から分かる感受性の低下
もののあはれを磨きたいと思っている。
桜の花が咲く季節となっているわけであるが、特に趣を感じないのである。
都心に住むが故に、感受性が欠落しているのかを考えてみたいと思う。
↓
季節は経ていく
桜は毎年咲くわけだが
散っていくことも含めて趣がある
その姿を残さない完全芸術を実現したまえ!
上の短文は、感受性の欠落に関して書いた。
自身の思うもののあはれを端的にまとめたものである….
縄文時代には狩猟採集民として生きる目的が主だったのに対して、
平安時代にかけては貴族の華やかな文化が花開いた。
和歌や絵巻に物語などの文化が派生していったように感じる。
苔や植物に対しても感動を覚えることが出来るという点は
令和を生きる我々には感じずらい感性である。
季節は経ていく
桜は毎年咲くわけだが
散っていくことも含めて趣がある
その姿を残さない完全芸術を実現したまえ!
この短文において何を伝えたいかを書きたいと思う。
桜を思い浮かべていただきたい…..
桜が咲いている….
桜が散る…..
桜が散るさまは趣深い.…
桜の散ったものが無残に地面に積み重なっている….
色も褪せている….
アスファルトとの対比はいとおかしくない….ということである
人間の社会は人間のために存在するという意識が根強いのである
平安時代の人間と令和時代の人間の違いはここである。
平安時代は桜が散った上を人間が歩むにしても、そこには慈愛の念が存在していた。桜の存在に対して感受性を持ち接してきた。
道を歩くにしても、桜のカーペットというイメージである。
人間が歩んだ道は自然と道になって、それを風が整えていくのだ…
令和を生きる人間は日々に忙殺されている。ここでも時間に追われているのである。
季節とは巡るものである。重複されるものに価値を感じないという現代人の心の乏しい側面である。
人間かそれ以外かという認識の形式が取られているのかもしれない。
これらが二極化しているため、人間の感性というものは欠落したと考えた。
このことを踏まえて、一期一会という考え方は大切だと感じる…..
赤毛のアンという小説があるが、彼女のように非人間との出会いも大切に
出来るする人間になりたいと思う…
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