それはもう過去の話。

朝起きて朝ご飯を食べる。
白米と、昨日の夕飯の残り物。それからそこにちょこんと乗った目玉焼き。
インスタントのコーンスープは熱すぎて飲めないからこっそりと牛乳を足してまろやかに。
いつものご飯。
いつもの朝。
だけど私は今日ほんの少しの勇気を出す。
食べ終わった食器をカランと流し台において。
早くしないと遅れるよと洗い物をしながらママが急かす。
俯いたまま立ち止まった私を不審に思ったママが顔をのぞき込んで驚いた顔をした。
「あのね、あのねお母さん。……私もう学校行きたくない。みんなが私をいじめるのよ」
言った。
ついに言えた。
ずっと言おうとして勇気が出なかった言葉をついに。
ママが息を飲む音がして。
手から離れた食器がパリンと割れる音がする。
泡だらけの手が私の肩をつかんで。
「……何があったの?」
「まま……、あのね」
真剣に私を気遣う声にとっくの昔に卒業したはずの呼び方が漏れた。





私にとって高校は苦痛なものでしかなかった。
勉強は嫌いではないし、運動だってちゃんとできる。
私は学生として最低限のものはちゃんと満たしているのに。
とぼとぼと廊下を歩いて教室の後ろ側のドアから身を縮めるようにして入る。
「お、はよう……」
勇気を出して声を出して。
絶対に声が聞こえるところにいるはずの男の子たちがちらりとこちらを見てからまた自分たちの会話に戻っていく。
まるで私がそこに存在しないかのように。
チクリと痛んだ胸をぐっとこらえて自分の席に進む。
ホームルームが始まる前はみんな席を立って思い思いの席へ移動している。
その中で一人することもなく自分の席で時間を潰す惨めさはきっと誰にもわからない。
涙が出そうだ。
せっかくの高校生活なのに。
バタバタと廊下を走る音。ガラッと勢いよく扉が開く音。
「……っぜ、ま、間に合った……?」
肩を大きく揺らして駆け込んできたのは相川さん。
私は彼女のことが苦手だ。
いつだって何も考えてなさそうな顔をして。
それなのに。
「おっ、はよ翠。今日は遅かったんじゃん?」
「茜もじゃん。間に合ってよかった~」
「ま、私はこのくらいの時間じゃ余裕ってわかってるから」
「はあ~?」
同じく教室に駆け込んできた浦川さんとハイタッチなんかしちゃって。
私の時には見向きもしなかったのに男の子たちが「寝癖やばいぞ」と笑いながら声をかけていた。
「うっそ。あざす」
手ぐしでさっさと髪をすいて。
スタスタと自分の席に歩いて行く。
「おはよナッキちゃん。それ今日のテスト?」
「おはよう相川さん。うん、そう」
「今日どこだっけ。昨日ど忘れして寝ちゃってさ」
「ここからここ」
「あざす!いつもごめんね。はい、飴あげる」
「もう…」
しょうがないなという顔をした委員長。
いつものやりとり、慣れた取引。
どうして?
私のことは助けてくれないのに。
さみしい。
私はこんなにも孤独なのに。
全員が私を無視して。それが正しいかのように振る舞っている。
「……つらいよ」
ぽつりと拡がった音が誰にも拾われずに消えていく。
つらいよ。だれかたすけてよ。
このいつまでつづくかわからないいじめからだれかたすけて。





チャイムが鳴って、慌ててドアを開けると担任の常陸先生。
心配そうな、気の毒そうな顔で立っていたが私の顔を見てにっこりと笑った。
「こんにちは、清水さん。調子はどう?」
「ああ。先生。いかがでした?うちの子は、相手の子たちは反省したんですか?」
「はい。詳しくご説明いたしますので中でお話しさせていただいても?」
「もちろんです」

リビングでママと並んで机に座って。
食卓の向かいに座った常陸先生が深々と頭を下げた。
「まずは、今回の件に気づけなかったことに謝罪を。担任として情けない限りです」
「頭を上げてください先生。今回のこと迅速な対応に感謝します。もっと早く気づいてくれていればと思う気持ちはありますが」
「返す言葉もありませんね」
深く頭を下げていた先生が鞄の中から紙の束を出した。
「みんなにとった匿名のアンケートです」
ままが一枚を手に取って広げたのを横から恐る恐るながめる。
・清水さんと話さなかった
・清水さんのわからない話題で盛り上がった
・清水さんの挨拶に返さなかった
「みんな反省しているそうです」
ほら、ここにと先生が一枚の紙を広げる。
・今後このクラスでこのようなことがないようにします。
匿名の手紙だと説明されたのに几帳面な字で片隅に記載されていたのは委員長の名前だった。そこにある決意。その署名がこの辛い日々の終止符。
よかった。みんな、私をもう無視したりしないんだ。
ままがそれを見て息を吐いた。
「まあ……」
「今回はみんな受験生と言うこともありますし。当人達同士で決着がつけばこれ以上の深追いは」
先生が媚びた調子でママを上目にうかがう。
「なっ、駄目ですとも。きちんと今回のことは内申にも記載して……うちの子はこんなにも傷ついたんです。いくら子供だからと言って許していい問題ではありません。本人に自分が何をしたのかを自覚させなければ」
ママが勢い込んで身を乗り出す。
その腕を小さく引いた。
「ママ。大丈夫だよ。私は平気。みんなと仲直りできたんなら、それでいいの」
残り少ない高校生活なんだもの。
みんなと仲良く。
それができたら、他には何も望まない。
にっこり微笑んでみせるとママが泣きそうな顔をした。
「ののか……。貴方って子は」
ぎゅう、と抱きしめられて、頭をなでられる感触に酔いしれて目を細めた。
そう、これから私を待つのは明るい学校生活。私をいじめる人も辛く当たる人も無視する人もいない居心地のいい空間。
だってそうでしょう。みんなが反省してくれて、心を入れ替えてくれるのだから。



教室の前のドアを開けて一歩を踏み出す。
「お、おはよう……っ!」
勇気を出して挨拶をして。
たくさんの返事。
みんなが笑顔で振り向いて私を囲む。
昨日までのあの惨めな私はもうどこにもいない。
「おはよう、清水さん!」

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