ヴェネツィア的節電
3.11直後、節電モードになった東京は一時ヨーロッパの町のような灯りの量になり、町としての風情を取り戻したように見えました。
本来陰影礼賛の文化を持つ国なのだから、抑制のある美について感じるものがあるはずだと、少しほっとしたものです。
25年前にヴェネツィアとそこに住む人々の自然とシンクロして生きる暮らしに出会って、生活の質、本当の豊かさとは何かに気づかされました。
以来、ヴェネツィアに通い、東京においてもヴェネツィア的生活と称して
小さいエネルギーで暮らす都市型スローライフを実践してきました。
繁栄という名の下に効率やスピードを求めて走り続ける世界に、いいようもない不安を感じていたからです。
私たちの国は、経済発展の名の下により多くのエネルギーを消費する
システムを構築、推進し、CO2削減の命題とさらなる効率を求めて原子力
エネルギーにシフトしてきました。
特にバブル崩壊後、急速に経済を建て直さなければならないという強迫観念に追い立てられて。
そして2011年の3月のあの日、原子力はクリーンで安全なエネルギーという神話は建屋もろとも吹き飛びました。
原発の問題に対して、国や電力会社の体質や驕りを糾弾するのはたやすい
ことですが、使い放題の電力を享受し、そして飽くことのない欲望のままに消費してきたのは私たちなのです。
エネルギー消費促進型の社会へ邁進する政策に対し、危うさを覚えながらも声を上げるわけでもなく、結局のところ容認してしまったのです。
膨大なエネルギーを消費し続け、無為なマネーゲームに明け暮れた結果、
私たちは幸せになったでしょうか。
あの日以来、私たちの日常も大きく揺らぎました。
何か現実と自分の間に1枚フィルターがはさまっているような奇妙な感覚を抱きながら過ごしています。「凡庸で怠惰ながらも強固だった日常」という幻想は失われ、その代わりにどこかひりひりとした「日常であろうとする仮の生活」が始まったのです。
一見すると同じようではあるものの、私たちはとても危うい不確定な世界に身を置くことになりました。特にロングスパンでもごく近いことでも、未来というものがにわかには思い描けなくなってしまいました。
このことがどんなに不幸であるか、実際に経験するまで考えも及びませんでした。私たちの時間は過去も未来も傷ついてしまったのです。
地震や台風の災害のたびに原発は大丈夫だろうかと不安になり、シーベルトだとかベクレルなどという単位を気にするような日が訪れるとは、誰が予想したでしょうか。
「原発がないと電気が足りなくなるぞ」というのは、最初からただの脅しだと分かっていました。福島の事故以来、東電管轄の原発は一基も稼働していません。節電努力と再生エネルギーへの変換によって、原発がなくても、
電気は足りるということはすでに証明されています。
それでも原発を稼働させようという動きが依然として止まらないのは、
原発が発電ではなく、そこに群がる者たちの既得権を発動し、莫大な金を
生み出し続ける目的で作られた装置だからです。
原発は維持か廃止かなどという論議の余地なく、あってはならない存在
です。核廃棄物の処理問題もまったく先が見えていません。
安全性などという以前に、もとより人間にはコントロールできない手に負えないものなのです。
イタリアは福島の原発事故を受けて、いち早く2011年6月国民投票により「原発廃止」を決定しました。
とはいえ地続きの隣国は原発大国フランスですから物理的なリスクは充分に残ります。そしてそのフランスから電気を買っているので、電気代が非常に高い。それでもイタリアの人たちは命と生活を守るため原発の廃止を決めたのです。
史上最悪の原発事故を引き起こしながら、いまだに原発を止めようとしない
日本。本来なら、世界に先駆けて原発からの脱却を選択すべきなのは私たちであるはずです。
ヴェネツィアの家には、もとよりエアコンもエレベーターも、電子レンジも電気オーブンも食洗機も、衣類乾燥機もありませんでした。
電気代が高いため、節電せざるをえない事情もありますが、日本で言えば
昭和3〜40年くらいの電化の感覚です。
そしてもちろん島内には自動車もありません。
町中のエスカレーター、エレベーター、自動ドアや自動販売機もわずかです。以前(フランスとの国境地帯にある送電所の事故により)ヴェネト一帯が大停電になった時にも、なんと夜になるまで気がつかなかったという強者もいたそうです。
東京に暮らしながら、長年ヴェネツィア的生活を標榜して節電生活を実践
していますが、困ったことは一度もありません。
むしろどんな風に節電、節約できるかゲームのように楽しんでいます。
私たちは電気がなくては生きていけない生活を選択してきました。
けれども今より使う電気の量が減ることをおそれることはありません。
皆で分け合って上手に使う手だてはたくさんある、と思っています。
求められているのはあらたなスタンダードです。今まであたりまえと信じていた前提条件ももう一度問うてみる態度が必要です。
何より警戒すべきなのは、営利や効率ばかりを優先するあまりに心を失い、犯した誤謬を修正することができない社会なのです。
*ふだんのヴェネツィアの夜(上2)、内陸の町メストレの夜(下)。
どちらも夜の9時くらい。こうしてみると水面に映り込む灯りの効果は
大きい。ヴェネツィアのみならず、ヨーロッパの町は日本に比べてずっと
薄暗く、それが夜の情緒を作り出しています。