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『旅 (仮)』第八話 帆を上げて

 この世界では、想像すれば、あるいは想像せずとも、雨降る森や、花畑や、古びた劇場や、激しい荒波さえ現れる。突然道路から湧き出してきた海水によって、あたりはすっかり海になってしまった。友人は案外平気な顔で、半分水に沈んだ車椅子の上でランタンを掲げている。私は車椅子の取っ手を掴んでバタ足で波間を進もうとしたが、上手くいかない。ランタンが時折海水を被りながらも、なんとか炎を保ってちかちか光る。空は見る間に灰色の雲で覆い隠された。音は無く、風も吹かないが、どうやら嵐の海らしい。気を抜いていると、海水が口の中に飛び込んできた。
「これどうするの!?」
「わからない! でも楽しい!」
 確かに楽しかった。2人とも、進まなければ溺れてしまうこの事態を、今までの何よりも面白がっていた。炎が笑うように瞬く。また水を飲んだ。彼女の髪はもみくちゃになっている。疲れた足を無理やり上下させる。知らず口角が上がっている。それは過去と決別しようとしてもしきれない、臆病な人間のために、否が応でも前を向かせるための世界のいたずらだったのかもしれない。
 しばらくして、楽しさがようやく疲労と不安に変わる頃、巨大な帆船が迫ってきた。甲板に人の姿は見えない。しかし、スルスルとロープが下りてきた。彼女がそれを掴み、車椅子に結び付けた。
 椅子ごと引き上げられると、甲板の上はがらんとしていて、ただ時折高く上がった波がその床を濡らしているだけだった。滑りそうな車椅子を抑えつけ、私たちはともかく船内を捜索した。船室はどれもあやふやで、ハンモックはベッドと交互に現れ、ドアや壁は手がすり抜けた。彼女は手を伸ばして電球を外し、それでも明るいままの船室を見渡して面白がっている。
「誰かが創作する途中のままで放り出したみたいだ。」
 私たちはそう結論付けた。再び甲板に出ると、嵐は静まる気配も無く、どろどろと雲は渦を巻いている。しかし雲の中には案外いいものが詰まっているのかもしれない。
 船は真直ぐに進んでいく。不完全な、見ようによっては哀れな状態でありながら、何かを目指して旅をしている。私たちの目指すものは何だろう。私はこの船のように誰かを助けることなどできそうにない。私は彼女を本当に助けることはできない。彼女を理解することもできない。それでも一緒に旅をしている理由は何だろう。その理由を探しているのかもしれない。曖昧な世界で荒波に揺すぶられて、何もない安穏とした憂鬱の国を懐かしみながら、今少し勇気を持とう。旅の最後には、苦しんだ記憶も大切に思えるだろう。それは苦しむべき理由を見つけるからだ。確信に近い期待だった。

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文・麦茶
絵・葱

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