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『旅(仮)』第十七話 海の幽霊

 気球で今まで通ってきた道をだいぶん戻り、とうとう草原が途切れて荒波が見えた。灰色の大地が荒海の冷たい水に洗われている。道がない、岩がない、砂がない、何もない、砂漠よりも漠とした、無の土地。ここは彼女との旅に初めて不満を抱き、そしてそう思ったことを悔いた場所だった。
 「今は何も聞こえないんだね」と彼女が言った。同じことを思い出していた。彼女にだけ聞こえるSOSを発し、無事助け出され、輝きながら消失した2匹の蝶のことだ。いや、助けを求めていたのは、本当は蝶だけではなかった。極彩色に光りながら蝶が溶けた後も、泣き叫ぶ声は消えてはいなかった。胸騒ぎがした。今SOSが聞こえていないのは、私たちが聞いていないだけかもしれない。実際にはまだ誰かが助けを求めているのかもしれない。しかし、聞こえない限りは、どうしようもない。
 私はどうすればいいか分からなくなって、「どうしたらいい?」と彼女に問うた。「大切なものは目には見えないって言うよね」と彼女は答えた。大切なものは目には見えない。耳にも聞こえない。そして言葉にもならない……。
 巨大な尾びれが海を破った。くじらだ。くじらはうねった。くじらのうねりが波を呼んだ。灰色の大地はいちめん冷水にさらされ、車椅子のタイヤもしぶきで湿った。くじらのうねりは何度も起こり、そのたびに波が立ち、大地が濡れた。
 最後の波がひいた時、私たちの前には小さな子供が2人立っていた。怯えたような、それでいて不遜な目つきで、私たちを少し離れたところから見上げていた。1人は両耳を布で覆われていて、もう1人は腹に何かを抱えていた。それは魂の時に私たちがそうあるべき姿だった。それに気づいたとたん、以前耳にした悲痛な叫び声が再び聞こえ始めた。波のように強くなり弱くなり、絶え間なく、間断なく、聞こえた。
 「私たちだったんだ」と彼女が言った。「助けを求めていたのは」この声に、どう答えればいい? 答えを出さなければ、このSOSを救えない。
 「私は、きみに負担をかけていると思う」と私は言った。「私の抱えるべき負担をみんなきみにゆだねて、助けるふりをして助けられていると思う」
 彼女は驚いた顔をして、「そんなことない」と笑った。それを見ていた小さい2人は、表情を変えるでもなく、未だじっとこちらを見ている。
 「いずれきみの好意に応えられなくなるかもしれない」と私は続けた。「一緒にいられなくなるかもしれない……でも、今この時、一緒にいられることはとても楽しい」
 くじらがうねって、波が立ち、小さな2人は波間に消えた。月が煌々と明るい。

文・麦茶
絵・葱

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