SEPのValue Theory チャプター1の簡易まとめと覚え書き
おことわり
このnoteは、普段あまり人と関わらないため独断に陥りがちな私の思惟をネットに公開することで緊張感を持たせるという、自己満足を主としたものです。なんらかのリアクションがあれば私の学習の助けになるかと思います。
概要
本記事は、読書会で読んでいたSEPの “Value Theory” チャプター1の簡易的な概説とそれに対する私がメモとして残していたコメントを整理したものです。
私の英語能力が高くないので誤読してしまっていたり趣旨を外してしまっている箇所もあるかと思います。うまく訳せていないところは随所に原文を載せているものの、前述の通り自己満足のためのものなので質の高さを保証しようとしたものではなく、したがってちゃんとした内容を知りたい方は直にSEPの方に目を通されることを強くお勧めします。
SEP, “Value Theory” : https://plato.stanford.edu/entries/value-theory/
First published Tue Feb 5, 2008; substantive revision Thu Jul 28, 2016
また、コメントに関しても私は倫理学の訓練を受けたものではないので色々拙い見解も多いと思っています。まぁこういうのもネットの海に流してみると楽しいかなと思い記事を作成しました。
チャプター1まとめ
4種類のgoodセンテンス
・私たちは何かに対して「good/better/best」や「bad/worse/ worst」などの言葉が含まれた価値評価を行なっている。それらには以下の4つの用法があるように思われる。
1. 快楽は善である(Pleasure is good.)
2. あなたがきたことはよい (It is good that you came.)
3. 論理学を学ぶことは彼にとってよいことである(It is good for him to learn logic)
4. それはいいナイフだ(That is a good knife.)
1→価値主張と呼ぶ。ある対象を「よい」と評価している。
2→このgoodを無条件な善(goodness simpliciter)と呼ぶ。
3→good forと呼ぶ。forの後に人が来ている場合は、福利やwell-beingについての主張とみなされる
4→属性の善(attributive good)と呼ぶ。このgoodは修飾語として機能している。
問い
これらは相互的にどのような関係にあるのか。複数の用法を一挙に説明するミニマムな理論の紹介。これら4つのgoodセンテンスは一つの理論に収束されるものなのか。最も基礎的なgoodは何か。goodとbetterやbestはどのように理解されるのか。
ミニマムな理論の探求
まずはミニマムな理論はないか探求していく
①無条件な善をgood forから理解する(1.1.1)
・観点理論(代表者はネーゲルなど)
・無条件な善は一般的な視点(宇宙からの視点)から見たgood forと理解される
・観点理論の問題点:複数の観点があり得ることを意味してしまう
あまり詳しく説明してくれていないので具体的にどう問題なのか不明。おそらく、goodの意味が相対的になってしまって視点同士の衝突に調停ができないことを問題にしているのだと思われる。詳しくはNagel [1985]を読めばいいのかな?
・加算理論
・無条件な善は存在する全ての存在のgood forを集計したものだと理解される。従来の功利主義的発想
・問題点:「本が日焼けしちゃうことは本にとって良くないよ」のように、good forの後に理性的存在者や有感生物以外のものも来ることがあるように思われる
・フットの理論
・無条件な善は、個人に言及していないgood forの簡略化された主張として理解される
・この場合、無条件の善は一般的な形で量化された個人的善についての言説であると認めることでこの見解は強化される
「……and Foot's view can be strengthened (compare Shanklin [2011], Finlay [2014]) by allowing that apparent good simpliciter claims are often generically quantified statements about what is, in general, good for a person. 」のgenerically quantified statements がうまく訳せない。
追記:generally quantified statementsは「全称量化された主張」という意味ではないだろうかとのコメントを頂きました。ありがとうございます。
・good forのさらなる理解
・G.E.ムーアによる(倫理的利己主義者たちが抱いている)good forの理解
・good forとは「ジャックにとってよいものとは、よいものでありかつジャックの所有しているものだ 、もしくは、ジャックの所有しているgoodである」を意味している
・これは普遍化可能性テストをパスしなさそうだとのこと
②無条件な善を属性の善から理解する(1.1.2)
・無条件な善とは結局のところ命題、つまり事態の状態なのだという見解
・これは「good if~」「good that~」「better for~」のようにgoodはif, that, for に続くことからも支持される
・「もしそれをやってれば、よかったのに(good if~)」
・「来てくれてよかった(good that~)」
・「今終わらせるのがよい(better for)」
・すると、無条件な善はよい事態の状態のことなのであり、属性の善の特殊なケースとして理解できる
・ギーチとフットは「根拠が薄すぎる」としてこの見解を攻撃している
③非認知主義への攻撃(1.1.2)
・非認知主義は無条件な善を説明しようとするためのものであったが、属性の善やgood for(などの関係的なgood)を扱うことが難しい
・これは非認知主義では行為者相対的な価値を説明することが困難であることと似ている→セクション4へ
おそらく倫理学における認知主義vs非認知主義の議論についての知識をそれなりに前提としていて、私には何を言っているのか分からなかった。
④無条件な善、good for、属性のgoodの全てを一つの理論から取り扱う(1.1.3)
・“end-relational”[最終目的的]理論(ポール・ジフとステファン・フィンレイによって考案されている)
・goodnessに関する主張は全て最終endsや目的に関連している
・good forと属性のgoodは、目的を明確にするための異なる方法にすぎない。例えば、ジャックにとって何が良いかを語ることはジャックが幸せであるという目的を明確にし、何が良いナイフであるかを語ることは、ナイフの通常の目的(物を切るなど)を明確にする。goodの意味は目的に応じて相対化される。
・何に対してのgoodなのかのパラメーターをはっきりさせる必要がある
・目的が不明瞭だったgoodの文章も、一度パラメーターが明記されれば真か偽のどちらかとなる
・問題点:goodの使われ方ってそんなに関係的なものではない
:言語データを見るにgoodはそんなに文脈依存的・相対的じゃない
・ Finlay [2014]「関係的じゃないように見えるかもしれないけど、実は関係的なのだ」
・マッキーの錯誤理論error theoryは非-関係的なgoodに対する攻撃なので最終目的的理論は攻撃の対象ではないとのこと(?)
錯誤理論のところで筆者Schroederさんが何を言おうとしているのか理解できなかった。
「J.L. Mackie held a view like this one and embraced this result — Mackie's [1977] error theory about “good” extended only to such putative non-relational senses of “good”. Though he grants that there are such uses of “good”, Mackie concludes that they are mistaken.」
価値主張(1の用法)の特殊さと厄介さ
⑤価値主張(1の用法)の特殊さと厄介さ(1.1.4)
・価値主張のgoodは、他の用法だとできている価値の比較を認めない。betterの扱いが難しい
→これを解決するために、価値主張は他の用法とは論理的な形式や構造が違うのだと考えてみる
・このアイデアを実装する2つの理論
・善[よいこと]先行理論good-first theory
・「快楽は善である」とは「(他の条件が等しければ)より多くの快楽があることがより良い」を意味する。
・無条件な善という観点から価値主張を分析する
・価値の原初的な担い手は事態[こと]
・価値先行理論value-first theory。
・「快は善である」とは快楽に価値があると主張していることになる。そして、価値あるものがより多くあるときに限り、事態はbetterとなる。
・価値主張という観点から無条件な善を分析する
・価値の原初的な担い手は快楽やgoodness[もの]
・価値主張の特殊さ・厄介さに対する、より懐疑的な見解
・「快楽は善である」とは単に「ジルが快楽を経験することは、ジルにとっていいことである」を簡略化して述べているだけで価値主張は特殊なものでもなんでもない
・Finlay [2014]と Robert Shanklin [2011] によると、一般的に、「fun」のような経験を伴うgood forセンテンスのパターンは「Jack is fun for Jill to talk to」「Jack is fun to talk to」「Jack is fun」のような構文的な変換を認めている、とのこと。
いろいろ問題点があるそうだけどよくわからない。このような構文の変形は奇妙だよねって言ってるみたい
「Following an idea also developed by Finlay [2014], Robert Shanklin [2011] argues that in general, good-for sentences pattern with experiencer adjectives like “fun”, which admit of these very syntactic transformations: witness “Jack is fun for Jill to talk to”, ”Jack is fun to talk to”, “Jack is fun”. This view debunks the issue over which the views discussed in the last paragraph disagree, for it denies that there is any such distinct topic for value claims to be about. (It may also explain the failures of comparative forms, above, on the basis of differences in the elided material.)」
goodとbetterの関係
⑥goodは基本的なもので、betterの観点からは理解されない(1.2.1)
・good-betterの関係は、tall-tallerのような関係とは異なるようだ
・tallのような比較変化が可能な形容詞は、tallerのような比較級の観点から理解される
・例えば「彼女は背が高いね(tall)」といったとき、それは「その女性はある適切な基準よりも背が高い(taller)」ことを意味している
・しかし、多くの哲学者はgoodをbetterの観点から理解する代わりに、goodが基本的なものなのだと仮定している。とは言えこのようなgoodの特殊さはしっかりした根拠がないと奇妙なものに思われる。
⑦betterをgoodの観点から理解することも難しい(1.2.2)
・「ジョンはジャンよりもよい短距離走者である」と言ったとき、両方ともよい短距離走者であるにも関わらず「よりよい(better)」という判断が可能であるように思われる
⑧価値の観点からgoodとbetterを理解する(1.2.2)
・ある人の背の高さ(hight)がすごいときに限りその人は他の人よりも背が高いと私たちは言うように、ある価値がすごい場合に限りその事態の状態[state]は他のものよりもbetterであるというと言う
・tall-tallerがhight(の量)から判断されているように、good-betterも価値value(の量)から判断されるのだという戦法
・このとき、価値と価値の量を同一視するのは自然的
・価値先行理論と親和的(たぶん……)
問題点:属性の善をうまく扱えない(缶切りの例)
:全ての比較変化が可能な形容詞がheightのように文字通り多い/少ないの比較が可能な観点から分析されるわけではない(ホラー映画の例)
⑨goodをbetterとして理解してしまうことのさらなる問題(1.2.3)
・badを導入したとき、BがAよりも悪い(worse)時にAはBよりもよい(better)のだと私たちは考えるので、goodの意味が文脈依存的、関係的、相対的(比較的)となる。
・これだと「what is good」のような重要なものを除外してしまう
・(反論)何かよりもbetterなものについての全ての事実を知ったとき初めて“that is good”が真実であるかどうかを言えるのだ。比較するに必要な(文脈依存的な)基準も知る必要がある。
私的コメント
以上がチャプター1の簡易的なまとめです。読んでよくわからなかった箇所は、私が具体例をいくらか省いたことも原因かと思われますので、やはりちゃんと知りたい方は“Value Theory”の該当箇所に目を通して頂ければなと思います。すみません。
以下は私がチャプター1を読んでいて浮かんできてものをとりあえず整理したものとなります。思いつきや直観によるものが多く、あまり洗練されてはいません。放置されたままの問いもいくつもあります。
とりあえずの方針として
・私はなるべく「good for」の観点からgoodを分析したい。
・また、goodをbetterの観点から捉えたい。
と思っています。
「good for」の観点からgoodを分析した場合
・「ジョン、数学のテスト何点だったの?」「よかったよママ。95点」
私の理解によれば、ジョンの発言は「私のテストは95点であり かつ テストのgood-パラメーターは100点満点に近いほど良いというものであり かつ ある基準から見て95点という点数は(より)よい(better)ものだった」と理解される。
この発言のどこまでが事実判断で、どの箇所が価値判断なのだろう。
・パラメーターの設定は価値判断か
・ある基準からの比較は価値判断か
・「Tall」という言葉には(おそらく内在的に)「より高い」というtall-パラメーターが設定されている(注1)。例えば「彼女は背が高いね」といったとき、それは「その女性は文脈的に定められたある適切な基準よりも背が高い」ことを意味している。また、「彼女は背が高い」は事実判断のように思われる(注2)。もしこれが事実判断ならば、「ある基準からの比較」は事実判断であると認めても良さそうだ。ではテストのgood-パラメーターは価値判断だろうか?
(注1) tall-パラメーターとhightの違いはなんだろう?
(注2)「彼女は背が高い」は価値を含んだ判断だと考える人もいそうです。
・ところで、ジョンは普段の成績が悪くて数学で98点以上を取らなければ留年するという事情があったのだとすれば、留年しないという観点から見て、95点の答案は、ジョンにとって悪かったと言うだろう。(もっとも、現実的にはジョンの台詞は「点数はよかったんだけど、わずかに届かなかったよ」とかになりそうだが、これはかかる状況下ではテストのgood-パラメーターが二つ存在することを示唆する)。このときのテストのgood-パラメーターは明らかに「98点以上を取る」というものである。
・ある事物・事象の目的が複数ありえて、おそらくそれに対応してパラメーターが複数できうるだろう。
・そうなるとやはり「100点満点に近いほど良い」や「留年しない点数をとると良い」といったパラメーターは“さらに”なんのために設定されているのかその目的を問う必要がありそうだ。
・最終的にはwell-beingに行き着くのでは?もしくは「それがジョンが目的としている手段となっているから」とか。どちらにせよ「good for 人・動物」の観点から理解できそうな。
・そうすると、価値主張(1の用法)は「well-being is good」だけであり、それ以外にはないと結論づけなければならないのだろうか?うーん……。快楽説だと「well-being is pleasure」と言うだろうし、この場合「pleasure is good」も認めることにはなるよね。
・他に何か問題や例外はあるだろうか。言語データを参照するとgoodはそんなに文脈依存的・相対的じゃないらしいけど(1.1.3)、予想ではそれは社会(規範)的にある程度共通的なgood-パラメーターが設定されているからだと思う。例えばテストならば「100点満点に近いほど良い」といった具合に。しかし「Tall」の場合はより言葉と密接にtall-パラメーターが設定されているように思えて、goodを特別扱いする理由が必要かもしれない(どこで価値判断がなされているかがヒントになると思う)。Finlayさんの論文を読みたい。betterの観点に立った場合の問題として、「what is good」が扱えないとあげられていた(1.2.3)。確かに何か基礎的なgoodがなければそもそも「よりよい」と述べることも出来ないように思われる。これに対しては、基礎的なgoodは最終的な目的であったりwell-beingなのだと対応したい。
・無条件な義務とかは、もしそういったものがあれば、どのように理解されるのだろう。
・道徳的な善はgood forを集計したものか、宇宙の視点から見たgood forのどちらかで理解したい。しかしジョンが数学のテストで95点を取ったことは、同じテスト内で偏差値争いをしているクラスメートにとって悪いこと(bad for)と言えてしまうのでちょっと厄介。
・普遍化可能性の要請
「そのナイフはよく切れるからいいね」と主張した場合、普遍化可能性の要請より他の同様によく切れるナイフに対しても「よい」と判断しなければならない。しかし、わたしが述べてきた理解によれば、さらに進展させて「そのナイフのよく切れるという性質は私(または特定の誰か)の目的に敵うからいいよね」あるいは「そのナイフのよく切れるという性質は私(または特定の誰か)のwell-beingに寄与するからいいよね」と主張していることになる。目的やwell-beingがある特定の人の状況Cと付随的関係(注3)にあるので問題はなさそう?
(注3)もっとちゃんとした表現があった気がする。
普遍化可能性の要請を「ある人物xが状況Cにあるときφに対して「よい」と評価されるならば、あらゆる人について状況Cでφに対して「よい」と評価されなければならない。」と理解すれば問題はないよね、多分。
・普遍的利己主義(永井均)を真剣に捉えた場合、「good for me」以外の用法を許容することができないのでは?
Aさん「このブログサービスはいいね😃」
普遍的利己主義者B「それはどうしてですか?」
Aさん「文章に合わせて自動で絵文字をつけてくれるからです😤」
普遍的利己主義者B(私はその機能イヤだな……)
普遍的利己主義は「Aさんにとってgood」を認めてしまうとそこから利己主義とは異なる道徳が開けてしまう(し、その道徳を否定する理由が私には見当たらない)のでAさんのgoodの使い方は間違っていると判断しなければならない?そんな無茶な。
・その他、一見good forから理解できなさそうなgoodを含んだ文章も、引用符付きの用法や慣用的用法(R・M・ヘア)などで対応可能だと思われる。しかしこのような我々の日常的用法に対するやや強引な解釈にどれほどの魅力があるのか少し疑問。デレク・パーフィット『理由と人格』の序文にストローマン先生による記述的哲学と改訂的哲学の分類が紹介されていたが(パーフィット先生はもちろん改訂的哲学が好み)、私も改訂的哲学が好きなので「我々の日常的信念は実はちょっと間違っているんですよ」と言っていきたい気持ちもある。しかしgoodを含んだ文章の分析を日常的になされている会話をもとに始めてしまっているのでもう少しうまいやり方を探したい。これは最後にも書いたけど、おそらく私には、価値というものが我々の状態から独立して存在しているようには思えないので、これを正当化するところから始めると良さそうな気がしている。
goodはbetterの観点から理解できるか
・ジョンのテストの例だと、留年がかかっていない状況では100点満点に近いほどより良い(better)と表現していいように思える。98点だと(95点などの98点未満の点数よりも)より良いことになる。しかし、ある基準から見て、例えば留年を回避できる点数という基準から見て、その基準以上のものは一律に「よい」と言うこともありそうだ。
・もう少しはっきりとした例を考えよう。
ある強盗が金庫のナンバーを入力して開けようとしている。しかし、うっかり最後のナンバー「3」をメモしてくるのを忘れていた。一度入力ミスをしてしまえば警報システムが作動し捕まってしまう。今引き返したりその場に長時間滞在していても同様に捕まる。もちろん強盗は金庫を開けたいし捕まりたくもないと思っている。その時点において、強盗にとってよいことは(運よく)「3」と入力出来た場合のみであり、その他の行為や可能な状況は全て一律に悪いことのように思われる。どうしよう……。単に比較の対象がすくない特殊的な状況と捉えていいのだろうか(ダメな気がする)。
・属性の善に対しては、「「good for」の観点からgoodを分析した場合」で述べたような目的的理解をやや強引に適用させれば問題はないと思う。例えば「いい缶切りだね」と言ったとき、缶を開けたいという私の目的に対して缶切りが道具的よさを持っているねと言っているのだと理解される。そしてその缶切りの良さは、文脈的に適切なある基準から見てbetterなものかどうかで一般に「よい/悪い」と評価される。ベストな缶切りとは、それよりもより目的を果たすのに適合的な性質を持った缶切りを想像出来ないときに下される評価である。「いい缶切りだね」とはこれらのことを省略してある種の社会常識を暗黙の前提として述べているにすぎない。常識には反するけど、私にはそんなに反直観的とは思えない。
・多くの理論家は「goodはbetterの観点から理解される」という主張と相容れないgoodの分析を提示してきたらしいけど(1.2.1)、どんな分析があるのか知らないわからない。こわい。
・おそらく私には、価値という(奇妙な)ものが我々の態度・状態から独立して存在しているようには思えないのだろう(推測)
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