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第11回「世界の反対側にいる人、10人でも20人でも、私がここでひまし油湿布すると良くなるんだから。ホントだよ。」福田 高規先生
福田 高規(ふくだ たかのり)
昭和9年1月、高知県に生まれる。昭和35年頃から十菱麟氏のグループと交流し、エドガー・ケイシー関係図書の出版活動をする。その後独立。国際鍼灸理療専門学校において治療法を学ぶ。現在は高田馬場の「福田高規治療院」のほか、名古屋の「エドガー・ケイシー健康会」にて定期的な講座を開催。ケイシーのリーディングを実生活に活かすべく活動をしている。
youtubeチャンネル:喜びJoy
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テンプル――
福田先生とのご縁は今(2012年)からもう20年も前。1992年にたま出版主催のツアーでバージニアビーチのAREに行ったとき以来ですが、今回インタビューをさせていただくにあたり、福田先生の個人的な歴史は何一つ知らないことに気づきました。そこでまず、福田先生はどういった子供時代を過ごされたのか、ケイシーとの出逢いはいつだったたのか、そのあたりからお話いただけますか?
福田――
最初に私の年齢を言いますと、もうすぐ80歳なんですよ。1934年生まれで終戦の時は小学校6年生でした。日本で初めてのエドガー・ケイシーの本『奇跡の人エドガー・ケイシー』が出たのが1959年、25歳の時です。
実は、ケイシーを日本に最初に紹介したのはこれよりもっと古く、生長の家の谷口雅春先生です。谷口雅春先生は宗教関係の翻訳をいっぱい出されていて、一番有名なのは『生命の実相』という20巻の本です。その後『真理』というシリーズが出て、その中に『カイシーの霊告』という一文がありました。Cayceという綴りをカイシーという日本語にしたんですね。
『カイシーの霊告』に辿り着く前の私のことを少しお話しますと、終戦が小学6年生の時。中学になったら、戦争に行ってた兵隊さんたちが学校に戻ってきたんです。だから同級生の中には年齢的に上の人がいっぱいいました。その中に服部君という3~4歳くらい年上の人がいて、その服部君は今でいう精神世界かぶれで、断食をやったり滝に打たれたりしてました。
テンプル――
服部君も戦争から戻ってきた方だったんですか。
福田――
そうです。でも戦後は何もすることがないし、日本がこれからどうなるのか分からない。それが私たちの関心のもとでした。服部-福田と出席番号も近いから掃除も他の当番も全部一緒、学校の登下校もずっと一緒。だから、その服部君といろんな話をしたんです。未来が見えない、どうしていいか分からない、そんな時代でしたから、私も彼と人生論を戦わせていたんです。今の中学生は人生論など語らないと思うけど、当時の中学生はそうだったんです。誰も彼も先が見えないわけですから。
先に私が上京してきて工場に勤め始めていたんだけど、彼も法政大学に受かって東京に出てきました。まだ私は未成年だったんだけど、高知の人間だから、毎晩お酒を喰らうんだよね。お酒を飲みながら朝まで人間とは何か、世界はどうなる、人生とは何かなんて話をしてたんです。その当時、私は唯物論者で世の中なんて偶然の連続だって思ってました。論戦を戦わせたら絶対私のほうが強いんです。
テンプル――
え?福田先生が唯物論者だったんですか?
福田――
そう。前世なんて知らないよという感じ。あちらは唯神論者。前世なんか全部知っているわけです。でもここが大切なところなんだけど、あるとき一言、服部君が酔っ払って言った言葉がある。「意志の力が無ければ人間何もできないよ」と。ハッと思った。そこから私は片っ端から宗教遍歴をしたんです。
当時、世田谷区の尾山台に住んでいたんだけど、田園調布の山のうえにカソリックの教会があって、その教会の大きな扉をバーンと開けて「牧師さーん」と大声で怒鳴って「ここで修行をしたい」と言ったんです。すると「私は牧師ではありません、神父です」から始まって「修行をするには親を捨て、子を捨て、名前を捨て」と言われた。そんなのダメですから、いろいろあって辿り着いたのが生長の家だったんです。生長の家で一生をかけてやるつもりだったのに『カイシーの霊告』に出会って「これは!」と感動してしまって・・・。
テンプル――
その『カイシーの霊告』は、どれくらいのページを割いてケイシーのことが書かれていたんですか? 1冊まるまるケイシーだったわけではないんですよね。
福田――
『真理』という10冊足らずののシリーズ本で、その霊界編の中のほんの一部分。人間が死んだらこうなりますよ、ということが書いてあったんです。ケイシーのリーディングと共に。それがケイシーのリーディングが日本に紹介された一番はじめ。
テンプル――
ケイシーリーディングを日本で初めて紹介したのは生長の家だったんですね。そして、そこにいた福田青年はケイシーに夢中になってしまった・・・。
福田――
もの凄く。圧倒的に惹かれました。私はどこに行っても、トップになるんですね。つまり『どこ行っても、福田のことを知らなければモグリ』みたいになるんです。生長の家でも「福田のことを知らなければモグリ」と言われるくらい熱心にやっていました。それが『カイシーの霊告』を読んで生長の家を辞めてしまったんです。その後、十菱麟さんとの出会いがありました。
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私は十菱さんも生長の家の人だったということは知らず、神田の古本屋さんを巡っているときに十菱麟さんがご自分で作った出版社、英瑞カンパニーから出されていたAZという本を見つけて「あ、こういう人がいるんだ」とすぐに訪ねていったんです。
それまで大きな会社で技術屋としてそれなりの仕事を任されていたんですが、それを全部辞めて、おたくで仕事をしたいと。それでAZカンパニーに就職したんです。霞ヶ関書房から『奇蹟の人エドガー・ケイシーの生涯』が出版された頃です。インフォ出版からケイシーの『窓はひらかる』(後年、たま出版から『転生の秘密』として出版されたもの)が出たのも1961年ですから、ケイシーの出版が競っているんですよね。
その頃にはケイシーの事は知っていましたから、ケイシーの本が出版された時にはもう私はケイシーの活動を始めちゃっていました。十菱さんと共に日本で一番最初、ケイシーの最先端での仕事をしていたんですね。十菱さんはその時すでにケイシーの仕事をしてましたし、アメリカにも行っていました。
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ところで菜央子さんは、十菱さんとはお会いになったことありますか?
テンプル――
はい。お亡くなりになる数年前に奈良に訪ねていきました。私にとって十菱さんは伝説の方だったので、とっくにお亡くなりになられているとばかり思っていたんですが、まだご存命だと知ってすぐに会いに行きました。波乱と激動を巻き起こしながらの人生だったと伺っていますが、静かな余生を送られていらっしゃいました。もう目が悪くて翻訳はされていないということでしたが、分厚い英語の辞書が置いてあったのを憶えています。
福田先生がお会いになられた当時、十菱さんは具体的にどういう活動をされていたんですか?
福田――
ケイシーの翻訳をしたりして、一所懸命ケイシーを日本に広めましょうとやっていました。余談ですが、サイババさんのことも十菱さんが一所懸命広めていらっしゃったんです。サイババの本も翻訳されていました。それからサイババさんは日本に知られるようになったんです。
テンプル――
十菱さんは目のつけどころがいいんですね。スブド(SUBUD)もやっていらっしゃいましたよね。
福田――
スブドは私も熱心にやってました。スブドで福田の名前を知らなかったらモグリって言われるくらいにね。青年だったから、青年部長とかやってましたよ。ジナ・サーミナラさんには1962年においでいただいてます。その時、私はジナさんの鞄持ちやってました。
テンプル――
美輪明宏さんとジナ・サーミナラさんが並んで写っていた写真は見たことがあります。
福田――
それは2回目の来日の時の写真でしょう。2回目のときにサーミナラさんのお世話をしたのは、たま出版の韮沢さんです。
初来日のときは十菱さんとインフォ出版の招聘でした。インフォ出版の浜崎社長さんも当時、霊的な世界のことを世に出しましょうと一所懸命なさっていました。「窓はひらかる」もある翻訳者に頼んで翻訳してもらってました。
テンプル――
確か、その翻訳をされた多賀瑛さんは肺結核で出版後すぐにお亡くなりになられたんですよね。1961年前後というのは福田先生が27歳頃になりますよね。この頃、ケイシーのことを話題にできる仲間は何人くらいいらしたんですか?
福田――
スブドのグループや十菱さんが瞑想会などいろんな会をされていたんですが、私が知る限りでは10人前後じゃなかったでしょうか? でもジナさんを連れて京都に行ったときには、夜、10名くらいの方が集まってくれました。生長の家の会報などを通じて関心を持ってくれた人たちだったと思います。
私は生長の家をよく知っていましたから、1回目の来日のときには、生長の家の大講堂で大講演会もやりましたよ。転生の話も喜んでされましたよ。
テンプル――
皆さんの反応はいかがでしたか?
福田――
サーミナラさんは、立錐の余地なく詰めかけた人々から次から次へと質問攻めにあっていました。
はじめ、私は自分でケイシー関係の出版をやるつもりだったの。そこで、当時AREの会長だったヒュー・リン・ケイシーに手紙を出して、私が日本でケイシーの運動をやると宣言しました。すると会長は「まだ若いからもっと勉強をしてからね」と言ってきました。だから、ますますケイシーの勉強をしました。その頃、たま出版の瓜谷社長と連絡を取り合ったんです。瓜谷さんは私がケイシーにのめり込んでいるのを知っていて、講習会を開催して私の話をご夫婦で聞いて下さって、本を出さないかと。それで出した本が『人生を変える健康法』です。1984年のことです。
テンプル――
おっと。一気に1984年まで行きましたね。1970年代は何をされていらしたんですか?
福田――
1970年代はスブドを一所懸命やっていた時期ですね。十菱さんもスブドをやっていらしたから。その頃は英瑞カンパニーは辞めて車関係の仕事で忙しくしていました。でも結局ケイシー1本でやりたくて、スブドも止めました。実は、こんなふうに一所懸命にやって止めたの他にも色々あるんです。
テンプル――
福田先生の最終的な基準はやはりケイシーだったんですね。
福田――
そうですね。中学の頃から、人間とは何か、どう生きたらいいかというのが私のテーマでしたから、それを一貫して追及していたんですよ。生長の家もケイシーに出会って飛び出し、十菱さんと出会って、また十菱さんのところを飛び出し・・・。家出も2回しましたけど、飛び出るのが好きなんですね。
それに講習会などでいろんなご相談いただく中で、ひまし油湿布を勧めるといろんな病気が治っていく・・・。
テンプル――
その時はすでに福田治療院は開業されていらしたんですね。
福田――
私は39歳のときに治療の学校に入っています。私は学歴がないのであんまの学校しか入れなかったんですが、2年で免許を取りました。その9年後に『人生を変える健康法』が出たわけです。でもこの本、当たったんですよ。今でもたま出版の社員さんが、いらっしゃいますよ。この本の著者に会いたくて来ましたって。
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テンプル――
今でも売れていますし・・・。テンプルでも、入門編としてお客さまに一番お勧めする本ですね。
福田――
お読みいただくと分かりますが、物質的なことを前面に出した本ではなく、霊的なことを主体として書いた本です。霊的な中にもひまし油湿布があり、オイルマッサージがある、食事療法がある。それが私の生き方です。
テンプル――
ちゃんと資格をとって治療を生業にしようと思われたのは、何かキッカケがあったんですか?
福田――
それはこういうことです。私はすぐにモノを書き始めるタチなので、ケイシーのことを書いていたんだけど、なかなか出版のめどが立たない。まだたま出版の瓜谷さんとも知り合ってなかった頃だし、資金も大変だということが分かって・・・。ある時、友達とスキーに行ったときのこと。そこは雪が何メートルも降り積もるような山奥で何もない。何もないから、じっと考えているときにハッと思った。ケイシーのリーディングには治療のコースがあるじゃないかと。それまでは『人間とは何か』ばかり見ていたからそっちには全然目がいってなかった。
テンプル――
ということは、それまで医療リーディングには関心が無かったんですか?
福田――
そう。それがフト気がついた。スキー場は夜暗くなるのが早いんですよ。翌朝まで何もすることがない。それでお風呂に入っているときに気がついた「あ~!」と思ってね。でも免許を取るのに何も分からなかったから、家に帰ってから今の厚生労働省に電話した。私には学歴がないから、あなたが入学できる学校は2つしかありませんよと言うわけだ。1つは東京で1つは鹿児島。すぐに鹿児島に飛んだんだけど、来年の新入生は募集するかどうか未定ですと。それじゃあということで東京1本に絞って、東京の学校に入ったんですね。2年後、卒業したときには本格的にケイシーの治療法で行きました。それまでもケイシーのことばかりやっていたから、はじめからケイシー。
テンプル――
リーディング健康会を始めたのはいつですか?
福田――
87年からです。リーディング健康会は、私がケイシーをやっているのを見て、安田先生が「面白いことをやっているねぇ」と始めてくれたんですね。あの人はバリバリしているから、すぐに会を立ち上げ、講習会も立ち上げてくれて、アチコチでばんばん講習会を開催してくれたんです。
名古屋の片岡さんがエドガー・ケイシー健康会を立ち上げられたのは91年です。本当にいろんな人に助けられてきました。ついこの間のことのように思いますが、もう、うん十年経って、講座も200回を超えます。
テンプル――
私が福田先生にお会いしたのは、1992年のAREツアーのときです。当時は福田先生はまだ独身で、私もこのとおり背が低いし福田先生も小柄なので、身長が合うからという理由で、ツアーメンバーから福田先生と見合いしないかと言われたことがありますよ。
福田――
そうなんだろうなと、なんとなく知ってました。ところで、ケイシーを知ったのは、やはりお兄さん(日本エドガー・ケイシーセンター光田秀会長)の影響?
テンプル――
そうですね。ケイシーを知ったのは中学の頃ですが、深く関わるようになったのは、92年のAREツアーのときからです。
さてさて、これまで先生の人生をざっと振り返ってきました。生長の家の活動を熱心にされていた福田先生の心をわしづかみにして離さなくなったケイシーの一番の魅力って何だったんですか?
福田――
「人間ってこれだ!」って思ったんですね。もうその頃は生長の家で何年もかけて勉強をしていたので、話が分かるんですよ。霊的な世界観が混沌としているなか、ケイシーの話はちゃんとしてる。「これは間違いない」と。そして治療を始めてみると、よく効くのでビックリかな。
ひまし油湿布のことでいうと、腎炎、肝炎には間違いなくいいですからね。胆石もほとんど出ますね。実際は、出るんだか無くなるんだか分からないけど。ですからすごく自信を持ちましたね。精神的な障害がある人の助けにもなる。精神的なことにもひまし油湿布はいいに決まっているんだけど、そんな方に「ひまし油湿布をやりなさい」と言ってもまずやってもらえない。サポーターとかアテンダントとかヘルプしてくれる人がどうしても必要。でもヘルプしてくれる人がいて、一緒にひまし油湿布をやっていると、元気になってしまう。
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テンプル――
それはヘルプしてくれる人が、無理にその人に湿布をさせるってことではないですよね。どういう形で湿布をしてもらうんですか?
福田――
そのヘルパーさんがまず自分でひまし油湿布をするんですよ。それで「ひまし油湿布、素晴らしいわよ。湿布をするとこんな元気になるのよ」ってやるの。例えば「娘に湿布をさせたいんですがやらないんです」っていうお母さんには「まずお母さん、自分でやりなさい」っていうの。それで「よかったわよ」って言わないとダメって。「よかったわよ、だから一緒にやりましょう」と言うの。それで一緒に湿布をしているうちに自然に良くなっちゃうんだね。ごく普通の生活をするようになる。
胆石で10日後に手術が決まっていたのに、消えてなくなった人もいる。かくいう私も10代から腎臓結石だったんです。便器に向かって排尿すると白い石がパチパチパチって当たってましたね。地面の上に排尿すると白い石が散らばってました。若い頃は真ん中に白い石を集めてみたりね・・・。私の場合、10代からのヒドイ結石だったから無くなったときは劇的でした。石が長年溜まっていたので、腎臓の細胞がびらん状態といって、腐ってはないけど細胞が一部が死んでた。それが患者さんのお宅で全部出ましたよ、ドボドボと。流れていかないくらい、ものすごい量でしたよ。それっきり三十数年元気にしてます。もう腎臓のことは忘れています。
テンプル――
そうなんですねぇ。福田先生ご自身もケイシー療法に助けられたお一人だったんですね。
先生が治療のお仕事を始められた当初、ほとんどの方はケイシーのことを知らず、また治療法として身体にオイルを塗ったり湿布をしたりというのはなかなか受け入れられなかったのではないかと思うんですが、当時、ケイシー療法のことはどう患者さんに説明されていたんですか?
福田――
今と一緒。エドガー・ケイシーという人がいて、私はそのファンなんですよ。ひまし油湿布というのがありましてね、ケイシーさんは全部の症例の人にオイルマッサージを勧めているんです。だから健康法として素晴らしいですよ、オイルも台所にあるオイルでいいですよ。だいたいこんな感じです。ひまし油湿布もやってみるとなんか元気になるので、だんだんケイシーのファンになってくれるのかなぁ。
テンプル――
その体感があった方が別のお友達を紹介してくれる・・・みたいな感じで伝わっていったんですか?
福田――
そうです、そうです。
テンプル――
私がケイシー療法を始めたのは25年位前でしたが、当時は、私くらいでしたよ、オイルを使って身体をマッサージしていたのは。
福田――
はい、分かりますよ。ケイシーのリーディングには部屋や身体を暖めて30分くらいオイルマッサージしなさいとありますが、実際はそこまで必要はない。アメリカのAREでオイルマッサージは受けたことありますか?
テンプル――
はい、受けています。
福田――
ストロークの長いマッサージをしてますよね。それをしてたら時間かかるけれども、ケイシーは脊柱に沿って、と言っています。アメリカのARE本部でやっているマッサージとケイシーのマッサージは少し違う。脊柱に沿ってと患部とだけでいい。上手じゃない方がやれば20~30分かかるかもしれないけど、上手な人がやれば数分で終わる。
昨日も講座でデモンストレーションをやったけど、私は意識屋さんだから、私のデモンストレーションは、目的をハッキリさせて宇宙に充ち満ちて働いている『愛の波動、リズム』を活性化する方法。治したい人がいたら、その人を治療しない。治す部分をココ、ココと言って、目的を『愛の波動』にハッキリ指定する。「あ、首が硬いですね、足が重いですね、お腹が硬いですね、胸椎が硬いですね」と、その人と具合の悪いところを目的にして、別の人をマッサージしちゃう。そうしたら、その人と目的のところが治ってしまう。
ひまし油の湿布もさっきの説明で終わっているけども、例えば「うちの息子、部屋から出てきません。もう十数年出てきません」「十数年って何歳ですか? え、43歳?」というような人がいますと、お母さんだけにおいでいただいて、そのお母さんを治療すれば、息子さんは元気になって部屋から出てくるの。ひまし油湿布とオイルマッサージをお母さんが自分でするの。そしたら息子は自然に部屋から出てくる。しばらくしたら「私の息子、いま職場へ行って働いているんですよ」っなんていう電話がかかってくる。
私が言いたいのは、ケイシーの言う霊的な側面、つまり愛という波動を活用しない手はないでしょう、ということ。それが私の言い分。それを今、書いて書いて書きまくってる。それを世界中の心身の具合の悪い人たちのお役に立てるように、インターネットで公開していますよ。
私はここにいて世界中の人を治しているって何十編言っても書いても、皆さんは「変なことを言っている人だな」と寄ってこないよね。ここでその人が治ってもそうですよ。「福田先生だからできるんでしょ」という感じなんだね。でもそうじゃない、誰でもできる。
菜央子さんの身体、触らせてね。首の左側が少し硬いね。そうすると、私はここでお茶を飲む。(*ここで実際に一口、お茶を飲む)
どう?硬さ全部は取れきってはないけど、肩が柔らかくなったの分かりますか?
テンプル――
右側はまだ硬い気がします。
福田――
そうだね、目的な左側の首だったから、左側だけが活性化したんだよね。私はこのお茶を飲んでいる自分を観じただけ。私でなくても、誰でも、この今の自分の感じを観じると目的の人の目的の場所の愛の波動が活性化します。いいですか、目的をハッキリさせて「皆さんの顔の前1メートル先の空間って、どんな観じですか?」 皆さんが考えるのを止めて自分の感じを観じますと、目的の人か目的の場所、目的の出来事の波動が活性化するんです。これで取れたね。良くなったでしょう?ほら、こんなに柔らかくなった。
テンプル――
あ、ホント。ありがとうございます。
福田――
ということなの。このとき言っておかないといけないのは『私は治るぞ』という選択をすること。私は仏教徒だけど、聖書を読むとイエス・キリストは治療の名人。あっという間に治してしまうんだね。マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝で言い方は少しずつ違うけど、ケイシーは3つの質問をしているの。あ、どこか治療してほしいところありますか?
テンプル――
いま、歯列矯正をしていることもあって肩はずっとこっています。
福田――
あ、ホントだ。首がパンパンになっているよね。特に左は右に比べパンパンだよね。そしたらこう言うの「菜央子さんの首の左側がこっているよ。頸椎の3番の左がこっているよ」って。これで目的をはっきりさせたの。病気治しのコツは、次の3つの問いを反すうしてどんな感じかを感じて、心の底から『はい』と答えること。
1番目『生き生きと働く選択をしますか?』と聞いたときに『自分は生き生きと働く選択をします』と感じるの。観じましたね。2番目の質問は『愛の働きを信頼していますか?』
テンプル――
愛の働きを信頼しています。
福田――
感じましたね。3つめ『愛を自分を通して人々と一緒に働かせますか?』
テンプル――
愛を自分を通して、人々と一緒に働かせます。
福田――
ほら、こりが取れた。愛の波動が活性化したので、ほら、もうキレイにこりは取れてるよ。
テンプル――
(爆笑) ありがとうございます!
福田――
こういうことだね~。『治す』あるいは『治る』選択をして、3つの質問を反すうして、自分の感じをそのまま観じるの。ホントなんだよ。愛の波動に『菜央子さんの・・・』と目的をハッキリさせて、この今の自分の感じを観じるだけ。
テンプル――
感じを観じる・・・・。まだピンと来てないところもありますが、これから練習します!
それにしても、80歳を目前にして、今も変わらずお元気で治療院をされているのは凄いことですよね。10代で知ったケイシーを今もずっと実践し続けられているのは何故でしょう?
福田――
戦前、戦中、戦後を全部生き抜いてきたんですよ。あっさり言って大変だった。その時に人間って素晴らしい存在ですよ、愛そのものですよとケイシーが言ってくれて、そのとおりにすると、歴然とその体験をするわけです。こりゃ、凄いなぁと。そういうことかなぁ。
テンプル――
治療というより、霊的な側面がやはり福田先生の心を惹きつけているんですね。
福田――
そうです。この今の自分は「どんな感じかなぁ」と自分を通して観じているのは愛の波動ってことです。菜央子さん、これやってみます? この中にウインターグリーンというハーブの香りが入っているんですが、この香りを嗅ぐと分かりやすいんですね。この器の口を両手でおおって、口と鼻で嗅いでみてくれる?
テンプル――
あ、お医者さんの匂い。でもむせちゃいます。
福田――
アルコールが入っているからね。いま、菜央子さんが感じていたのはこっち。アルコールやウインターグリーンの香りなの。さっきも言ったけど、私のいう「かんじる」は「観じる」と書くの。この香りを嗅いでいる自分の感じを観じる。ウインターグリーンの香りはどうでもいい。香りを嗅いでいる自分の感じの方を観じたとたんに治療は終わる。じゃあ、菜央子さんの他の痛みを取りますね。右腕にいま痛みがありますよね。
同じようにして自分を観じてみて。ウインターグリーンの香りはどうでもいい。どう?そうするとむせない。世の中の人が何をやっているかというと『全ては、彼が悪い、人が悪い、何が悪い、人生が悪い、世の中が悪い・・・』とそっちばっかり見ているから辛いの。その辛い感じを自分が観じていると、スバラシイ人生ってこれなんだ!って思えるわけ。悲しみと喜びは裏表。悲しみがない人は喜びを体験できない。この前、絶望を体験したけど、絶望と希望は裏表なの。どちらを「どんな感じかな」と感じても同じこと。全部それ。ほら、痛み、無くなったでしょ?
テンプル――
福田先生、魔法使い~!
福田――
みんなに言われます。でも私は魔法使いじゃなくて意識使い。もう一言、「愛の波動使い」。さらにもう一言、皆さん1人ひとりが、このまま「愛の波動使い」。やってみたら?
テンプル――
ありがとうございます~。痛みを取っていただきながらも、質問は続けますね。
福田先生の1日に興味があるんですが、どんなふうに1日を過ごされているんですか?
福田――
私は山を歩くのが好きなの。だから今、周りに山があるところに住んでます。ケイシーが『子供は自然の中で育てなさい』と言っているから子供が生まれたときにそっちに引っ越した。なんてったって、私はケイシー屋さんだからね。
テンプル――
そのケイシー屋さんのモデルとして、福田先生の目覚めのときからの1日、興味ありますね。
福田――
嬉しいね~。だったら聞いて聞いて。朝、目が醒める。『すんばらしい世界に住んでいるすんばらしい福田高規。なんて嬉しいの!』ここから始まる。いま私が喜びを全身で顕したの見た?
テンプル――
見てましたよ。
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福田――
寝ている時もこれやるの。『すんばらしい世界に住んでいるすんばらしい福田高規』って。よく見ててね。『なんて嬉しいの~!』(*ここで福田先生は両手を挙げ、身体をよじらせて喜びを表現される)。 今の見た? なかなかみんな見てくれないんだけど、つま先から頭まで全身で喜んでいるの分かった?
テンプル――
福田先生の全細胞が喜んでいるって感じなんですね。
福田――
そうそう。全身でやるの。『福田高規、すんばらしい存在!』って。これがケイシーが言う『理想』をハッキリさせるということ。
そして日々理想の自分にとって嫌なことはやらない。見ててね、お茶飲むときにも私は肘をあげない。向こうのモノを取るときにも肘をあげていない。これにも、これにも、これにも、肘を上げないでモノを扱う。全部骨盤で動いていく。
テンプル――
あ~。私は腕だけを伸ばしてモノを取っていますね。
福田――
ほら、だから肩がこる。でも肘をこう身体につけてみて。
テンプル――
身体全体で動くって感じなんですね。
福田――
そうしたら肩が楽でしょ? 何かをするときには全部中心でやるの。向こうのモノを取るときにも肘をあげずに中心で動いて取る。だから私は肩がこらない。何時間車の運転をしようとパソコンをいじっていようと肩はこらない。
テンプル――
ほんの些細な違いですよね、腕を伸ばしてものを取るか、身体ごと動くかって。
福田――
ほら、そう腕を伸ばすから肩がこるでしょう、それって嫌でしょう?嫌なことは全部やらない。『今日1日嫌なことが起きるかな?』と思えば、その日1日、嫌な人生を選択したの。人生は全部自分の選択とその体験だから。だから朝起きたら、何はともあれ『素晴らしい世界に住んでいる。福田高規、すんばらしい存在!』って、全身で喜ぶ。実は嫌なことが起こる選択をしている人も、嫌な体験という自分が選択したスバラシイ体験をしているだけ。
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こういうの書いても書いてもまだ書き足りないし溜まっちゃって、溜まっちゃって、ここにいらっしゃる人達皆にいくらでも持ってって、持ってって言ってる。でも、これも大事。いいものを一杯あげる人がいいものを一杯もらえる人なの。これは霊的な法則。だから朝から『福田高規すんばらしい存在!いいものを一杯あげる、一杯あげる!』って起きてくる。そして山を祝福するために歩いてくる。
ケイシー流だから、朝ご飯はミカンの日と玄米ゴハンの日とある。それからここに出勤してくる。歳をとって最近は食事の量は少なくなってきているので、ミカンの日が多い。
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こちらに来ても、先ほどから何本か電話がかかっていますが電話での相談も多い。電話でも、会ったことのない人の人生相談をするわけですね。例えば菜央子さんの心身がこの今、どんな展開になっているのか、すぐに分かるんです。
フム、菜央子さんはちょっとしたこだわりがあるんですよ。よく怒るクセがあるので、怒ってはいけないと自分で思っている。そういう選択をしていると言ったほうがいいのかな。ケイシーは100年も前に言っているよね、怒りの大切さ。怒りやストレスの抑圧がリュウマチや関節炎の原因なんですよ。ほとんど全部といっていいほど。その解決方法はもう出てるの。自分が選んだ職業仕事から逃げ出さない。それが解決方法かな。でもケイシーも言っているでしょう、人間って怒らないとダメなの。
私は怒りんぼなんです、すごく怒る。怒ると汗が出る。今も怒り始めているので汗をかいてます。だから私はシャツが着られないんです。怒らないといけないと分かっているので、遠慮無く怒るんです。でも家内もうちのスタッフも患者さんも私が怒っているのは見たことない。福田先生、怒らないですよねってみんな言う。え?私は朝から晩まで怒ってますよ。怒りというのはものすごいパワーなんですよ。だから怒らない人は損をしている。だから菜央子さんも怒りながら仕事したらいい。
ただ人に当たることはない。そんな時はこれをやるの。さっきみたいに怒りという香りを吸いながら私の怒りってどんな感じかな?あ、怒りってこんな感じなんだって観じてみる。何を言っているかというと一体感なんです。怒りと一体になってしまえばいい。喜びと怒りは裏表なんです。怒っている自分を許しておくと、怒りはものすごいパワーなんで、いつも怒っていると歳をとっている暇がない。髪の毛は無くなってきましたけど。
私は怒りんぼだと高校に行く前頃に分かったから、勝負事はやらないんです。将棋なんてやっていたら、全身メラメラメラとくるんでね。だからスポーツも見ないし、オリンピックの時にはうちのテレビは沈黙してる。家内も見ないから。でも怒りってすごいパワーなの。スポーツマンは怒りをどう表現しているかはよく知っている。イチローだって毎回出てきて、こんな動作するよね。あれは怒ってるんです。このやろー、打ってやるぞって。イチローは誰に向かって怒ってるんでしょうね、ピッチャーに向かって怒っているわけじゃない。相手のチームにでもない。でも怒りというものを感じているんです。表現している。ポチャポチャっとしたお相撲さんもハッケヨイとやるときには凄い顔をしますよね。あれも全部怒りの表現。福田先生、誰に怒っているんですか?って聞かれることあるけど、答えようがない。私は上手に観じているんです。怒ったほうが勝ちなんです。だから私にはストレスがない。
でもそれを人にぶつけると、世界中の人は全く同じ意識、同じ命を生きているので、その怒りが自分に返ってきてしまう。要するに私たちは人に向かって怒っていると思っているけど、実は自分に向かって怒っている。でも怒りは充分に感じてしまえば、自分もパワフルになっちゃうの。だから怒りって素晴らしい。そんな感じかな。
そんな話をしているうちに肩のこりなんかなくなっちゃって、福田先生のところに行けば楽になるってことが分かる。でしょ?分かったら皆さん、来なくていいんです。そうやって1日を送って、また帰宅したら山を祝福したくて山の中を歩くの。人は神を祝福しようが、自分を祝福しようが、人を祝福しようが全部まったく同じ祝福の体験。これが人生。
テンプル――
ランチタイムに召し上がるのは、ケイシーが勧めていたように、サラダ山盛りですか?
福田――
見せましょうか? 今日は忙しくてまだお昼を食べてないからまだあるの。これ野菜なんだけど、私がケイシー屋さんだっていうの、分かるよ。これ、マレインの葉っぱ。
テンプル――
これはオオバコですね。
福田――
オオバコの葉っぱは山に行って摘んでくるの。あらためて『人生を変える健康法』のオオバコとマレイン(ビロードモウズイカ)の項を読んでみて。なるほど、福田先生はやってるねって思うから。それで80歳になっても元気と。そういうこと。
キャベツもあるよ。ケイシーは緑黄色野菜で、丸まっているものより広がっている緑の濃い野菜を食べなさいと言っているから我が家では、キャベツの種を蒔いて育てても、外側の葉っぱからどんどん食べていっちゃうの。そしたら、こうなっちゃう。皆さんに、これ何ですか?て聞かれるよ。だから答えるの、キャベツですって。
テンプル――
こんなキャベツの姿、私もはじめて見ました。
福田――
福田高規は、徹底的にケイシー屋さんなの。
テンプル――
夜は何を召し上がっているんですか?
福田――
夜は温野菜。日本はいま蒸し野菜っていうのが流行っているの。今だったら大きな小松菜3株を家内が蒸してくれるの。私は小さな魚しか食べないので、シラス干しにマヨネーズ。私はマヨラーなんでね。それから玄米ご飯とお吸い物。もちろんケイシーがゼラチンがいいって言っていたから、ん十年ゼラチンを食べてますよ。ゼラチンは欠かせない。
こうやってすんばらしい1日が過ぎていくんですよ。
テンプル――
ご家庭のことを少しお伺いしたいんですが、息子さんとはケイシーのこととか人生のこととか話されますか?
福田――
ケイシーのことは話さない。息子は息子の人生を生きているからそれでいい。困ったら何でも言えよというのが私の持論。今の子供達は食べ物に困らないだけでなく、住むところもちゃんとあって、遊ぶものもたくさんある。だから悩まないんじゃないかな。全部満ち足りているんだよね。でも満ち足りているってことは満ち足りていないんですよ。満ち足りていない体験をしていないから、満ち足りていることも分からない。
日本の人達、他の国に比べれば社会も平穏で安定している。だから自分が幸福だってことを知らない。本当に恵まれているってことを知らない。私たちは食べ物のない時代に育ったから命を張って食べ抜いて来たかな。それは凄まじかった。だから食べ物があるってことにはものすごい感謝だよね。
テンプル――
最後の質問になりますが、福田先生は、日本人に対する思いとか、こういうふうな日本人になってほしいとか、そういう思いは持っていらっしゃいますか?
福田――
日本人というより、私の夢。『地球の表面を動物たちに返そうよ』っていうのは、よくみんなに言ったりしています。科学は進歩したから、人間達は深いところに行かなくていいけど、屋根の上に緑の空間を作って住むようにしたり、景色が見たければ景色が見られるような仕掛けをして、太陽光線も鏡の反射反射で届くようにして、地上を動物たちに返しましょうよ、というのがわたしの夢。
私はここにいながら世界中の人を治している。精神的な問題も含めて。だからドルも届きますよ。知らないアメリカ人の男性を治したりするとドルを送ってくるんだよね。自分自身を観じるってことに慣れると私たちは誰でも人を治せるようになるの、マッサージやひまし油湿布を自分がやって人を治せばいい。人々は死の直前になっても、それをどんな感じかなと観じて世界中の人々の心身を活性化できる存在です。ホントだよ。
不安を感じられないと平安も感じられない、安心も感じられない。悲しみを感じられないと本当の喜びを感じられない。だから感じるのは全部感じちゃったほうがいいですよ。
それから自分の後半の人生のために、早い段階から自分たちがやっていることを分かってしまうといいなと。つまり自分を含めて人を非難、批判、否定をしない、ということ。
この前も道で背の高いお母さんが小さな子供を引っ張りながら「なんで、あなたはこんなことをしたの!」って怒鳴っているの。これも非難、批判、否定。子供は悪いことをするものなの、私は8人兄弟のトップだったからよく知っている。母親だったら『大丈夫だよ、お母ちゃんがついてるのよ。あなたはこのままで素晴らしい存在なのよ。保育園でも元気でやっててよ。帰ってきたらご馳走作って待っているわよ』って何故言わないの。
ケイシーの明示法ってありますよね。おねしょが止まない男の子に寝る前『あなたは素晴らしい存在、大きくなったら人々を導くようになるでしょう』と言ったらその晩からピタリとおねしょが止まったってあれ。あれをやればいいんです。
13年間、部屋から出てこない息子のためにお母さんが何をするかというと、自分でひまし油湿布とオイルマッサージをして『私の人生、素晴らしい!うちの息子もそう』ってやればいいだけのことなの。そうやっていたら息子は間違いなく部屋から出てくる。うちの息子も保育園に入ったとき母親のスカートを握って離さなかった。先生に挨拶も出来なかった。だからケイシーの言うとおり明示法やった。『うちの息子は素晴らしい。大きくなったら大勢の人を導くようになるでしょう。ありがたい』ってやった。そしたら翌朝から、保育園で先生10mも先にいるのに「せんせー、おはようございます!」って言うようになった。
ケイシーの言うことは間違いないから、やったらいいんです。私が息子にケイシーのことをあまり話さないのは『うちの息子は素晴らしい』ってやり続けているから、息子が何をするとかしないとか、あまり心配していない。『うちの息子は素晴らしい』。ここからぶれない。
日本の未来、世界の未来もそう。悪いニュースばかりが取り上げられているけど、そうじゃないと私は理解してる。でも貨幣経済はすぐに行き詰まると思います。国の違いとか、人種とか、北や南とか、そういうのを超え、これからはみんなが協力して生きることができるんだと、みんなそれぞれに分かってきて生き始めます。どこかに食料が足りない国があれば、あ、うちにはあるよと、どこかの船会社がじゃあ、うちの会社がついでに運びますよ、そしたら別の人が、じゃあ私はその食料を港まで運びますよと、そんな感じ。
これからは物々交換の時代にもなります。差し上げた、いただいたという記録だけが残るだけで、相手がそれに対して何かをする必要は一切ない。足りなくて困っているよ言われたら、余っている人が送る。そういう世界が来る。ホント。かなり急速に来ると思う。そのために大規模に世界とネットワークで繋がりあう。世界中の人が、1人ひとりの人の情報を全部共有する世界が来る。世界中の人々は皆、自分なので、協調、協力、これが人類の生活体験。そういうことを私は希望しています。
だから治療も簡単ですよ。誰かがお腹壊しちゃったと言えば、じゃあ、私がここでひまし油湿布するねって。世界の反対側にいる人、10人でも20人でも、私がここでひまし油湿布すると良くなるんだから。ホントだよ。いいですか。こうして私たちは皆で同じ『1つ』の『自分』を生きているんです。
今日は貴重なお話を聞かせていただきまして、本当にありがとうございました。
インタビュー、構成:光田菜央子
福田先生の撮影:MIWA KATOH