求められているのは勧善懲悪ではなく、いつだって観善懲悪ではないのか
勧善懲悪とは何か。
いや今さらなのですが前置きとしてとりあえず一般論としてリンク張っておきますね。
善を勧めて悪を懲らしめる。ゆえに勧善懲悪。
しかし私は思うのです。いつだって時代と人々が求めているのは観善懲悪なのではないかと。あるいは完全懲悪なのではないかと。
【『べき』『やれ』『しろ』は鬱陶しい】
とりま字が小さくて一見ややこしい「勧」と「観」の違いを大きい画像で並べて示します。
でっかくするとわかりやすいのですが
「勧」の方は右扁が「力」となっています。
「観」の方は右扁が「見」となっています。
【能動的であるか受動的であるか】
「勧」の方は、「力」です。
力とは何かと論ずればこれまたクッッッソ長い話になるので省略しますが、ここでは「動かすこと」と定義します。
「出力」「動力」「能動的」。つまりこれこそを力と定義します。定義します。俺が思うからそうなんだよ俺の中じゃあな。
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「観」の方は「見」です。
見とは何かと言えば、まあ漢字の構成から見た通りに「目」にあしが付いた形です。ここでは便宜的且つ対義的に
「受信」「観測」「受動的」と定義します。
「出力⇔受信」「動力⇔観測」「能動的⇔受動的」と私的且つ個人的且つ偏見でもって定義しています。
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「イリヤの空、UFOの夏」というラノベからの受け売りなのですが人間に元来備わっている「出力」と「受信」の能力を分けると
「出力」は極論「筋肉だけしかない」。
「受信」は五感即ち「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」がある。
すなわち人間……というかほとんどの生物は「出力」より「受信能力」の方を重視しているのです。そういう風に収斂進化したと考えるべきでしょうか。
まず、自分がどのような環境に置かれているか知らなければいけない。
情報が無ければ適切的確な対応を取ることができない。
よって、情報収集能力である五感と、観測した情報処理する脳を発達させた生物が人間と定義できます。
早い話筋肉なんて二の次なんだよ。
筋肉は全てを解決する、力こそパワーの論に真向から反論するわけですが、詭弁を用いらせていただくならば「そういった論調もまず観測受信しないと話にならないよね?」「筋肉も力も育て上げる方法論を情報取得してからじゃないと始まらないよね?」となります。
アレだよホラ、言いたいことはFF5のネオエクスデスみたいな知性も理性も無いただただ純粋に暴走する力は害でしかないみたいなそんな感じです。
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よって、論が飛躍しますが、人間に限らずほとんどの生物は「能動的であるよりも受動的であることを選びやすい」という持論に結びつきます。
身体の構造上でも、本能的にも、生存戦略的にも情報収集の方が大切なのだから仕方ない。それこそ、そこに善悪も正誤も存在せず、ただ事実があるだけです。
なおこの持論に反論することは正誤を糺すことなので全然OKです。
【能動的であることは疲れ、受動的であることは楽】
「自分」の外へと「出力」するための力が極論筋肉しか無いのなら、限られた手段しかないのなら、そこにはもどかしさ、思い通りにならない苛立ち、誤解などが生じます。
ごく普通に日常的な会話をしていたら誤解が生じて険悪な雰囲気になることもよくあります。
「言葉」は「出力」であり、人間は受信能力の方が高いのだからこういった事例は仕方ありません。
SNSでの発信も全く同じ論が適用されます。
自己表現のために、ファッションに専念することも能動的であると言えます。
でもコレも流行や他人からの評価といった情報を受け止めて、常に試行錯誤と新たな服飾髪型その他アレコレを更新し続ける必要があり、お金がかかります。しんどい。
創作も出力であると定義できます。これのしんどさは……読書感想文とか作文とかで大体皆さん経験済みなのではないでしょうか。
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それでも、だからこそ、もどかしく思い通りにいかないからこそ、能動的に何かをして、誰かに何かを伝えるという行為の多様性はとんでもなく広いのです。
喋るもよし、着飾るもよし、創作するもよし、他人をブン殴るのもよし。
いや良くないんですけど、(法に触れるから)直接的にブン殴らないだけで攻撃行動と理解してやっていることって案外多いですし……。
そして同時にやっぱりと言うべきか、能動的に何かをして誰かに何かを伝えるという行為は往々にして強制的なスタンスになりがちなのです。
だって思い通りに伝わらないのだから、気がつかない内に押しつけていたって形になっちゃいがちなわけで。
本人はそのつもりがなくても、受け手側は「押しつけられた」と思ったとしても仕方ないわけで。
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一方で、受動的であることはなんと楽なことなのでしょうか。
『べき』『やれ』『しろ』は鬱陶しい。たしかに鬱陶しいけれど、それに従っておけば摩擦や衝突の危険性は薄れます。だって悪いのは『べき』『やれ』『しろ』って言っている側だもん。ボク悪くないもん。
【勧善懲悪よりも観善懲悪が求められる理由】
非常に長く回り道をしましたが上述した私の論(詭弁とも言う)を述べたうえで「勧善懲悪よりも観善懲悪が求められている」というスタート地点に戻ります。
勧善懲悪は、つまるところ『べき』『やれ』『しろ』なのです。暴論ですね。
善で在れと諭す。悪は討てと要する。
でも善悪って何?勧善懲悪で語られる物語の善悪が常に正しいとは限りませんし、暴力は犯罪です。かくも能動的であることは辛く苦しく難しい。
一方で造語の観善懲悪とは「善が悪を討つ」様を見るだけでいいのです。受動的であるだけでいいのです。何もする必要がない。何もしろと言っていない。嗚呼なんと素晴らしき怠惰なる甘美な娯楽。
【娯楽なんだから気楽な方がいいに決まっている】
勧善懲悪モノは娯楽です。
娯楽であるのならば、堅苦しくもなく説教臭くもない方がいい。
で、あるならば。
勧善懲悪という概念は、本当は観善懲悪か完全懲悪なのではないか。
正義が悪を討ってやったーと喝采を打つ。
悪はコテンパンに叩きのめされて否定される。
それこそが正しい。その過程こそが感動的。その様こそが快感。
なんにも考えなくてもいい。ただ展開されるストーリーや演出やキャラクターに一喜一憂して、終わってしまえば後腐れなくオサラバできます。
結局、多くの人々が求めているのはそういうものなのではないでしょうか。
だから勧善懲悪に類するモノは常に求められ続け、常に供給されているのではないでしょうか。
【ざまあ系も勧善懲悪】
ざまあ系というジャンル自体は「小説家になろう」で発展したように受け止められていますが、果たしてそうでしょうか。
例としてシンデレラを挙げてみましょう。
灰被りを虐げていた姉たちは足を切り落とすハメになり、バージョンによっては母親諸共目玉まで抉られる始末。
不当な理由で主人公を虐げていた者が、無惨で因果応報な目に遭う。これをざまあ系と言わずしてなんと言いましょうか。
シンデレラストーリーという単語もありますがこの言葉の裏側には「てめえこの野郎見てろよクソ野郎」という呪いが見え隠れする気がするのは私の気のせいでしょうか。
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他にも、古事記からオオナムチノカミの神話も挙げてみましょう。
多くの兄神たち=八十神たちの荷物持ちとして求婚の旅に出かけたオオナムチノカミの姿は、ざまあ系、追放系主人公が「荷物持ちの役立たず」と烙印を押されてパーティーから追放される様を思い起こさせます。正に古事記にもそう書いてある。
この後、オオナムチは荷物持ちのくせに色々あって結婚相手に選ばれたり兄神たちに謀殺されたり、かのスサノオに「てめぇ俺の娘絶対に幸せにしろよクソ野郎」と罵声と祝福を受けたりして、結局最後には兄神たちである八十神にばっちり仕返しします。
まぁマジで殺されたうえに大国主となるのですから、今後の面子にかけて仕返しくらいして当たり前なのですがこれをざまあ系と言わずしてry
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昨今のざまあ系はバリエーションに富み、ざまあする相手といえば、いじめっ子から浮気した伴侶に会社のクソ上司や手酷く振った元恋人など……闇深ェな現代社会。
これら全てを悪と断定して懲らしめると、よほど上手く立ち回らなければ社会的制裁を喰らいます。というか持たざる者はどうやったって普通に返り討ちを喰らいます。
だからこそ勧善懲悪なんてものは本当は無くて、観善懲悪こそが結局いつの時代、誰にだって求められる物語であり、受け入れられているのではないかな、と私は思うのです。
ぶっちゃけ本当に善を勧めるのなら、悪は懲らしめるんんじゃなくて「なぜ悪党になったのか」と救いの手を差し伸べ、それでもどうしようもない心底の悪党は普通に法廷で裁いてもらうのが正しいと思いますし……。
勧善懲悪を拗らせて私刑に走るくらいなら、架空の悪党を憎らしい誰かさんに被らせてざまぁしているのを見て満足する方がたぶん誰にとっても幸せだと思います。
ようするに人間社会って案外よくできているな、というお話でした。