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『旅(仮)』第十八話 蜜月

 小さな私たちが波間に消えて、私は自分が語ったことが、彼らの求めていたことだったと知った。そして彼女もきっと求めていた。月の光はさえざえとして、これ以上ないほど硬質に見えた。
 大地がぐらりと傾いた。驚いてあたりを見回すと、くじらが、その巨体で船を押してきたのだった。船の揺れるにまかせて、ハンモックやベッドが壁を突き抜けて顔を出し、壁やドアが実在の確かなものではないことを知らせた。それは以前、この灰色の荒野に私たちを連れて行った帆船だった。あの時と同じように、無人の甲板からスルスルとロープが下りてきた。私たちは一緒になって車椅子にロープを結び、再開の喜びを胸に船に乗り込んだ。
 船内は相変わらず、創作の途中で放り出されたように中途半端だった。電球もないのに明るい部屋、造作があやふやで見るたびにどこかが変化している机、あちらこちらで見つかる同じ万年筆。しかし、よく調べてみると、この船を創作した人物は、マストに大変なこだわりを見せていた。
 何の気なしにマストに手を触れて、すぐにそれが分かった。手触りに異質なほど実感がある。木肌のぬくみ、それが海水で冷えた重さ、塩が凝った表面のざらつきなどが、いっせいに手のひらから感じられた。マストには縄梯子がまとわりついていて、私は彼女を残してひとり、登り始めた。海からの風は強く冷たく、ささくれた縄梯子に指が痛むが、不思議と無心になれて快かった。創作途中のものは何一つ現れず、それは予定調和的な無心の環境だった。
 そして、見張り台に到達した。気持ちのいい息の弾みが波に呼応しているように感じられた。振り向くと、彼女がいた。置いてきたはずだった。
 「なんで?」と素直な疑問の声が出た。「なんでだろう」と彼女も目を丸くしている。車椅子はなく、2人で狭い見張り台に突っ立っている。
 「もしかしたら……作った人に、どうしてもここへ連れてきたい誰かがいたんじゃないかな」と彼女が少し迷いながらいった。「こんなに見晴らしがいいから」
 私はそれに納得した。そして、大切な創作物のシステムをその誰か以外にも適用してしまう、創作者の不器用な優しさが可笑しかった。海上は次第に穏やかになり、船の速度がゆるんで、再び大地が見えてきた。
 船を降り、最初に見たものは観覧車だった。「あんなところに観覧車なんてあったっけ?」「なかったと思う」この旅が徐々に始点に帰ってきていることは2人とも分かっていた。であれば、次に見えてくるべきは観覧車ではなくメリーゴーラウンドなのだ。妖精たちのメリーゴーラウンドはどこへ行ってしまったのだろう?

文・麦茶
絵・葱

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