『旅(仮)』第十四話 打上花火
死んだ本を離れてまもなく、夕暮れの空に花火が咲いた。薄墨色のぼんやりした空に花火は鮮やかすぎて、その色をはっきりと見ることはできなかった。しかし次第に暗く、暗くなってくる。
立って待つうちに夕暮れは黄金色を手放し、橙色を、桃色を手放して、薄墨色から群青色、闇色に移り変わる。それ自体も花火のような美しさと儚さだ。また上がった。夜の再来を祝うような花火だ。「こんなに近くで見たのは初めて!」と彼女は喜んでいる。ひゅるる、ひゅるる、と次々に花火が飛び出してくる。花火が上がっているということは、ひとがいるのかと思ったが、花火の下には人影など全く見えなかった。
赤い。しかし青い。しかも黄味がかって、とはいえ紫煙にも似て、さらに眩しい。打上花火に儚さを感じることは難しい。それはあまりに巨大で、衝撃があって、存在する前にすでに存在しているかのような圧力がある。打ち上げられてしまえば、その全身を広げ、存分に威容を示し、最後には自分自身を称賛しながらゆっくりと立ち去る。花火そのものはとても儚いものだ。夏の夜の夢、妖精たちの羽ばたきの残像、短い夜を惜しむ祭り。しかし打上花火は違う。
打上花火に終わりはない。スターマインが散っても夜は消えない。その轟音が脳裏を夏の間じゅう揺らし、網膜には光と色彩の乱舞が焼きついて離れない。ほとんど暴力的だ。それを頼もしいと呼んでいいのか、ひとは打上花火に陶酔しきって夏を終える。打上花火の存在はひとの身体に残り続ける。いずれ自身を燃やして輝くために。「終わらないね」打上花火は上がり続けている。
からんと音がして、車椅子の傍らに線香花火の束があった。バケツとマッチも転がっている。彼女が拾い上げ、にっこり笑ってこちらに差し出した、その仕草が光に照らされてこの上なくはっきりと見えた。上空で拍手のように火花が爆ぜた。
足もとでもぱちぱちと小さな花火が上がり始める。打上花火の巨大な光に負けじと、あちらこちらに小さな光を振りまいて、懸命に燃えている。儚さは、その終わりが見えるから、分かることだ。線香花火は容易に消える。「どっちもいいよねえ」と彼女が言った。「あの、シャーッて火花が出る、ススキ花火だっけ、あれも好き」
手元はすでに華やかだった。ススキ花火もあった。あらゆる手持ち花火があり、あらゆる打上花火があった。巨大な光と、小さな光と、その間にいる私たちという構図に、私はとても満足していた。今の季節は夏ではないとも思ったが、花火が上がる限りはきっと夏なのだ。しめっぽい空気が鼻にふれるような気がした。「もう1つつけようか」夏の夜は終わらない。
文・麦茶
絵・葱
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