『旅(仮)』第十二話 また明日
膝丈のスカートが揺れた。あの夕日を思い出した。車椅子に乗る彼女に、「バイバイ」と言ったあの日を。両手を車輪に添えて、彼女は少しうつむいていた。目を上げてくれたら、もっと話をしたかった。それは私の怠慢だ。
頬を撫でる冷たい風に晩秋を感じる時、道端ではどんぐりがつぶれている。彼女はどんぐりを、つぶれる前に拾ってやれる人間だった。陳腐な比喩だ。しかし当を得ている。膝をつけば、多くのどんぐりを拾える。彼女の目に入ることができる。その物足りない顔に幸福な時間を、窒息するほど押しつけることだってできたのだ。
思い出さなければならない。また明日、と2人の間に夕日を差しはさんで栞とする前に、2人のページに皺が寄ってはいなかったか。幸福とは? 苦しんで生きる人間に、本当に幸福な時が訪れるのは、死ぬ時だけだと思っていた。幸せに死んでほしいと願っていた。それは幸福ではなかった。慰めでしかなかった。旅に連れ出したのは、はたして。
揺れる彼女の足もとを見ていた。旅に連れ出して、ここではないところを目指して、どうしてそんなことをしたのだったろう。誰もいない病室から彼女を攫って、曖昧でありきたりな幻想の中に生きるうちに、最初の寂しさを忘れてしまっている。楽しくなって、少し幸福にもなって。星の落ちる空が暗く映る日もきっと来る。
人間は変化する。電車に揺られているうちに、昨日轢かれて死んだひとを忘れてしまう。変化は生活のなかで、次第次第になくなっていく。薄れていく。しかし振り返った頃には、変化は錆びた楔のように、過去をじわりと蝕んでいる。過去をささいなものにしてしまう。
「夕日だ」と彼女が呟いた。眼前に陽が落ちて、野原が燃え盛っていた。切っ先まで赤い草原の先に、人影があった。並んでいる。2人、二本足で立っている。立っているだけで幸福そうに見えるものだろうか。いま、彼女の髪は夕日に輝き、幸福そうに見える。幸福とは? ここにはないものと思っていた。あるのだ。青い鳥は雲の形をして、手のひらでほろりと崩れたが、そんな脆いものではなく。
「また明日会おうよ」彼女が言った。「明日」繰り返し言った。明日。「会おう」明日という幸福。昨日という幸福。過去をささいにしない。変化を嫌うのではない。楔を放っておかないことだ。栞をはさんだなら読み進めることだ。「また明日」「また明日」夕日に手を振った。
文・麦茶
絵・葱
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