積み木と布団 90

現在時刻、00:53。仕事で抜け殻になった体がやっと起こせるようになったと思ったのに、同居人は寝ているし、時々耳に入る寝言がこちらのまぶたも引きずりおろさんと攻撃を仕掛けてくる。実を言うとすごく眠い。今なら3秒ノックアウトも辞さない。布団が手招きしている。それでも書かなければ。私は絶対にお前に屈しない、眠気!

まーそんな大層な決め台詞を吐いても、生理欲求には全く勝てない体質のため、今日のノートは短めに済ませようと思う。これは予定であって、約束ではない。約束は絶対だが、予定は未定という。これで多少長くなっても良い言い訳ができたな、そう、フラグである。

今日やったこと……と前回のように書いていきたいが、本日は残念なことに、特に実になるようなことや記憶に残るイベントがなかった。しいて言うなら先ほど同居人から説教されたことぐらいだろうか。説教が本日のメインイベントです、とっても楽しいね。私は収集癖があって、ふとした時に色々なものを買ってきてしまう。その特性が顕著に表れているのが、縦横無尽に本棚に敷き詰められた本たちである。裏表方向関係なく、入れるところに押し込んでいったら、いつの間にか無法都市になってしまった。同居人も読書が趣味なので、限られたスペースで本棚を共用しているのだけれど、院高密度オーバーな惨状に流石にクるものがあったらしい、帰宅早々怒鳴られた。しょげた。読み返さない本は処理、買っただけで読まない本はサッサと捨てるか寄贈しろと言われた。仰るとおりである。本はインテリアではない。分かっている、頭の中では理解しているのだけれど、どうしても積んじゃうんだよね……。いつか読む、いつか読むって置いておくと、いつの間にか三年の月日が過ぎている。もしかしたら私は寝太郎なのかもしれないと、最近薄々自覚してきたところ。ぐぅ。MCが寝始めたので、CM挟みます。

ここで読者からのお便りのコーナー。

Q,葉書のコーナーはまだですか?

A ,書くことがなくなったのでやります。もう、リスナーせっかちな子が多いんだから!「葉書」については前日の記事を参考にしてね。



はい。


今日、そちらの朝をほとんど初めて見ました。レンズ越しに、冷たい風が吹きながらもさわやかに晴れている朝のくぐもった日差しが見れて、心地よくなりました。やっぱり山超えるだけで気候ががらりと変わるものですね。空の印象でさえ違うのだから、人はそれ以上に変わっているのでしょう。

葉書、お気に召されたなら嬉しいです、少しでもあなたの糧になれたら、本望なので。いや違うな、そんな綺麗な言葉ではなく、うーん、うん、葉書を書いている私が貴方のことをずっと考えているように、葉書を読んでいる貴方は多分、その間だけでも私のことを同じように考えてくれているってことでしょう?行き過ぎた解釈かもしれませんが、私はそれがとても嬉しい。さらに言えば、葉書を見て、貴方が私の目から通した自分を見て再解釈しようとしているなら、もっともっと嬉しい。私の言葉が貴方の糧になれば、って高慢な欲は本物なので、そしてこの葉書の目的の一つでもあるので、貴方と離れてしまった世界との糸になればなあ、と思う。

この葉書は、実は彼女へのお手紙を想定して書いているわけではない。自分の彼女へ感情を切り分けてバラバラにした思考の書き溜め、といった方が正しい。無造作な思考を無秩序に置いておくため、お世辞でも読みやすいと言えるものではないが、まあ所詮記録なので、殴り書きでも許されるだろう。ただ稀に言葉を送りたいと思ったときは、上記のように敬語が混じる。混じるというか、混じってしまう。癖なのだろう、言葉に染みついている。そんなことを言いながら内容はエゴだらけなのだから、面従腹背もいいところである。

彼女が馬鹿になれればいいな、といつも思う。私はそのために言葉をかけている、とも。馬鹿、というか、自他ともに、もっと無神経に、気軽な態度をとれるようになれば良いと。思考停止や麻痺という形ではなくて、情報の取捨選択できる余地があり、心の余裕もあって、安心できる居場所がある。そんな環境が出来たら、おそらく彼女は私のことを見なくなろうけれど、それでも、一番良い「普通」になるんじゃなかろうか。幸せになって欲しいのだ。ただ、この想像は私の主観の「幸せ」でしかないから、押し付けでしかない。あの人が最も忌み嫌う行為であり、何にも理解できていない証拠だ。

人の感情は季節みたいなもので、その時の環境や無意識によって、極彩色に染まったり、どぶ色になったり素早く変化する。言葉一つでマゼンタが真っ黒になることも十分あって、誰もそれを止められない、もちろん私も。だからあの人の言う「嘘」はそこまで気になっていない。そもそも勝手に好いているのは私なのだから、あの人が気に病む必要はないのになあ、と思う。でもきっと言いたいことはそこじゃなくて、「嘘をついてしまうこと」自体に罪悪感を持っていて、「嘘でしか自分を見せられないこと」が一番の棘になっているのではないか。人を信用することができない癖は、奇跡でもない限り、本人が言うように変われないのだろう。だから私は此処でずっと手を伸ばし続けているわけなんだが。皮をむく人すらいなくなっちゃったら、本当に戻ってこない気がするから。好きな人の力になりたいと思うことは、とてつもない凶器だけれど、痛みは時に薬になる。薬であれ。

ズレている。根本で、思考の軸が全く違う、逆ベクトルもいいところだ。

私は彼女のことを作りかけのパズルだと思っていて、私は毎回これを書く時、埋まっていない部分のパーツを必死に探している。ただその人は気分屋だから、時間によって、パズルの柄がくるくる変わってしまう。やっと見つけたパーツが青から黄色になっていたり、無理にはめ込んだら全部崩れてしまったり。作りかけのものが壊れるのは、やっぱり堪える。今まで一度も絵が完成したことはなく、半分が埋まった時があったかすらも怪しいのに、パズルの完成を諦めようと思ったことはまだないので、自分の執着深さにため息が出るのだ。

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