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『旅 (仮)』第九話 沈黙の叫び

 未完成の帆船で荒れた海を渡って、着いた先は灰色の大地だった。なめらかな地面で、岩も砂もない。泥がそのまま固まったかのようだ。車椅子を押して行くには都合がいい。音もなく歩みが続いた。本当に静かだ。植物も生えていないようだから、動物などはまったくいないのだろう。曇天の空は湿っぽい穏やかな空気を流し込んでいる。
 不意に、友人が何か聞こえると言い出した。私の耳には何も届いていないのだが。そう答えると「確かに聞こえる。あっちに連れて行って。」と言う。彼女は、苦しそうな声だと続けた。「でも私には何も聞こえない。」「信じてよ。」しばし言い合いをしたが、そもそも目的地などないのだからどこへ行っても同じだと思い直した。それで、彼女の言う通りに方向を変えた。
 指示された方向に車椅子を押して行くと、少しずつ不愉快な気持ちになってきた。行きたい場所があるなら自分で行けばいいじゃないか。わざわざ私が車椅子を押すまでもない。自分で車椅子を動かすか、無理にでも歩いていけばいい。自分の考えに人情味が無いことは重々承知していた。それが余計に不愉快な気持ちを生んだ。
 「あれだ。」と彼女が突然指さした。その先には二匹の蝶が舞っていた。ステンドグラスのような様々な色をまとって、陽光の薄いこの大地できらきらと輝いていた。彼女が両手を伸ばすと、二匹の蝶は憩いを求めるかのように近づいてきて、彼女の手の中に収まった。そして、ひときわ大きな輝きを発した後、溶けた。目を疑ったが、彼女の両手には確かに、とろりとした美しい液体が湛えられている。赤紫や青緑、その他複雑な色が混然として、しかしとても美しかった。その時、自分の耳の奥でぱちんと何かが弾けた。どっと音が飛び込んできた。いや、これは音ではない。叫び声だ。誰かが助けを求めて泣き叫ぶ声。ともすれば騒音になり、忘れ去られてしまいそうなほど、声は絶え間なく響いている。じっさい私は忘れていたのだ。いつから鳴り響いていたのか分からないSOSを、無視していた。驚いて固まってしまった私に、友人は「気づいた?」と微笑んだ。彼女には聞こえていた。声に応えて行動した。私は気づかないまま、むしろ彼女を軽蔑していたのだ。恥ずかしいと思った。
 それから、彼女の指示のままに車椅子を進めていくと、巨大な色彩の彫像が立っていた。何の形を模したものか分からないが、その色彩の鮮やかさ、複雑さ、そしてその中から発しているらしい悲痛な音。彼女が手を伸ばして彫像に触れようとするが、どれほど車椅子を近づけても届かない。「まだ私たちには助けられないのかなあ。」と彼女が呟いた。そうかもしれない。いつかもっと成長したら、もう一度ここに来ようと決めた。今はせめてこの音を忘れないようにしよう。

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文・麦茶
絵・葱

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