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信じる ということ

 信じるとは、うそ偽り無く確かに正しいと考えることであり、それを強く思い込んで受け入れることにある。人を信じることは、当てにする、頼りにすることであり、信頼・信用とも言い換えられる。ヒトが人を信じるとき、その相手は味方であり(少なくとも敵ではなく)、理解することが可能な一定の共通認識を持つ相手であることが前提にある。しかし、ひとたびその相手が、想定外の言動や行動を表したとき、ヒトは裏切られたと感じる。その言動や行動が、自分の認識から大きくかけ離れてしまうと、時には敵意まで抱いてしまうこともある。しかし、それは相手が自分のことを裏切ったのではなくて、それまで見ていてなかった部分が見えただけなのである。であるが、ヒトはこのことに極めて気付きにくい。これではまるで、他人を信じることは、他人に裏切られることと背中合わせの関係のようである。

 ところで、私たちの中には、神の存在やその教えを信じて疑わない人がいる。その人たちにとって神は絶対であり裏切ることはないのだろうと思われる。彼らにとって、神を信じることと、人を信じることは、何が同じで、何が違うだろうか。神と一言に言っても、そのあり方によっても信じ方は異なりそうだ。自然や物質に宿る神もあれば、善人を救い、悪人に罰を与えることでヒトを導く神もある。前者の神を信じる人は、ただその存在を信じて敬う。人々の生活にとって、善きことも悪きことも、そのままを受け入れるだろう。後者の神を信じる人は、世界が幸福になることを願い、それを導き教えを与えてくれる神を敬う。善きことは神の救いであり、悪きことは神の意思によるものであり、どちらも人々と世界の幸福のために必要なことであると受け入れるだろう。受け入れ方のアプローチは異なるが、しかしどちらも受容しようとする。そこには、裏切られるという感覚は起こりにくい。

 しかし、対ヒトとなると、前述したように神と対峙する時とは同じようにはいかない。これは何故なのか。神は絶対的にヒトの上にいる存在であるのに対し、ヒト同士は対等である(あろうとする)からではないか。仮に、神がいわゆる全知全能でなく、人間と同じ能力で、同じ外見で、同じことしかできない存在であったなら、神の失敗や勘違いや暴力の影響を受けたときに、神を裏切ることなく信じ続けることを、一体どれだけの人ができるだろうか。神は決して人間と対等な存在ではなく、上位にいるからこそ、信じ続けることができるのだ。しかし、ヒト同士は生物学的に同種であり、倫理的にも対等な存在である。であるが、それら個体差による能力や価値観の違いがあるため、仲間であろうとするし、仲間でないならば敵であると区別しようとする。ヒトがヒトを信じる/裏切ることは、ヒトの社会性行動原理の一種であると言えるだろう。

 ここで、理想論を述べるとすれば、ヒトがヒトを信じるということは、相手/他者を信じるのではなく、相手/他者の見えていなかった部分が見えたときに、それに揺るがない自分がいる状態であることこそが、真の『信じる』ということであろう。『信じる』ことの視線が向く先は、外ではなく内にあるべきだ。この心があれば、まさに揺らぐことはない。

 しかしながら、ヒトはどうしても社会性動物であることから逃れられない。これは、決して悪い意味ではない。社会性動物であるからこそ、人々が発展し、いまここに私がいて、あなたたちがいる。社会性動物であるからこそ、仲間を作ろうとして、仲間との距離を探ろうとして、社会の中での互いの役割を見つけようとする。その中で見返りを求めたり、利害関係を認識したりすることは、ヒトとしてごく自然なことである。ヒトと社会の習性として、どうすることもできないことがある中で、自身にとっての理想的な思考や行動にどのようにして近づこうとするか。これを探求することが、ヒトが幸せになるための道であろう。


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