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2020年12月17日(木)

ここ最近は、翌日の楽しみな予定を心待ちにしたり、嫌な予定に憂鬱になったりという余裕もなく、1日1日をなんとかこなしてゆくような毎日で、それは私にとっては一番避けたいライフスタイルだった。

お坊さんは暇であれ!これがmotto。夕日が沈むのをみながらボーッと物思いにふける。なんで人間は生きているのだろうか。なんで死んでいくのだろうか。まあ、考えることはなんでもいいのだけれど。その姿を「さすがですね〜」とか、下手したら「尊い姿だ〜」なんていわれるのはお坊さんくらいなもので、普通、社会人がボーッと仕事中に夕日を眺めてたら「ぼーっとするな働け!」と言われるはずだ。それに"相談乗ってくださいよー”と誰かが突然お寺に来られたりもするわけで、葬式だって突然入る。

それなのにここ最近といえば、忙しく、郵便受けに山積みになった封筒や葉書が物語っている。喪中の葉書やお歳暮が届く季節になった、一枚一枚、ゆっくり相手を想像して、そちらは最近どうですか?とかお寂しいことですね。などと書きたいものだ。

そんなバタバタと出たり入ったりした玄関先に、正確に言えば隣の家の敷地の我が家側になるのだが、一本の柿の木がある。その柿の木には黄色く美味しそうな柿が一つだけ高いところにぶら下がっている。もう季節は12月も中旬だ。他の柿は、近所の人がもっていったり、カラスがとったり、地面に落ちたりした。

しかし残された一つの柿はかなりしぶとい。その木の前を通るたびに

今日も落ちてないな。

今日も落ちてないな。

今日はもうなくなっただろう。いやまだあるな。

今日はどうだ。まだあるぞ。

そのうちこの柿の木も必死に堪えているのではないかと思うようになった。

柿がたくさん実っていたあのころは、みんなの人気者だったんだ。人や動物がこの木のまわりに集まってきては、おいしそうだのなんだのとキャーキャーいって、賑やかだった。それが一つまた一つと柿がなくなるごとに離れていき、そしていよいよ最後の柿になった。これが落ちたら、この木が柿の木であることすら知られることはなくなる。どうしてもこれを守らねば!きっとそんな気持ちであと一つを死守しているに違いないと思った。

最近、風呂上りに髪の毛がよく抜ける。ドライヤーのあとの洗面台に残る髪の毛を無意識に数えてはまだ大丈夫と言い聞かせるが、額にも切なさが漂い出した。もう気づけば33歳。一緒にサッカーをしていた人もほとんど引退した。テレビを付けたら俳優もモデルもスポーツ選手もいつの間にか歳下ばかりになった。「そうか私もあの柿の木と同じか」と思った。だとしたら私の柿の実はあと何個あるのだろうか。私にもいつかあんなふうに残り一つになった柿の実を堪える時がくるのだろうか。その時にどんなことを思うのだろうか 。

そんなことをふと考えた12月17日の風呂上り。


写真は残された一つの柿の実


亀田信暁

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