『君たちはどう生きるか』を観ながら

このnoteは読書が趣味のオタクによる映画『君たちはどう生きるか』鑑賞メモです。ストーリーラインに沿って回想しつつ、観ながら考えていたことを散文的に連ねています。推定半分、妄想半分という信憑性には欠けるメモですが、ケーススタディとしてご覧頂ければ幸いです。

注意:この記事には映画本編はもちろん、連想した多数の作品のネタバレが含まれています。あらかじめご了承ください。


はじめに

宮崎駿の新作映画『君たちはどう生きるか』を観た。巨匠が円熟の技を注いで編み上げた良質なファンタジーだった。個人的にはとても好みの作品。

本作の印象を一言でまとめるのは難しいが、あえて喩えるなら『宮崎駿のおもちゃ箱』。今までに監督が好きだと言っていたもの、きっと観たり読んだりしたであろうもの、過去に作った作品――それら無数の印象が溶け合って、けれど完全に溶融してはいない絶妙なバランスで共存している。

そうした参考作品らしきものを想像しながら鑑賞するのも、本作の楽しみのひとつかもしれない。もちろん、個々人が思い浮かべるものは千差万別だろうし、監督本人に訊いたら「そんな作品は知らん、観てない」と一蹴されるものも多々あるだろう。それでも、浮かんだイメージを提示したり共有したりすることは否定されていない気がする。

そんなわけで、若干こじつけめいて申し訳ないが、自分がこの作品を観たときに感じたり考えたりしたことを記録してネットの海に放流してみることにした。

『君たちはどう生きるか』を観ながら

序盤

映画は空襲警報から始まる。夜を震わす不穏な大音響。炎に包まれる東京。風立ちぬに続いて今回も戦争ものかと身構える幕開け。
画面は2000年代のジブリ作品(千と千尋の神隠しやハウルの動く城)に比べると幾分線が細く見える。人物のアップはそうでもないが、激しく動き回るアクション作画を見ていると顕著に繊細な画風。作画監督が変わった影響だろうか。

B29が東京を火の海にしていく。照り返しの中を混乱して走る少年の姿は、あえて手書きの粗さを残したアニメーションで表現。この技法は高畑勲『かぐや姫の物語』で自由を求めて姫が屋敷から服を脱ぎ捨てながら飛び出すシーンのタッチに似ている。トトロと同時上映だった『火垂るの墓』の製作秘話(宮崎駿はトトロをやめて火垂るの墓に参加しようかと迷っていた時期があったという)を思い出す。このシーンは青春を捧げた高畑勲へのレクイエムの意味も込められているのだろうか。

すぐに舞台は田舎へ移る。作中では二年が経過しているらしいが、母を亡くした少年の心は未だ闇の中。空襲を避けて神秘の地へ――この導入は『ナルニア国物語 第一巻 ライオンと魔女』以来、児童文学の定番になった感がある。
明るく快活な義理の母ナツコ登場。少年と父を迎えに来た彼女は既に父の子を身籠っているらしいが、身重の身体で揺れる人力車を乗り回したりとどこか浮世離れして(あるいはこの世の重力から解き放たれたように)見える。
楽天的な実業家で飛行機工場を営む、いかにもマッチョな父親と義母。思春期の少年にはやや複雑な家族関係。少年の困惑は宮崎作品としては生々しく描かれているが、少年文学ではよく見かける光景ではある。宮部みゆき『ブレイブストーリー』ほど露悪的でもない。

資産家である母方の実家は和風建築と洋館の混在する城山の館。現実にこんな場所があるとは思えないが、魅力に満ちた造形で、モデルになった場所に行ってみたくなる。こうした架空建築物の魅力は宮崎駿ならでは。
空より飛来し、少年に付きまとい始めるアオサギ。この時点ですでに自然物としてではなく、キャラクターとして動いている。
館の奥の闇で蠢く影。恐ろしいものかと思いきや、六人と一人の老婆。カマ爺によく似た老人もいる。この場面は千と千尋にそっくり。やっぱり監督、湯婆婆が大好きなんだな(監督の母上がモデルという噂)。

主人公の少年の名前は眞人という。古代日本において真人は天皇の子孫が持つ姓。異界の王の血族の暗示か? 記憶が定かでないが、まひとには弔い人という意味があった気もするのだが、どこが出典の情報か思い出せないので保留。
叔母であり義母である女性との気まずい関係に戸惑う少年の鬱屈の表現は、宮崎駿よりも宮崎吾郎作品に近い印象。
執拗に眞人とコンタクトを取ろうとするアオサギ。しだいに妖怪じみてくる。

BGMについて。今作の音の作りは静謐がテーマなのだろうか。音量が大きくてもどこか遠い地鳴りのように響き、感情を強制的に揺さぶらないようにしている様子。新海誠作品とは対照的。音楽はいつも通り久石譲の担当。極めて淡い味わいに抑えられて、作品全体の繊細な印象を強めていた。

館の敷地、眞人たちの暮らす洋館の裏手、森の中には塔のある廃墟。入口は埋められ、中に入ることのできない禁忌の館。お手伝いの老人たちの言葉によると、この館はかつて少年の大叔父が建てたもので、当の大叔父は狂気に落ちて地下迷宮の奥へと姿を消し、行方知れずになったという。館の内装イメージは西洋のお化け屋敷。蜘蛛の巣の張った緋色の緞帳や不可思議なオブジェで飾られたゴシックホラーな室内。

ここでなんとなく思い出すのは、高楼方子『時計坂の家』。夢想的な人間を誘う魔性の奈落を秘めた美しい庭園。異界の庭に棲んでいるマトリョーシカ人形が、穴に落ちた人間の代わりにこちら側でお手伝いの人間に変わる。最後まで観終わってから思い返すと、奇妙に一致する部分があり、監督もこの作品を念頭に置いていたのでは、と思ってしまう。

作中では館の外観同様、洋風と和風のモチーフが交錯する。邪気を祓う破魔矢とバロックな洋館が同じ画面にある。
学校に馴染めない鬱屈から、尖った石で自傷する少年。これは異界の継承者の証であると後に大叔父から伝えられる。傷が跡継ぎの証になるのはプルマン『ライラの冒険』シリーズでも見かけた。第二巻、ウィル・パリーは神秘の短剣で指先を切り落としてしまうが、それが時空を裂く短剣の使い手となる運命を示す証だという。悪意によって己を損なうモチーフは村上春樹作品にもたびたび登場する。今作の闇の味わいは村上春樹の暗黒にすこし似ているかもしれない。

眞人はアオサギの誘いに抗うが、義母がさらわれたことが最後の一押しとなって禁忌の塔に向かう。母方の血筋には神隠しのように姿を消したり、不思議な声を聞いたりする者がいたという。彼もその血脈に呑み込まれ、チーズが溶けるように柔らかくなった広間の床から地底へと沈んでいく。
半径こそ違うが、塔は井戸に似ている。絶壁に囲まれた閉鎖空間。その石壁が溶けて異界と通じるイメージは村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の井戸の底。しかし、ここでは闇のホテルではなく、死と生活感の同居する意外と明るい異界へ辿り着くのが宮崎作品らしい。

中盤・異界にて

宮崎駿は異界の表現が秀逸だ。千と千尋の水上列車のシーンも素晴らしいが、今回の水の異界も良い。当初、背景にはターナーの水墨画を思わせる天地と水面、そこを漂う無数の帆船が見えている。

最初に眞人が訪れたのは閉ざされた墓所。昏い糸杉が立ち並ぶ石造りの墓はアルノルト・ベックリンの絵画『死の島』を意識している。ここは島ではなく、海に向かって突き出した細長い半島の先端なので渡し守はいない。西洋では糸杉は死と喪失の象徴であり、墓地には糸杉がよく植えられている。過剰なまでの死の匂い。

岩屋めいた墳墓の形状はアイルランドやイギリスの巨石遺跡にありそうだけれども、九州地方の古墳玄室に見られる石屋形にも似ている。写真で比べると面影がある。
古の墓所、古い岩に悪意が秘められているのは『ゲド戦記』一~三巻でお馴染みの設定。四巻以降にはこの設定は残っていない気がするが。

『我を学ぶ者は死す』という暗示めいた箴言。意味するところは複雑だろうが、その中のひとつは「俺のアニメばっかり見てちゃだめだよ」という監督が常々言っているメッセージかな。もう少し広い視界を持ちなさいよ、という感じ? それ以外の意味ももちろんあるはず。

眞人を導くアオサギ。徐々に鳥ではなく人間めいた妖怪としてコミカルさが増していく。
一方で人喰いペリカンはかなりホラー。
若き水案内人が登場。火の円陣で結界を張る。古い時代から続く宗教的なまじないのイメージ。
笠をかぶった黒い半透明の影のような人々が、長いカヌーを操って水上で暮らしている。ベトナムなど、東南アジアの風景みたいだ。

人の集う場所で、何やらわらわらしている白いマシュマロ風の生き物と遭遇。これは絶対に関係ないけどプリンタニア・ニッポンに似てる(作者もTwitterで似てるのが出てきたと喜んでいた。良い漫画なのでぜひ)。可愛い。こういうゆるキャラが増えてくると駿作品らしくなる。

ワラワラ(童童)という彼らは未生の子供らしい。メーテルリンクの『青い鳥』では空の国にいた彼ら、ここでは地底の水の国で魚を食べて育つ。
白いものが未生の子供なら、黒い大人は亡霊の類だろうか。
この辺りから本格的にファンタジーになって楽しくなってきた。

ワラワラが熟して、浮上の時を迎える。最初の一匹に眞人が手を貸していたが、あれは誰になるんだろう。やがて生まれてくる弟か、それともいつか出会う別人か。生まれる前に助けてくれた誰かと再会したら素敵だなと思う。
ペリカンの襲撃を打ち払う焔の魔法使い・ヒミ。火と水、それとも火を見る?
この土地で館の六人の老婆は人形として現れ、老女だった霧子は若き船乗りの姿をしている。
ペリカンの最後の呻き、ここは地獄であるという。

アオサギは風切り羽の七番目を眞人に握られているせいで反抗出来ないらしい。このネタは何かの本で読んだ気もするが、単純にペットの風切り羽を切って飛べないようにすることを示しているのかもしれない。
この辺りでアオサギは面白い小悪党おじさんにシフトした。癒やし。

人喰いインコぎっちりハウス、いよいよ監督が性癖を隠さなくなってきた。鳥類が興奮したときに胸元を膨らませる画面はジブリらしくて好き。

ヒミとの再会。案の定、彼女は眞人の母だという。若い頃に一年間失踪していたという彼女と時空を越えて出会ったというわけ。
現世よりも死の国に近い場所で暮らす炎の使い手ヒミは非常に強力な力を持つ。現世での彼女はやがて空襲の炎に焼かれて命を落とすが、その運命が逆転的に時空を超越したこの異界で焔の魔力として結実しているのだろうか?

異界に建つあの館には時空の回廊がある。無数の扉が並ぶ風景を眺めているうちに、ジョージ・マクドナルドの名作『お姫様とゴブリンの物語』を思い出した。一方で、『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる闇のホテルで妻を探す場面も思い起こしたりした。
義母の名はナツコであるから、彼女の居場所に続く扉は725番かと思ったが、そんなことはなかったね。

現世サイドでも物語は続く。眞人の父親は強引でお調子者ではあるが、二人の妻や息子を想う心は本物のようだ。もっといい加減な人物かと思っていたので意外だったが、これくらいの鈍感さと純真な楽天的感性、そしてバイタリティがないと死と闇の力に片足を突っ込んでいるような一族の娘たちを妻に迎えることは出来ないのかも。

終盤・基底の産屋と塔の頂

義母の居場所はインコのひしめく宮殿の地下深く。基底部は石造り。ここの岩は意思を持つ。ラピュタの人工飛行石がそうだったように、外敵を拒み排除する力。

義母は産屋で死んだように眠っている。ヨーロッパ風の緞帳の奥に隠された産屋は生命の生まれ出づる場所としてはあまりにも不吉な眺め。
鳥の羽と産屋といえば日本神話のウガヤフキアエズ。あるいは同行する炎の娘が暗示するのはコノハナノサクヤヒメか。いずれも天皇家の始祖であり、眞人の名のイメージと呼応する。コノハナノサクヤヒメは神として降り下った天孫に死の運命を決定付ける逸話に絡む。濃厚な生と死のイメージが交錯している。

産屋の中央で横たわるナツコはまるで死人のよう。天井から吊るされた呪符の輪が大変禍々しくて良い。
産屋は墓に似ている。生と死は同じところから生じる。ナツコは眞人の母に酷く似ている。二人の女がいるというより、一人の女の同位体を見ている気さえする。

目覚めたナツコは本音と嘘の混じり合った言葉を吐く。眞人は戸惑いつつも覚悟を決めて彼女を母と呼ぶ。
呪符が細布に変じて二人を絡め取り、眞人と黄泉の国の女となったナツコを分かつ。
弥生時代、山陽山陰地方には死にまつわるものを布でぐるぐる巻きにして現世と分かつ宗教的モチーフがあったという。たとえば国の重要文化財『旋帯文石(弧帯文石)』は岡山県の弥生時代の墳墓から出土したもので、その帯状の結束は死者を守るとも、死者の気配が現世に漏れ出すのを防ぐとも考えられている。そんなことを思い出すシーンだった。

そういえば、眞人はこちらで何度もご飯を食べているが、ヨモツヘグイのタブーは通用しないらしい。食に対する肯定がいかにも宮崎駿作品らしいなと想う。

幾何学的な乳白色の石のトンネルをくぐる幻視はSF的。
この世界の成り立ちが明らかになっていく。すべての発端となった塔は、江戸末期に落ちた隕石をそのまま利用しているらしい。この隕石に神秘の力があり、人間の幻想とリンクして増殖し、世界を拡げている?

大叔父の領域はイデアの世界に近いのだろうか。奥泉光『鳥類学者のファンタジア』に現れる異界を思い出す。そういえば、あの話の根本を支える女性の名もキリコだった。ジャズ奏者のフォギー(キリコ)。本作に登場する船乗りのキリコ、さらに大叔父の邸宅はジョルジョ・デ・キリコの絵画のよう(ルネサンス前期のテンペラ画のイメージもあるが)。

鳥の王様、AIに描かせた鳥貴族のイメージイラストを見たばかりだったのでちょっぴり笑ってしまった。やたらと動きが良い。
この世界の核となる巨石はどこかで見たような懐かしさ。

取引のため、硝子の棺に入れられて運ばれていく眠れるヒミ。明らかに白雪姫のイメージが重ねられている。彼女もまた黄泉の女だったのだなと思う。

ラスト~スタッフロール

悪意から自傷し、消えない証を負った眞人は、無垢なる石に触れることはしない。世界は鳥の王の手で崩れ始める。継承は断ち切られ、世界は終わる。しかし、それは不幸なことではない。罪と穢れに満ちていても、汚泥の中から新しい世界と人の営みは生まれ来る。かつて漫画版『風の谷のナウシカ』で描かれたのと共通するメッセージ。

眞人は義母の手を引いて現世に戻る。ヒミは過去の世界へ。早逝すると知りながらも眞人を産むために明るく現世に帰っていく彼女のしなやかさ、良いなと思った。

米津玄師の主題歌は素直な印象の素敵なバラード。
スタッフロール、作画監督は本田雄さんだった。師匠じゃないか。『エヴァンゲリオン』が有名だけれど、『電脳コイル』のキャラクターデザインや『ふしぎの海のナディア』とか好きだったなぁ。原画に井上俊之さんや福島敦子さんを見つけてニコニコする。井上さんは『電脳コイル』のメイン作画監督や『おおかみこどもの雨と雪』で雪の丘で遊ぶ親子のシーンを担当した凄腕動画マン。福島敦子さんはアニメーターとしてもだけれど、『ポポロクロイス物語』シリーズの絵が好き。
声優にキムタクがいてびっくり。他の方々も豪華だ…。

宮崎駿の好きなものを集めたおもちゃ箱をかき回しているのだが、完全に溶融して一つになる前に取り出したような作品。何かを思い出させるような小さな欠片がいたるところに散らばっている。オマージュというには詰め込まれたイメージが雑多すぎて、全体としてオリジナリティの高いものになっているという、変わった味わい。豊富な暗喩とイメージの結合はまさに巨匠の作品という感じ。アクの強い濃厚なワインを飲んだ気分。

まとめ

この映画、岩波少年文庫や有名児童文学の愛好家にはしっくり来るのではないか。『リリス』等の古典的ファンタジーを読みなれた人間にも堪らないものがあるかも。逆に、シンプルなエンタメを期待すると気味の悪い作品と感じると思う。

この不気味さは元々宮崎作品に含まれていたものではある。カオナシやシシガミなどが顕著だろうか。今までは明るさに隠されていた不気味さをより強く表に出したのが本作だと思った。

生(性)と死が濃厚に香る異世界。そこからの帰還と回復。ファンタジーの本質は一次的な逃避と慰め、回復にあるとトールキンは『妖精物語とは何か』で主張した。その意味でファンタジーというジャンルの本質を活かした正統派の作品だった。

ちなみに、本作は吉野源三郎の少年文学からタイトルを借用しているが、内容は全くの別物で、作中で主人公を元気づけるアイテムとして登場するのみ。ストーリーラインはむしろジョン・コナリー『失われたものたちの本』に近いという噂なので、こちらも近いうちに読んでみようと思う。

補足

映画を見ている最中、何度も思い浮かべながらも回想メモから敢えて外した作品がある。新海誠『星を追う子供』、あまりにもジブリ的な画面と設定に満ちたファンタジー映画。
『星を追う子供』は死者の復活を叶えるために不思議な石を拾った少女が地底の国を旅する物語。『君たちはどう生きるか』との共通項は多いのだが、宮崎駿がこの作品を念頭に置いていることはないように思う。

新海誠が宮崎駿作品を参考にしているのは何度も本人が言及しているし(『すずめの戸締り』では意識的にジブリをオマージュしている部分がある)、『星を追う子供』はかなり危険な水域までジブリに寄せた作品だった。
一方でジブリサイドから新海作品への言及は少ない。昔、高畑勲が新海作品を手厳しく評論したくらいか。宮崎駿は作品自体見ていないかもしれない。
宮崎駿作品を勉強しすぎた新海誠と、同じようなテーマで映画を作った宮崎駿の作品に、たまたま共通項が複数発生しただけ、というところだろうかと想像している。

なお、「我を学ぶ者は死す」とわざわざ作中で述べているので、あまり参考にするなとは新海監督だけでなく、全アニメーターに対して言いたいところかもしれない。
妄想終わり。


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