室井光広日録(3)
2005.12.5(月)
入眠困難と早朝覚醒。眠剤なし。
民俗学を学習しつつ、それでは<反俗学>はどうなったのかと誰やらから問われる夢。
形式的な宴はしりぞけるとしても、ギリギリ必要なほんたうのシュンポシオンは? 通俗忘年・新年会など無用――。
寺子屋学校では、スタッフがモノカキであるおかげで、その種の宴会がない。コレハアリガタイコト。
文壇忘年・新年会の類すべてに背を向けることがしぜんに(コレが大事)成就。
ブラヴォ。でも、少数者に声を肥え(ダラ)のようにかけて、ギリギリのコトホギ・タママツリはやるか。延年のイワシ舞い。
イワシが魚偏に弱とかくのは……。
大きな魚に食べられまいとして、かれらは、必死で逃げる。そのさい、ウロコをいっせいにはがし、その銀ぷんで敵をカクランするのだという。にんげんのアミにかかる時もそうした振舞があるゆえ、魚屋に並ぶかれらの身体にはやはりウロコがほとんどない。あわれなハナシではないか。
イワシも、四十代の終りに死に損ねた際、身そぎのウロコをだし尽してしまった。Alas!
柳田師によれば、九州のどこやらではかつてシメナハをなうとき、かたわらにあえてなまぐさい魚をおき、ソレにさわりながら(ソレを付け水がわりにして)おこなったそうな。よいハナシ。
文壇の大御所などの作物も、一通り勉強すること。アレルギー反応を極力ふうじ込め、今は、ただひたすら、学ぶこと。あれも、これも、勉強すること。
(50になって、やることではあるまい、という声も封じ…)
・・・・・・
この頃の日録は、〝イワシ〟という自称を用いている。批評文の類で〝わたし〟を〝ワラシ〟(童)と言い換えている例はあるけれど、〝イワシ〟は日録でしか使っていないのかもしれない。
室井さんの<反俗>への願いを読むと、心が澄む。(2024.1.31)
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