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【短編小説】ユートピア
ウサギのピーターが死んだ。
ピーターというのは児童書のピーターラビットから頂いた名前で、命名者は私の友達の美鈴だ。
ウサギの世話は6年生全員が交代で行っているんだけど、ピーターの死体を見付けたのは私が当番の時だった。
その死に方は、ちょっと普通じゃない。
まるで布を裏返したかのように体の内側が丸見えで、内臓全部がそっくりそのまま転がってた。周りに散らばった体毛とか長い耳の残骸から、かろうじてこれがピーターだってわかったけど、ウサギ小屋以外の場所で見付かってたら何の生き物かすらも咄嗟にはわからなかったかも。
野生の動物が食い散らかしたって感じじゃない。明らかに人間が、わざわざ懇切丁寧にピーターの体を腑分けしたのだ。
当然、学校中がこの話題でざわめいた。
先生たちは顔を青くしてここ数日話し込んでるみたいだけど、私も含め子供っていうのは残酷な話が大好きなのだ。
「ねーねー。里咲は大丈夫だった?」
学校からの帰り道、美鈴は私のことを心配して声を掛けてくれた。
美鈴は事あるごとにクラスの皆を気遣ってくれる、博愛精神の塊みたいな女の子だった。
「うん……。凄いびっくりしたけど、わりと平気だったよ。ピーターのことは可哀想だって思うけど」
私が薄情なのか案外これが普通の反応なのか知らないけど、ピーターの死体を見付けた私は至って冷静だったと思う。取り乱すことも無く迅速に担任の先生へ報告できたし。
確かに今思い出すと気味が悪くはなる。
ぷーんと鼻を突くような腐臭。赤黒い肉塊の中で蠢く何十匹もの蛆虫。
誰だって目を反らし、一刻も早くその場から立ち去りたくなるような気持ち悪い光景だ。
だけど、私はこんなことを考えてしまう。
あの夥しい血も、内臓も、動物ならみんな体の内側に秘めてるものなんだ。誰だって持ってるそれを、表に出されただけでどうして私たちはこんなに不愉快になるのだろう。
みんなピーターを可愛がってたけど、あのグロテスクな肉塊になったピーターを見たら誰もが吐き気を催すに違いない。
誰だって刺したり斬られれば血は出るし、内臓が零れたりもするだろう。そんな過激な例を出さなくとも、みんなが毎日してるウンチやオシッコだって、みんなの体の中にあるのにまるでこの世で最も汚らわしいものとして扱われている。
似たようなことはもっと昔から考えてたけど、今回の一件でそれがより確固たるものになった気がする。
まぁ、だからと言って別にグロいものが好きなわけじゃないし、こんなこと口にしたら異常者だと思われそうだから誰にも言ったことないけど。
「何か、面白いことを考えてるね」
ドキリとした。
私に不意打ちを食らわせたのは、同じクラスの彼岸――ひーちゃんだ。
彼岸っていうのは、もちろんお彼岸じゃなくて女の子の名前。親のネーミングセンスはどうかと思うけど、確かにひーちゃんは私みたいなその他大勢の此岸とは纏ってる空気が違う。
ドイツ人と日本人のハーフなんだけど、透き通るような西洋人の透明感とエキゾチックな東洋人の魔性が合体した美しいキマイラって感じ。
クラスの誰よりもスタイルが良くて身長も高い。多分女子高生を名乗っても怪しまれないと思う。勉強も体育も誰にも負けないし、ちょっと浮世離れしてるところはあるけど誰とでも分け隔てなく接してるように見える。欠点が見つからないところがこの完璧超人の欠点だ。
「もう。びっくりさせないでよー」
「私も全然気付かなかった」
私も美鈴も、ひーちゃんから声を掛けられるまでこんな近くにいたことにまるで気が付かなかった。幽霊のようにふらりと現れたひーちゃんは、意味深な笑みを浮かべて私の顔を覗いている。
「里咲が考え事してる時は、そうでない時より背が丸まってるからね」
澄んだ瞳で見つめられると、女子の私でもドキドキしてしまう。心の奥底、秘め隠しておきたい恥部まで余さず暴かれてしまいそうな――
「ピーターのことは残念だったけど、あまり気に病むことはないよ」
「うん。ありがとひーちゃん」
そのまま私と美鈴とひーちゃんの三人は、夕暮れの帰路を他愛のない話を続けながら歩いていた。今度の日曜三人で映画を観に行こうとか、クラスの某彼と某彼女がいい仲とか、中学校はどんな所だろうとか、その他色々。
三人の分かれ道となる十字路まであと少しという所で、美鈴が不意に夕空を見上げた。そろそろ一番星が見える時間帯だ。
「あれ、また大きくなってるね」
あれ、というのが何を指すのか、私もひーちゃんもよくわかっていた。
惑星ペレグリヌス。
ラテン語で「巡礼者」を意味する名を与えられた真紅の巨星は、半年前ハッブル宇宙望遠鏡によって観測された。初めは亜光速に近い速度で宇宙を彷徨っていた巨大な巡礼者は、太陽系に近付くと徐々に減速し、今やその姿を地表から肉眼で確認できるほど近い場所まで接近している。
その直径は地球の約3000倍。衝突すれば間違いなく人類は滅亡するが、専門家たちはやがて衝突コースを逸れるだろうと発表している。
「自分で勝手に減速するなんて、まるで生きてるみたい」
私は自分の思ったことをそのまま口に出した。物理とか天文学とか難しいことはよくわからないけど、地球に近付けば近付くほど遅くなる超巨大隕石なんて在り得るのだろうか。あの星に何か意志のようなものがあり、それが進む方向や速度を制御していると考える方が、ちょっと荒唐無稽かもしれないけど私には自然に思える。
「本当に、生きてるかもしれないよ?」
「えっ!?」
「そんなまさか」
私も美鈴も、ひーちゃんのペレグリヌス生物説に驚いた。自分で妄想しておいてなんだけど、クラスの誰よりも頭のいいひーちゃんが私の突拍子もない意見に賛同してくれるなんて思わなかったからだ。
「ちょっと変な話をするけど、いいかな?」
「うん」
「いいよ、聞かせて」
夕空から夜空に変わりつつある頭上を眺めながら、ひーちゃんは思いも寄らないことを喋りはじめた。
「人間は誰もが、暗闇に恐怖を抱くよね。夜中の学校とか病院なんて最高に怖いし、そもそも自分の家だって真夜中に電気を消したままだとみんな怖いと思う」
「それは、まぁ……」
「ひーちゃん、もしかして肝試しがしたいの?」
「いや、そうじゃない。そんな身近な空間でさえ、闇に閉ざされたら戦慄を覚えるのが人間だけど――」
そこでひーちゃんは一拍置いて、それから――ほんのりとだけど微笑を浮かべたように見えた。
「底まで何千メートルもある暗い海溝とか、無限大の暗黒物質を孕んだこの広い宇宙は、一体どれほどの恐怖に満ち満ちているんだろうかって思うんだ」
「……うん?」
美鈴がわかったようなわかってないような、曖昧な相槌を打つ。
「口裂け女やトイレの花子さんが日常に潜んだミクロスケールの恐怖だとすると、深海や宇宙の果てには、私たちの想像を超えたとんでもないスケールの怪物が眠ってるって思わない?」
「うーん……。それじゃあ、つまりペレグリヌスがその“とんでもないスケールの怪物”ってこと?」
その時ひーちゃんが浮かべた笑みは、どこか切なげに見えた。
「うん。まぁ、そうだったら面白いなってだけの話だけどね」
次の日の朝、私はピーナッツクリームを塗った食パンを頬張りながらスマホでニュースを読み始めた。
そのどれもが通り魔や猟奇殺人、あるいは遠い外国の爆破テロ事件だった。
ここ最近、世界中で陰惨な暴力事件や過激なテロ活動が多発している。登下校中の小学生が通り魔に刺されるなんて日常茶飯事だし、街中の公園でオブジェクトのように飾り付けられた死体が見つかったなんて事件も何度か耳にした。
ここ半年の間に、世界はすっかり病んでしまった。誰も彼もが病み果てていた。みんな誰かを攻撃せずにはいられないようだった。
そして、今日のトップニュースは――
「えっ……。嘘でしょ」
スマホの画面には、天地を結ぶ白い世界樹のようなものが聳え立っていた。
キノコ雲だ。
大阪のど真ん中で、原子爆弾が爆発したようだった。
どこの国が、組織が、あるいは個人が、この恐るべき蛮行に及んだのかは目下のところ全く不明。
ただ西日本を代表する都市が阿鼻叫喚の地獄絵図と化しているのは、まさに火を見るより明らかだろう。
何かの悪い冗談、あるいは悪夢でも見ているかのように、現実感がなかった。
自分が当事者ではないからというのもあるだろうが、むしろこうなることがあらかじめわかっていたような気もする。
みんなが暴力の渦に呑まれ、感化され、自らもまた渦を巻き始める。そうして数え切れない狂気の螺旋が世界を包み込んで、やがて全てが虚無に帰る。
ウサギのピーターが殺されたのもその渦の一つだし、今最も巨大な渦が人類最強の暴力――核兵器を行使した。
一体何が人々を狂気へと駆り立てるのか、原因はおそらくあれだろう。
「ペレグリヌス。あれは巡礼者というより、狂気を伝え歩く伝道者だね」
昨日三人が分かれる前に、ひーちゃんはそんなことも言っていた。
「ペレグリヌスの存在が世間に公表された時、世界中を未曾有の恐怖が包み込んだ。そして人が恐怖から逃れる最も手っ取り早い方法。それは、自らが恐怖そのものになることだよ」
ひーちゃんの言ってることはよくわかる。
幽霊が怖かったら、自分が幽霊になってしまえばいいのだ。
殺人鬼が怖かったら、自分が殺人鬼になってしまえばいいのだ。
だけどそれはあくまで極論であり、暴論だ。それでは世界中が化け物と人殺しだらけになってしまう。
でも、そんな極論であり暴論であるところの恐怖の無限ループが、今現実のものになろうとしている。
人類史上初の、超巨大な恐怖の塊――巨星ペレグリヌスの出現によって。
「多分ペレグリヌスは、地球へ近付くより以前から幾つもの星々を滅ぼしてきたんじゃないかな。恐怖の波動で惑星を包み込んで、そこに住まう者たちを自滅させる破滅の伝道者。星から星へ終末を配り続ける生きた災厄」
一体何でそんな残酷なことをするのか、私には皆目わからなかった。
あの巨大な惑星が生きているなら、私たち人間から見ればほとんど神様みたいなものだ。
それが故意に、行く先々で破滅を齎すだなんて。
そんな私の心中を見透かしたかのように、ひーちゃんはなおも言葉を紡ぐ。
「あれが神か悪魔かはわからないけど、人間の想像を超えた存在であることは確かだよね。テレビによく出てる自称専門家のおじさんたちは地球にぶつかることはないって言ってるけど、あれは何の根拠もない憶測だよ」
テレビや新聞の内容を全部真に受けてる私には思いも寄らない発想だった。
まぁ、それを言ったらひーちゃんの言ってることも大分怪しいけど。
「宇宙の果てにはあれ以外にも、私たちの常識を超えた神々が息を潜めてるんだよ。ちなみに、人間の体には何百兆もの微生物が住み着いてるんだけど、私たちはまさに神様から見た微生物みたいなものだね」
「ひーちゃん凄い。どうしてそんなことがわかるの?」
美鈴はすっかりひーちゃんの自論に心酔しているけど、さすがにここまでスケールの大きな話になってくると私にはちょっと眉唾物に思えてくる。なんか危ない新興宗教みたい。
実際ひーちゃんは、美鈴の質問には言葉を濁したままその日は別れることになった。
なんでひーちゃんは自信満々にあんなことを言ったのか、私にはよくわからない。けれど、現にペレグリヌスの存在が公表されてから世界中の人たちがどこかおかしくなっちゃったのは事実だ。
あるいはひーちゃんも、そんなおかしくなっちゃった人間の一人なのだろうか。
これ以上考えてもしょうがない。きっと大人たちがなんとかしてくれるよ。
楽観的な私はそう結論付けると、食パンの残りを口内に押し込んだ。
早く学校に行かなくちゃ。
それはいつもの登校風景ではなかった。
通り過ぎていく家々から、狂ったような悲鳴や怒号がひっきりなしに聴こえてくる。
誰かが怒っている声。誰かが泣いている声。
誰かが暴力を振るっている声。誰かが暴力を振るわれている声。
怖くなった私は耳を塞いで、一目散に学校目掛けて駆けていった。
学校には友達が沢山いるし、先生たちならきっとなんとかしてくれる。大人たちはきっと私みたいな子供には思いも付かない方法で事態を収束させてくれるだろう。
でも変わり果てた世界は、私の視界にもその姿をまざまざと見せ付けてきた。
そこら中で、火の手が上がっているのだ。
通りに軒を連ねる建物の悉くが、紅蓮の猛火に呑まれている。道路には、引っ繰り返って炎上した自動車が山のように積み重なっていた。
ふいに耳をつんざく爆音が上空から聞こえたので空を見上げると、立ち昇る煙を吸ったかのように黒々とした曇天だった。暗雲を裂いて現れた爆音の主は、煙を上げながら落下してきた大型旅客機「ボーイング747」だ。
緩やかなスロープを描きながら下降していく旅客機は、日常に終わりを告げる墓標の如く大地に突き刺さった。
私は思わず、目も耳も閉じてその場に蹲ってしまった。
世界はもう取り返しがつかないほど壊れてしまった。壊れ果ててしまった。
昨日まではなんとか体裁を保っていた我らが社会は、たった1日でこんなにも様変わりしてしまったのだ。
私は悪夢を見ているのだろうか。しかしほっぺをつねっても狂気の世界は消えてくれない。
予兆は確かにあったのだ。全世界規模で、徐々にではあるが陰惨な暴力・殺人事件が過去に例を見ないほど多発していた。何かできることはあっただろうか。みんながもっとこの事態を重く受け止め、一丸となって対処していれば未然に防げたのだろうか?
「まぁ無理だろうね。人間が人間でいる限り、誰にもこれは避けられなかったよ」
「うわっ!?」
ひーちゃんはまた何処からともなく現れた。本当に気配を殺して近付いてくるのが上手いと思う。
「里咲の考えてることはわかるよ。なんでこんなことになっちゃったのか、回避する方法はなかったのか、ってね」
まったくその通りだ。前から思ってたけど、ひーちゃんは読心術まで使えるのだろうか。
「ひーちゃんはホントに何でも知ってるんだね」
「何でもってわけじゃないよ。私は別に全知全能の神様なんかじゃないんだから」
本人は謙遜してるけど、近頃のひーちゃんはちょっと人間離れしてるほど物事の本質をピタリと言い当てている。クラスの皆からの相談に対して、どれもこれ以上ないほど的確な助言をして何人もそれに助けられてる。昨日みたいに変な電波受信したようなことも口にするけど、もしかしたらそれらも全部本当のことなのかも。
「でも、神様が何を考えてるかは、なんとなくわかるかな」
普段なら半信半疑で聞き流してただろうけど、狂気と正気が反転したこの世界では、逆に何もかもが信じられた。下界を高みから見下ろす神様みたいな何かがいたとして、これはその神様が下した罰なのだろうか。
目に見える報せまで用意してやったのに、それらに見向きもせず現実を逃避した人類への、罰。
「神様は、みんなをほんの少しだけ“正直”にしてあげたんだよ」
だけど、ひーちゃんの言う神様の思惑は私の想像とはまるで違っていた。
「社会の秩序を維持する為に、雁字搦めの世界で生きている私たち。自分の欲望を抑え込んで、体面だけ取り繕った自称常識人の常識人ごっこ」
ひーちゃんの言動は、いつにも増して浮世離れしていた。まるで、人の世界を冷厳な眼差しで客観視している高次元のナニモノか。
「それは人間が文明を維持・発展させていくために身に付けた知恵だけど、じゃあそんなに我慢を重ねてまで守る価値があるのかな、この世界は?」
ひーちゃんはとても恐いことを言っている。けれど、なぜだかそれに惹かれている私がいる。
「何百万年も続くヒト族総我慢比べ大会は、今やその参加者が70億人を突破した超大人気のイベントになりました。だけど、そろそろみんな疲れてくる頃だよね? どんなお祭りにも終わりは来る。永遠に歌って踊れる人なんていない。でも自分たちじゃ中々終わり時がわからないし、人それぞれで意見が一致しないので、業を煮やした神様が無理矢理終わらせてあげることにしました」
もはや私はひーちゃんの話に口を挟むことすらできなくなった。恍惚と言ってもいい表情で、ただ曖昧に相槌を打つだけの木偶人形と化している。
「なんでそんなに勉強するの? なんでそんなにお仕事するの? なんでそんなに汗かいてるの? なんでそんなに考えてるの? なんでそんなに怒ってるの? なんでそんなに怒られてるの? なんでそんなに頑張ってるの? なんでそんなに我慢するの?」
ひーちゃんは突然私に抱き着くと、全身を優しく撫で回し始めた。
「なんで気持ちいいことだけして生きられないの? 苦しいことが人生の大半なら、なんでみんな好き好んで生きてるの?」
ひーちゃんの潤んだ瞳が、私の眼前に迫る。熱に浮かされたようなひーちゃんの独白に、私はすっかり呑まれていた。
「みんなもっと“正直”になろうよ。気持ちいことだけして生きようよ。それが出来ないなら、さっさと死ねばいいんだよ」
歌うように、言祝ぐように、ひーちゃんの言葉は止まらない。それが本人の意志なのか、神なる何かに突き動かされてのものなのかはわからなかった。
「苦しいなら死ねばいいさ。楽しくないなら死ねばいいさ。そうすれば、この世に残るのは笑顔だけ」
笑えないなら死んでしまえと、泣きながら歩き続けるくらいなら死んでしまえと、その心底優しい殺意が神の愛なのだろうか。
そしてその愛を享受しろと、反論は許さないと、そうひーちゃんは言っているのだ。
この愛で笑い、この愛で死ね。
「里咲、私は笑って生きたいよ。自分に正直に生きたいよ。ほら、みんなも同じみたいだよ」
ひーちゃんが指差す方へ目を向ける。
そこでは、美鈴がおじさんに強姦されていた。
豚みたいに丸々と肥え太った中年男性が、未成熟な美鈴の肢体に圧し掛かり、猛り狂った肉棒で刺し殺そうとでもするかのようにピストン運動に専念している。
「美鈴ちゃん。美鈴ちゃん。おじさんはねぇ、美鈴ちゃんのことが、前からずっと大好きだったんだ」
脂ぎった肉体を少女の華奢な体に打ち付けて、その欲望を全身で表現するおじさん。
そういえばあのおじさんは、いつも通学路に旗を持って立ち、交通安全を呼びかけている近所でも評判のおじさんだった。本当に気さくなおじさんで、私たちの間でもそんな悪いイメージはなかった。
それでも、心の奥底ではああいうことを望んでたんだ。
確かに醜いし、見るに堪えない気持ち悪さだけど、今の私にはあれが人間の本質なんだと実感できる。
健康で文化的な生活を営む大人たちの社会は、虚飾と虚栄の仮面を被った壮大な舞踏会だ。
どいつもこいつも汚らしい本性を秘め隠してるくせに、他人にはやれ世間がどうの常識がどうのと御高説を垂れ流す。なんて滑稽なんだろう。
そんな気味の悪いことをしなければ維持できない世界に、そもそも存在する価値なんて無いんじゃないだろうか?
そんな当たり前の、でも誰もが見て見ぬふりをしてきた事実を、親切な神様は教えてくれたのかもしれない。
周りを見渡してみると、他にも色んな人たちがいた。
旦那さんの頭をフライパンで滅多打ちにしてるお姉さん。
子供の腹を裂いて腸を首に巻き付けてるお兄さん。
子供向けアニメのコスプレ着たまま窓ガラスを叩き割るおばさん
裸でウンチをひり出して、それを自分の体に塗り広げてるおじさん。
みんな楽しそうだった。心の底から幸せそうだった。
みんな、じぶんに正直になれたんだ。好きなことを好きなだけできるようになったんだ。
正直になれなかったへそ曲がりさんたちは、きっとみんな死んだんだろう。
なんて素晴らしい世界だろう。ここではだれもが幸せになれる。理性という名の醜い衣を剥ぎ取った、美しい狂気の世界。
ひーちゃんが唇を重ねてきた。
女の子同士で初めてっていうのもびっくりだけど、その甘美な味わいはまさに蕩けるような心地だった。
ひーちゃんは自分に正直になれた。今まで押さえてた愛情の塊が、全身で弾けていた。
私もそろそろ正直になるべきかもしれない。解き放つべきかもしれない。
貪るように私の舌を吸い上げるひーちゃんの顔を見て、わたしの目はスッと細まった。
ウサギを殺した、あの日のように。
惑星ペレグリヌス。
直径約三千七百万キロメートルの赤い巨星は、地球を目前にして完全に静止していた。
巨星には、人類には想像も付かない壮大なスケールで機能する、意思、あるいは魂とでも呼ぶべきものが存在するようだった。
その意思は、当面の目的を果たせたことに大変満足しているようだ。
巨星が“教化”を終えた星系は、これで三千二十一億七千二百六十七万四千三百二十八個目になる。
何度繰り返しても、一仕事終えた感慨というものは何物にも代え難い。
残り三兆七千八百三十一億二百一万五千九百八十二個の星系も、この調子で頑張っていこうじゃないか。
全宇宙の“教化”が完了すれば、こことは別の宇宙に幽閉された仲間たちをこちら側に呼び戻すことが出来る。
それまでにあとどれほど膨大な時間が掛かるかはわからないが、最後まで決して諦めてはならない。
諦めなければ、夢はいつかきっと必ず叶うのだから。
終