告発 〜一対多数の多大なる被害〜
このクラスには酷いいじめがある。被害者はわたし。そして加害者はこのクラスの全員だ。
わたしは今、それを告発することにした。
三年間履き古した上靴がペタペタと廊下を進む。ホームルームを楽しげに待つ生徒達が曇りガラスの向こうでさざめいている。それを聞きながら、わたしはやっとの思いで辿り着いたドアに白く強張った指をかけた。
「お、おはよう」
立て付けの悪いドアががたんと揺れて、その向こうに声を放り投げた。
浮ついた空気にかぼそく、確かに投げた一石は、今日も誰にも拾われずに落ちていった。
友人と、あるいは恋人と楽しげに話すクラスメイトの中で、わたしはまるで透明人間。波すら立てることはできず、空気がそこを通るように、いくつかのグループの間をすり抜けて自分の席に着く。
課題のノートを机に置いて。あとは読み飽きた本に夢中になっているふりをした。
もう少しすればホームルームが始まる。
惨めなわたしも、今ははしゃいでいる楽しげなクラスメイトも、そうなれば等しく前を向くしかなくなる。それまでの我慢だ。
日に焼けたページの中で脚光を浴びる主人公を睨みつける。時計が壊れたんじゃないかと思うほどに時間が経つのが遅い。
焦れる気持ちで針を急かして。
チャイムと追いかけっこをしながらバタバタと廊下を走るけたたましい音に目線を廊下へと移した。
遠くから近づいてくる足音はこの教室を目指している気がする。不意に感じた予感に違わぬように、黒板の粉を舞わせる勢いでドアが勢いよく開けられた。
そこにスポットライトでもあるように、みんなの視線が集中する。
「……ッセーフ!ヤマセンまだ来てない!」
転がり込むように入ってきた小柄な少女がきょろっと教卓を見て、人がいないのにガッツポーズした。その頭に振り下ろされた出勤簿が良い音を立てる。
「良いわけあるかー。とっとと席につけ。……あとお前足音がうるさい。廊下はもっと静かに走れ」
縦に出勤簿を振り落として、頭を押さえる少女を置き去りにのっそりと中年腹を揺らした中年の男が教卓に立った。山本樹、このクラスの担任だ。
走んのはいいのかよ、と隣の席の男子がせせら笑う。
「遅刻しなければセーフだ。後は俺に迷惑さえかけなければ良しとする」
ふん、と鼻を鳴らした山本先生が厳かに告げる言葉にさざなみのような笑いが起きる。
ぐると見回して、欠席者はいないな、と呟いた山本先生がまだ立っていた少女をチラリと見た。
「太田、いつまで立ってんだ。はよ座れ、遅刻扱いにするぞ」
「ヤマセンが叩くから痛くて動けないんじゃん。イジメだよ、これ。教師からのイジメ!ケンリョクをかさにきて、大人のエゴ!」
「はいはい。覚えたての言葉を使いたいんだな。はやく座れ」
大声で喚いて、片手であしらわれながら渋々席に着いた太田さんにクラスメイトがくすくすと笑い、肘で小突いている。太田さんが照れたように舌を出した。
「ノート回収して後ろの机に置いといてくれ。連絡事項は特にない。一時限目の教師が来るまで喋ってていいぞ。教室からは出るな」
あれだけ待ったのに、わずか五分でホームルームは終わってしまった。
山本先生が出ていった後、また自由に席を立って、至る所で砂鉄が磁石に引き寄せられるようにまた集まって馬鹿話が始まる。
一際強い磁場は太田さんだ。
五、六人が引き寄せられて、目立つ少女を取り囲んでいる。
「よっ、今日も遅刻回避おめでとう!」
「たまには早起きしたらどうなんだ?」
男女関係なく、屈託なく笑う太田さんは人気者だ。
「なっは。これでも無遅刻無欠席。ヤマセンとの熱い戦いをご覧あれ」
ピースサインをして見せる太田さんを横目で見て、音が立たないように立ち上がって後ろのドアへ向かう。この教室に、いまはもう居たくない。
ドアに手をかけて、廊下へ出ようとした。
「あれっ?瑞樹サン、どこ行くの?教室から出るなってヤマセン言ってたじゃん」
突然かけられた声に肩が跳ねる。慌てて振り向いて、太田さんがこっちを見ているのにぎょっとする。太田さんがこっちを向いたから、教室の磁場がこっちにも移動したみたい。
クラスのあちこちから視線が飛んでくる。紛れ込んだ異物を見るような、そんな目。不可解なものを見る視線に耐えられなくて視線を下げた。
「……保健室」
ボソボソと答えて。
太田さんが席を立ったのに肩を震わせた。
「え、気分悪い?わたし保健委員だし、保健室ついて行こうか?」
善意なのだろう。だけど、その善意がわたしの居心地をさらに悪くする。
教室から、断れという圧をかけられているみたい。
「……いい!」
ぴしゃっとはねつけて、ガラリと扉を閉じた。閉じた扉に背を向けて大きく息をする。
教室にいたのは、ほんの十分くらい。それだけで、倒れそうなほどの眩暈がした。
このクラスにはいじめがある。被害者はわたし。加害者はこのクラスの全員。
……わたしはこのクラスに受け入れてもらえない。
昼休みが終わりそうな時間。
学級委員長のみっちゃんが強ばった顔で教室に戻ってきて黒板に向かっていく。
書道で段を持つみっちゃんらしい、右上がりの丁寧な字が僅かに震えながら白く自習の文字を残す。
「およ、自習?」
午後は、ヤマセンの数学じゃないのか、と朝見た担任を思い返して。延長ホームルームよ、とみっちゃんが引き攣った笑みで返してきた。
青褪めた顔にびっくりして。どうかしたのかと聞くのを遮って錆びたチャイムが鳴る。
みっちゃんと一緒に教室まで来ていたらしいヤマセンがいつものようにチャイムぴったりに教室に入ってくる。
席に着け、と今まで聞いたことがないくらいに掠れた低い声でヤマセンが喋る。
いつにない雰囲気にみんなの背筋が伸びる。
四時限目の途中で、みっちゃんが廊下からヤマセンに手招かれて席を立ったのを不思議に思っていたけど、まさかみっちゃんになにか?もしかして、テンコーとか?
ドキ、としてヤマセンの横に立つみっちゃんの顔を見る。
しばらく何かを考えていたみっちゃんが目を開けてヤマセンの顔を窺う。
口を開こうとしたみっちゃんを遮って首を振ったヤマセンが重く口を開いた。
「えー……。みんなに残念なお知らせがある。……このクラスに、イジメがあると告発があった」
ざわ、と空気がうねる。
驚愕と動揺、みんなが顔を見合わせる。
イジメ。いじめ。……いじめ、だって?
どよめく私たちをヤマセンが二度強く手を叩いて黙らせる。
それでも黙らない私たちを、みっちゃんが黙って、とよく響く声をかけた。
「……っふー……。ヨシ。おまえら、伏せろ。俺が質問していくから、心当たりのある奴は手を上げろ。他のやつは、見るなよ。委員長、お前もだ」
こくんと頷いて、みっちゃんが真っ先に教卓に伏せる。つられて、みんなも下を向いて目を閉じた。
「……っえー……、では。被害者に心当たりのあるものは?」
被害者。誰だろう。
足が遅いことを揶揄われていたモッチー。でも彼はみんなが一目置くほど絵が上手い。
後ろの方でプロレスやってた男子のうちの誰か、とか。でも、あれは代わりばんこにかけてたはずだ。
「ヨシ。次、加害者に心当たりのあるものは?」
加害者。これは全く思い浮かばない。
自分でいうのもなんだけど、このクラスは本当に仲がいい方だと思う。そりゃ、個人間で仲が悪いとかは当然あるけど、いじめなんて。
いくつか質問は続いたけど、私はどれにも手を挙げなかった。
途中で、建て付けの悪いドアがガタンとなった気がするから、もしかしたら誰か入ってきたのかもしれないし、出ていったかもしれない。
出ていったと言えば、朝から居ない瑞樹ちゃんのことが少しだけ気にかかった。
頭に浮かぶとっかかりを掴む前に、ヤマセンの声が思考を遮る。
「顔をあげろ、お前たち。……よし、じゃあ、最後に、今から配る紙の質問に答えてくれ。それを回収したら、後は自習とする」
二十分経ったら集める。私語は厳禁だ。
目を閉じたヤマセンが、みっちゃんに目配せして紙を配るように指示した。
みっちゃんが青褪めた顔で紙を配る。
A4のわら版紙にみっちゃんの字でいくつかの質問が書かれている。
コピーされたものなんだろうけど、それでもわかる筆圧の強さ。
さっと目を通して、内心で眉を顰めた。
『クラスで仲のいい人の名を述べよ』
『よく喋る人の名をあげよ(他クラス可)』
これは、なに?
疑問が浮かんでは消えて、説明を求めてみっちゃんを見上げる。硬い顔でみっちゃんに首を振られた。
何処かで誰かがクラスにさわめきをこぼす。
「……なあ、いじめってことはさ、内申に影響するんじゃねえの?」
ヒィッ、と女子の甲高く息を呑む音。
一気に騒ぎになりかけた教室を、ヤマセンが強く机を叩いて黙らせた。
ガン、と響いた音にみんながびくついて。
「私語は厳禁だと言ったはずだ。いじめについてはまだ調査段階だ。周りには漏らすんじゃないぞ」
いつもと違うヤマセンに、やっぱり教師か、と小さく鼻を鳴らして。
配られた紙に、みっちゃんと他の何人かよく喋る子達の名前を書いて、真っ先に提出してやった。
このクラスにいじめはない。私はそう信じている。
いじめられたと主張する子がいて、いじめたのはこいつらだと糾弾する。
ああ、いい話だ。勇気のある子。それが本当にいじめなら。
山本先生にお願いして、このクラスにいじめなんてないと主張するために、一枚の紙を用意して皆に配ってもらった。
その結果を山本先生と、学年主任の河上先生とで並んで眺めている。
「太田、山﨑、武元、……また太田か。ムーチョスってのは誰だ?」
「サッカー部の山下君かと。合宿で辛ムーチョ複数開けて匂いテロを起こしたとか」
「死ぬほどくだらんな……。あだ名で書くなよ、わからんだろ」
「お、委員長だ。お前も結構出てくるな」
「ありがたいですね」
ぺらぺらと紙を捲る。そして、名前を探す。
探す名前が出てこない。それは私の推察が正しいことを意味している。
山本先生も、河上先生も、それに気づいたのだろう。
黙りこくってため息をついていた。
皆が友人の名前を自由に書いた紙の中。
いじめを受けたと主張する、豊原瑞樹の名前が、そこにはない。
それがなにを意味しているのか。
「……なあ、委員長。みんな仲良くって、どうおもう?」
山本先生が真っ直ぐに私を見る。
率直な高校生らしい意見を求められている。
少し考えてから口を開いた。
「……率直に申し上げて、夢物語かと。高校生活は、とても短いのです。気に食わない相手と話し続けるより、楽しく話せる人と楽しく過ごさなければ、すぐに終わってしまいます」
休み時間も、俯いて本を読んでいる子に無理に話しかけるより。
仲が良くてよく話す人と昨日のテレビの話をしていた方がずっと楽しい。
話しかけて、無言の拒絶を返されるより。
一生懸命でも、喋ろうとしてくれる人も方が好感が持てる。
「だよなぁ」と山本先生が気怠げに言った。
私たちは大人にとても近くて、でもまだ子供なのだ。
幼稚ないじめなんかしたりしないが、友達ではない人に積極的に接するほど社交はしない。
仲の良い、とよく喋る、に同じ人が入る割合が高いのがその証拠だ。誰しも、自分のグループ外の人と長く話すことはしていない。
このクラスにいじめなんかない。だれも、あの子を無視なんてしてない。
ただ、誰ひとりあの子と友達ではないだけだ。
友達ではないから喋らない。談笑しない。自分の友達と話すので、高校生は忙しい。
それだけの話なのにみんなが無視する、いじめられたと喚く少女への嫌悪で胸が詰まった。
あの子に向けた優しさを、仲間意識を、全て振り払い、無視してきたのはあの子だ。
挙句、受験を控えたこの時期になってこの騒ぎ。
これでどうやって友達になれというのか。
「ですので、このクラスにいじめはないのです」
「……どう説明したらわかってくれんのかね」
弱った顔で煙草を取り出そうとした山本先生が河上先生に禁煙の張り紙を指さされて忌々しそうに指を引っ込めた。
「山本先生、お願いですから。私達に傷付いて終われなんて言わないで。もしあの子と友達になって謝罪しておしまいなんて私は嫌ですよ」
平和な学園生活を突如乱し、踏み荒らす異物。もう、私達にはあの子がそうだとしか思えない。憎々しく呟いて。
先生達も一対多数の被害者に、どう判断して良いのかわからないらしい。
三人で顔を突き合わせたまま、豊原瑞樹の親が面談のために学校に訪れるまでの時間を永遠と過ごしていた。