「僕になる」夢
すっごく、羨ましかったんです。
妻とお付き合いする前。私は初めて、彼女と食事をする機会を得ました。
助産師である妻は当時、私達夫婦の出会いの場であった総合病院を辞め、助産院で働いていました。
「いきいきしていて、素敵だなぁ。こんな人と一緒にいられたら、パワーをもらえて楽しいんだろうなぁ」
食事中、助産の魅力や助産師のやりがいなどを熱く語る妻が、私には光り輝いて見えました。
一方。
大学卒業後、労働組合書記からアルバイトを経て医療事務をしていた私。
「つまんないなぁ」
そんな思いで機械的に働き、鬱々とした日々を過ごしていました。
そんな気持ちの大元について考えると、小学校の卒業文集にたどり着きます。
私の「将来の夢」として、そこにはこう書かれていました。
「裁判官か外交官になりたい」
でも、今になって(厳密には結構前から)思うんです。
「よくよく考えると、それらに全っ然興味ないし、好きでもないよなぁ」
私の父は公務員。母は幼稚園の先生を長年勤めていました。
そんな両親を見ながら「立派だなぁ」と感じていた私は、世間的に見て『立派』と思われている職業に目がいったのかなと思います。
優しい2人には、「~をしなさい」と強要されたことは一度もありません。
でも私は「立派と思われている肩書き」を追い求め、親の期待に応えたいと、大学受験・職業選択にのぞみ続けてきました。
そして医療事務14年目のある日。私の人生は「詰み」かけることになります。
「その時」を迎えるまでの直近1ヶ月。私は謎の微熱が続いていました。
その日もいつものように、他医療機関との電話対応のために電話の前に座っていました。
すると、
「ようかんさん、どうしたの?電話かかってきてますよ」
「えっ!」
私はかかってきた電話の音がまったく聞こえませんでした。
その次の電話も聞き逃してしまった後、なんとか私の耳は通常に戻りました。
その後病院に行き適応障害の診断を受けて、私は休職に入りました。
「妻子もいるのに、僕は何をやっているんだろう?」
そんな情けない思いに苛まれることもありましたが、微熱も治まり徐々に体調も回復した私は、半年後に医師から仕事復帰のゴーサインをもらいました。
復帰にあたって私の中に医療現場に戻る選択肢はなく、退職し警備員になりました。
それからもうすぐ3年が経ちます。
この間、家族や友人・警備員の先輩方・ゴミ収集員の方々・配送ドライバーの方々などとの交流の中で、たくさんの素敵な経験をさせていただきました。
本当に素敵な方が世の中にはたくさんいらっしゃるんだなあと実感しています。
そして、なんとなくわかってきたことがあります。
私が真に求めている自分の姿は『立派』というよりは、『素敵』なんだと思います。
私は素敵な人になりたいです。
ようやく「夢のしっぽ」が掴めました。
今僕は、「僕になる」夢の中にいます。
その夢は大きくはないかもしれませんが、心底温かく、奥深いものだと感じています。妻への引け目も、もうありません。
大切な家族や友人、そして何より「自分自身」とともに、大好きになった警備員という仕事に邁進し、今を精一杯満喫して、夢を叶えたいと思っています。
息を引き取る時に「ママ、ありがとう。パパも結構素敵になったでしょ」って、心から言えるといいですよね。