777チャーリー(カンナダ映画)

 犬がヒロインのインド映画ラブロマンス。前半がコミカルで後半にはリヴェンジあり、というあたりは定石でしょうか。

 インドで「ペット映画」というので、時代も変わったな、と実感して見に行きました。ツイートでも見かけましたが、我々の時代はインド旅行のガイドブックには、野良犬も多いが狂犬病の罹患率が高いので近づくな、とたいがい警告がありました。実際、最初に泊まったカルカッタのサッダルストリートの近辺にも野良犬の群れがいましたが、案ずるには及ばず、インドの野犬は人が近づくと逃げて行きます。犬を飼っている人もいましたが、ほぼ「番犬」で、ペットというよりは使用「犬」の扱い、短い鎖につながれて、食事はヴェジタリアンカレー。ペットフードの存在も知らなかった子どもの頃飼っていた雑種犬がカレーの残飯は食べなかったと記憶していたので、インドにはヴェジタリアン犬もいるんだと驚きました。

 最近ではインドのショッピングモールのスーパーにペットフードが置かれているのも目にするようになりました。車も家も買えたし電化製品もそろったから、子供がほしがる犬でも飼おうか、という気になる人が、多数派とは言えないまでも、日本の人口に比べられるぐらいには増えている、ということなんでしょう。しかし、今年泊まったハイダラーバードのホテル裏の路地にもまだ人を見ると逃げる野良犬の群れはいましたし、映画の「ここにゴミを捨てる奴は犬だ」に類する犬畜生を卑しむ表現は南インド映画には相変わらず頻発します。日本の観客があたりまえだと思っている「ペットは家族の一員」という感覚は、子供に犬を買い与える親でも「家族?親戚も多いし間に合ってます。」という南インド社会ではそれほど一般的だとは思えません。

 映画ではそのため、ヒーローが家族をなくし、まわりから偏屈だと思われている特異なキャラクターとして設定されています。ヒロインのほうも、大多数の庶民には縁のないブリーダー育ちの高級犬ですが、映画の世界では「高額の遺産を残されたザミーンダールの娘があくどい親戚のために使用人扱いされている」というようなリアリティーのない設定でも共感の妨げにはならないのです。ただし、フィクションの部分はそこまでで、狂犬病とはいわずとも、皮膚病をもっていそうな犬に、触るなと親が子供を制止するといったインドの現実も、隠さず描写しています。

 動物愛護協会の活動ぶりも、客観的な描写だろうと思います。英語教育を受けているインドの支配層には、アニマルライツなどの欧米の思想もダイレクトに入ってきます。実は、私は個人的にはインドでのこの種の団体の活動にはちょっと疑惑があります。映画の「撮影に際し動物を虐待していません」のお断りがほとんど義務的になっていることからもわかるように、かなりの政治力のある団体ですが、これがたとえば、イスラム教徒のバクリード(ヤギ犠牲祭り)に伴うヤギ市でのヤギ運搬に横槍を入れてくる、というような報道を見ると、ヴェジタリアンの多いヒンドゥー教徒支配層のヒンドゥー原理主義的な政治活動ではないのか、と疑ってしまうのです。アニマルライツ以前だと、ゴーセーワ・サミティ(牛福祉委員会)という団体が、イスラム教徒地区の牛肉屋にいやがらせして閉店に追い込む、というような活動をしていたのの延長ではないのか。しかし、映画でのデーヴィカは、単に庶民感覚には疎い、ちょっと上から目線だけど悪気はないお嬢様として、特別美化することもくたすこともなく演出されていると思いました。「悪徳ブリーダーを排除せよ」というメッセージがインド社会にそれほど大きなインパクトを与えるとは思えないけれど、この映画がヒットした場合に予想されるペットブームを後押しするつもりはないという意思を明らかにした(ペット産業の息のかかっていない)映画なんだろうと思います。

 では、この映画の見所はどこなのか。私はパンジャーブ州ルディアナでの犬の敏捷性コンテストがひとつの山場じゃないかと思っています。見に行ったつもりのコンテストで出場する羽目になったダルマは、ただ跳ね回って失笑を買うチャーリーに声を荒げます。「食って、うろついて、寝て。この3つ以外に何かできるのか?」このセリフ、「チャーリー」という呼びかけが入っていません。つまり、名前をつける前に自分が発した言葉の再現なのです。犬に向けられた言葉は、そのまま自分に跳ね返ってきます。そして、コンテストでの入賞に向けての訓練に打ち込むヴァンシナーダンと過ごしたダルマは、妻に逃げられ新たに人間の家族をもつことも望めない彼が、おそらく同じ問いを発したのだろうと知っています。パートナーとしてのカルパの協力ぶり(犬はコンテストの自主練をしません)を披露するはずのコンテストで、ダルマはチャーリーがどのようにパートナーとなり、最後には空まで飛ばせてくれたかの、劇中劇を演じて見せたのです。
 棄権しようとしたダルマが、デーヴィカが審査委員席に現れたのを見て出場したという演出ですから、観客にはわからなくてもデーヴィカにはわかるはずだと劇中劇を決行したというように見えます。しかし、ヴァンシナーダンはなぜコンテストの出場権をダルマに譲ったのでしょうか。ダルマがそこまで考えないはずはないと思いませんか。
 このシーンで流れる歌は「パートナー」テルグ語版ではサハチャリで、伴侶という意味です。ラブロマンスでなくて何だ、という歌です。

 終盤、ヒマーチャル・プラデーシュからカシミールへの旅では、ダルマの焦燥はますます深まります。マハーバーラタでのダルマラージャと犬の須弥山詣がパーンダヴァ兄弟の死出の旅であることを知っていると、ダルマはどうなってしまうのかと気を揉むことになります。そして、最後のシヴァ神の祠、カイラーサ山でチャーリーと再会するダルマ。
 「にいちゃん、おおきに。」『火垂るの墓』の清太は、そのまま目を覚まさなかった節子の後を追いますが、成仏できずに二人で過ごした最後の日々を何回も繰り返し続けることになります。ダルマは、モクシャ(解脱)はひとまず置いといて巡る因果の糸車に戻り、出会いから別れまでを繰り返すことになるのですが、犬を連れた幽霊にはならなかったので、繰り返しとはいっても前とは違った展開をめざすことができる、という点が、ほんの少しハッピーエンドになっていると思います。

ラクシット・シェッティの英語インタビュー

 プロデューサーでダルマ役も演じたラクシット・シェッティが、『チャーリー』や、映画人としての自分の立ち位置について語っています。インド英語が聞き取りにくければキャプションをオンにすると、カンナダ語の人名・映画名などの固有名詞以外はだいたい正しく自動認識してくれます。
 「チャーリーの名演」が評判ですが、その陰には出演者・スタッフの試行錯誤があったようです。チャーリーがダルマの顔を見つめるシーンの撮影のために、シェッティは口にドッグフードを含んでときどきチャーリーに吐き与えながら演技しなければならなかったようです。ラストシーンの撮影時に、初監督のキランラージ監督が興奮して「パート2」のアイデアを聞かせに来たのに対して、「パート2もいいけど誰か別の人を探してくれ」と頼んだそうです。
 『チャーリー』にはプロデューサーとしてストーリー・演出についての助言はしたけれども、最終的には基本的にはキランラージが決定したようです。当初のシナリオでは終盤はもっと『マハーバーラタ』を意識したセリフで、ラクシット・シェッティも気に入っていたのですが、キランラージが自分の考えで最終的に入れ替えたと言っています。また、チャーリーやアディリカの可愛いシーンがもっといろいろあったのを、キランラージの判断で編集段階で大胆にカットしたとも語っています。
 完成までに4年以上かかった「チャーリー」ですが、演じている間にこれはヒットするという確信はあったと言っています。ひとつにはインドではコロナ禍がペットブームを後押ししたということもあるようです。親戚訪問が日本と比べてずっと日常的なインドでは、外出規制が家族の喪失と同じような効果をもったのでしょう。ちなみに、別のインタビューではラクシット・シェッティ自身は「猫派」だと語っています。
 インタビューで語っている2回目の監督作品『リチャード・アントニー』は今年8月に公開予定 未定(作ると言っていつ出るかわからない作品がもう3作以上あるんですね。アイデアはいっぱい)。10年前の『ウリダワル・カンダンテ(別の人から見ると)』は出身地トゥルナードゥの地域性を前面に出した『羅生門』的な殺人連鎖ドラマとして高く評価されたのですが、その続編で、インド西海岸のパラシュラーマ(国引き)伝説のモチーフも取り入れられたものになるようです。
(トゥルナードゥはテルグと並んで私の専門とする地域になるのですが、ノーマークでした。お恥ずかしい。これは見に行かないと。)

ロードムービー

 カンヌ国際広告映画祭金賞を受賞したトリスウイスキーのCM『雨と子犬』(1981)と言えば、ご記憶の中高年の方も多いと思います。京都の街並みを野良の子犬が冒険する様子を追う、という映像です。ただ、この時代でも「子犬は冒険なんかしない。それを雨の中放り出して撮影するなんて・・」と憤っている友人はいました。チャーリーの登場シーンの冒険は、VFXの発達した今日、虐待ということはないのですが、冒険どころか野を越え山を越えの疾走です。脱走なんだから脱兎のごとく、というのが自然にも思えますが、よく考えるとおかしい。いったいどのくらいの距離を走ったのか。

 手がかりはデーヴィカの位置情報に出てくるヴィジャヤプラという地名です。現在のカルナータカでいちばん有名なヴィジャヤプラは、ゴールコンダと並んでムガール以前のデカン北部のムスリム勢力の拠点だった通称ビジャープルの公式カンナダ語名です。しかし、これはあまりに無茶です。カルナータカ州北部、マハーラーシュトラ州境に近いビジャープルから、南端近くに位置するマイソールまで、州を南北縦断の500キロ走破。よくマイソールで止まったな、という経路になります。どこか別のヴィジャヤプラだと考えたほうがいいでしょう。
 もうひとつの手掛かりは、旅が始まった後の復讐です。獣医から虐待動画が送られてきたとき、ダルマは「カルワル・ブックショップ」で買った地図を眺めています。この地図には、ラージャスタン州のグジャラート州境あたりから北へ、パンジャーブ州を経てヒマーチャル・プラデーシュのシムラと思われる終点まで線が引かれています。現在地は「カルワル」に近いあたり、すでに西海岸側に下ったゴアとの州境が近いエリアです。ここから「ヴィジャヤプラ」まで行って、悪徳ブリーダーを生き埋めにした後、またカルワルに戻り、ホテルに何軒か断られた後、チャーリーを盲導犬と偽って一泊、さらに翌日カルワル警察のお世話になる、とカルワルでのロケが続くので、ヴィジャヤプラはカルワル近くの内陸、ということになるでしょうか。カルワルからビジャープルに行ったのならそのまま北上するほうがはるかに早く北に着けるはずです。
 ただ、カルワル近くだとすると、これはこれでおかしなことになります。カルワルから南はマンガロールまでのコースタル・カルナータカは、インドの西海岸ではもっとも雨の多い地域で、年間降水量は東京の2倍以上に達します。雨季には1週間以上太陽を拝めないということもよくあります。カルワルが晴れている、ということは、雨季が明けて乾季入りした11月、つまり、ヒマラヤをそれほど高く登らなくても雪が期待できる季節ということになるでしょう。そして、この内陸がマルナードゥ(山国)、つまり西ガーツ山脈ということになるのですが、これが輪をかけた多雨地域で、年間7000ミリ以上の降水を記録している地点が南北に連なります。この地方で、ダム建設のための立ち退きを拒否したブータ信仰の祭司一家が雨季でダムに流れ込む水に追い詰められていく、というカンナダ映画の有名作品が『ドゥイーパ(島)』(2001)です。これに対して、南端のマイソールを含む西ガーツ山脈東側のデカン高原は、年降水量が東京の約半分の半乾燥地になります。つまり、南インドは東から西に移動しても景色が茶色から緑にがらりと変わるのです。マルナードゥから西海岸は急勾配で、どのルートを通っても、ダルマの家族の車が転落していったような、崖っぷちの道が続きます。カルワルから子犬チャーリーがマイソールにたどりつくためには、この山道を登って来なければならないのです。
 というわけで、「ヴィジャヤプラ」については、カルナータカ州全体が京都市街地の中に収まるようなパラレルワールドを考えることになりそうです。
 ロードムービーとして歌に乗せて二人が進んでいく部分も、おそらくロケ地の都合と思われる飛躍があります。カルワル警察からデーヴィカが加わるわけですが、カルワルからは66号線(NH66)を北上してゴアに入り、マンドヴィー川河口近くの橋(2019年開通のアタル・セートゥ橋をあわせて3本平行)を渡るところまではいいのです。夜景があって一夜明けたかと思ったらNH748をさっきの橋に向かって走っています。ここまではゴア。ところがその後、誤解が解けるシーンは内陸と思われる茶色い風景です。流れている曲は、ラージャスタンのヴィシュヌ派頌歌をアレンジした「カッテー(どこへ)」なので、ラージャスタンの砂漠かな、とも思うのですが、ゴアからいきなりラージャスタンはさすがにないと思います。間にマハーラーシュトラとグジャラートの2州があるはずですが、この部分は経路図が見当たらないのでどこを通っているのかわかりません。まあおそらく、NH66でムンバイ内陸の終点まで行って、NH48に入り、そのまま行くとデリーなので途中で左折してラージャスタン入りかな、とも思うのですが。マハーバーラタのパーンダヴァ兄弟道行きであれば海に沈んだクリシュナ神の都ドワーラカを通るために海沿いにグジャラートに至るはずですが、この後は内陸シーンばかりです。ゴアより北はやや標高の低くなる西ガーツ山脈側の内陸をNH66も通っているので、湖での遊泳シーンはそのへんかもしれません。
 歌と地域はあってないかもしれない、というのは、コンカニ語の「オーガ」もそうです。歌っているのはゴアの女子大生のようですが、コンカニ語はコンカン・コースト(マハーラーシュトラとカルナータカの沿岸と間のゴア)で話されている言語。でも流れるのはデーヴィカの誤解が解けてからの内陸の旅の部分です。
 パラモータリングで空を飛ぶシーンはラージャスタン、それも西側の砂漠に近い部分のように見えます。機材自体は東側ウダイプールの観光業者のものに似て見えますが、まあ、最近のVFXなのか、業者に来てもらったか。
 チャーリーの病気がデーヴィカにばれて、雑誌の取材を受けるあたりはもうパンジャーブにさしかかっているようです。少なくとも後者は看板がパンジャーブ語になっています。デーヴィカ、いったいどれだけ付き合ったんだろうという距離です。そして、アジリティーのイベント会場はパンジャーブ北部のルディアナ。ヒマーチャルプラデーシュのシムラに向かうにはちょっと脇道のようにも見えますが、ラージャスタンが西寄りルートだったのなら(ロケはかなり西まで行っているようですし)通り道の町です。
 ヒマーチャルプラデーシュの入口がシムラですが、シムラの降雪は1月以降になりそうなので、12月から雪が降り始めるクル渓谷を目指したんだろうと思います。
 最後の終点はカシミールの停戦ラインなのか、地滑り救援派遣地からの帰路の軍野営地なのかわかりませんね。理解のある隊長さんの登場で、インドでも、軍用犬・警察犬など眼光鋭い系飼い主さんの飼い犬文化が確立していたことを思い出します。RRRにも犬出てましたっけ。猟犬だったかな。日本映画だと『南極物語』とかありますが、インド映画ならそのうち、月面に取り残された軍用犬が月の兎とか鹿とかで食いつなぐなんてストーリーもありえなくはない。いや言い過ぎ。

キランラージ監督のウェブページ

 SCRIPTのタブに『チャーリー』のシナリオ全文ト書き付きのpdfカンナダ語版(149頁)と英語版(151頁)が掲載されています。深掘りしたい人、語学学習教材に使いたい人は必見です。
 ANECDOTEも読みごたえがあります。チャップリンとの出会いは子供の頃NGOが村にやってきて開いた『犬の生活』(1918)の野外映写会だったそうです。「もっとも美しい沈黙の証言」。あと、おばあさんが聞かせてくれた『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』。想像をかきたてる語りから、物語を紡ぐことを学んだ。学校は中学校までで働かなければならなかったけれど、家の事情が安定してきたところでレストランで働きながら通信教育で監督学を学んだ苦労人です。
 出身はケーララ州のカーサラゴード県。北半分は本来のトゥルナードゥですが、マラヤーラム語話者が多数派だったため、言語単位の州再編で西海岸の旧マドラス州がマイソール州とケーララ州に分かれたときにマイソール州になったサウスカナラ県から切り離されてケーララ州に編入された地域です。今ではとうとうマラヤーラム語話者が80パーセントを越えていますが、北側には他のトゥルナードゥ地域と同様に、トゥル語を地域共通語として学校ではカンナダ語を学ぶさまざまな母語(トゥル、コンカニ、カンナダ、マラーティー、マラヤーラム)のコミュニティーが共存する村々が残っています。(私のフィールドです。)カンナダ語でシナリオを書いているということは、キランラージ監督もこの地域の出身だろうと思います。
 トゥルナードゥは、アーンドラでいえばクリシュナ、ゴーダワリ両デルタ地帯と同じく旧英領だった先進地域で、カルナータカ州の政経・文化で大きな勢力をもっていて、映画人にも昔からこの地域のコミュニティー出身の人たちが多いのですが、ラクシット・シェッティやリシャブ・シェッティの一派は、カルナータカの支配というよりは西海岸の独自性の表現に関心があるんだろうと思います。といっても、この地域に既存のトゥル語映画やコンカニ語映画とは異なる動きです。少数言語マーケット向けだと、映画よりは演劇活動が中心で、有力な劇団が年に数本、映画化する、というようなことは昔からあったのですが、彼らが目指しているのは地域性を失うことなく普遍的に表現していく、ということなのでしょう。

(インドの州境地域の言語人口はけっこうころころ変わります。バイリンガルだった人たちが国勢調査で報告する言語を切り替えることと、少数派になった人たちが徐々に出ていくことの相乗効果です。ちなみに、KGFのあるコーラール県は、19世紀にマイソール藩王国の領有が確定した地域ですが、20世紀中の国勢調査ではテルグ語話者が過半数を占めていました。今世紀に入ってカンナダ語との比率が逆転しています。)

 おっと。カーサラゴードのトゥルナードゥ系少数派の現在についてはリシャブ・シェッティが映画にしていました。『カーサラゴード公立小中学校:ラーマンナ・ライ寄贈』(2018)。カンナダ語学校の閉鎖の危機をマイソールから(人違いで)やってきたアナント・ナーグが救うというストーリーです。この地域の海岸側が主な舞台のようですね。ケーララ州北部から新たに流入してくるマラヤーラム語話者はイスラム教徒が多いということも問題を複雑にしています。
 リシャブ・シェッティ自身はトゥルナードゥの北の端、クンダプラの出身。この地域はもうトゥル語ではなく、カンナダ語の沿岸方言が多数派でコンカニ語が最大の少数言語という、伝統的にはハイガと呼ばれた旧ノースカナラ(英領時代はボンベイ州管轄)と同じ文化圏です。Jr. NTRのお母さんはクンダプラのバラモン(たぶんハイガまたはハヴヤク)の一族で、『キリク・パーティー』や『カンタラ』などリシャブ・シェッティやラクシット・シェッティの受賞式でJr. NTRとカンナダ語でやりとりという報道もされています。

カラーワリの歌

 コースタル・カルナータカは、ヨーロッパ人が(この地域とマルナードゥを支配していたヴィジャヤナガラの地方領主が「カンナダ王」を名乗っていたために)カナラと呼んでいた地方で、英領時代にボンベイ州所管のノースカナラとマドラス州所管のサウスカナラに分割され、カルナータカ州成立後も「南北カンナダ」と呼ばれてきましたが、これに代わるカンナダ語の名称として「カラーワリ」(沿海地方)が使われ始めています。気候も内陸のカンナダ語圏とは違い、住民構成もコンカニ語やトゥル語を話すさまざまなコミュニティーが混在し、カンナダ語を母語とする人たちもかなり早い時期に内陸側から分岐したとみられる古風な方言を話すこの地域独自のコミュニティーに限られる、という特殊性を考慮すると、「南北カンナダ」よりはいいんじゃないかと思います。標題の歌は、『カーサラゴード公立小中学校:ラーマンナ・ライ寄贈』の挿入曲で、カーサラゴードを含めたこの地域の自然と文化をコンパクトにまとめた映像になっています。
 言語だけでなく、宗教もさまざまです。カルワルの南側の海岸にあるゴーカルナは、シヴァ派の重要な巡礼地。ラヴァナがカイラーサ山でシヴァ神から授かったリンガをガネーシャが騙して地面に突き刺して抜けなくしてしまったところ、という伝説のあるマハーバレーシュワラ寺院があります。NH66から離れた海岸沿いの寺院ですので、『チャーリー』で渡し舟に乗っているのは南からこの寺院に向かうためのアガナーシニ河の渡しだろうと思います。
 一方、ラクシット・シェッティの出身地であるウドゥピは本来はシヴァ派の聖地だったのが、この地の出身のヴィシュヌ派の大聖人マドヴァの建てたクリシュナ寺院の所在地として知られるようになった町です。(南)インド各地にある「ウドゥピ・スタイル」でイドゥリ、ワダ、ドーサといった南インドのティフィンが食べられる軽食店は、下位カーストの作った食べ物を不浄とする考え方が強かった時代に、クリシュナ寺院で最高位カーストであるバラモンが巡礼者にふるまう食物を提供するところとして、安心して食べられる店という看板が定着したものです。多くはコンカニ語を話すヒンドゥー高位カーストの通商コミュニティー、GSB(ゴウダ・サーラスワット・バラモン)のビジネスだと思います。
 ヒンドゥー教渡来以前の先住民信仰を伝えると考えられるのがブータ(幽霊神)信仰で、ヒンドゥー教寺院の祭礼でも一日だけは寺院をブータ祭司に明け渡してブータの祭礼を執り行う、という慣行もあるようです。
 この地方は、伝統的にジャイナ教の勢力が強かったところで、聖人バーフバリの巨大石像も西ガーツ山脈沿いに点在しています。ただし、現在はジャイナ教徒の比率は人口の1パーセント未満です。ジャイナ教徒の在家信者は、古代仏教と同様、通商に従事するコミュニティーで、アラビア海貿易のイスラム化でイスラム教に改宗してしまったのではないかと思います。マンガロールやカーサラゴードには、ビヤーリと呼ばれるトゥル語の独特な方言を話すイスラム教徒のコミュニティーがあるのですが、ジャイナ教徒と類似する独特の装身具を伝えています。マンガロールの港の近くには純木造のモスクがありますし、カーサラゴードの近郊にはインドへの初期(8世紀)のイスラム教布教者と伝えられるマーリク・ディーナールを祀ったモスクがあります。(標題ビデオの最後のほうに出てくる、両側にドームのある建物が増築されたモスクです。本来のモスクが中央部に見えますが、瓦屋根です。)一方、クンダプラの北のバトカルは、独自のコンカニ語を話すイスラム教徒が多数派を占める古い港町です。
 キリスト教徒は、ポルトガル人来航以降の強制改宗の後に南下してきたコンカニ・カトリックが主流です。GSBなどヒンドゥー教徒のコンカニ語が北で起きた改新を経ていない古風なコンカニ語であるのに対し、キリスト教徒のコンカニ語はゴアとも比較的近い方言です。音楽も、ゴアと同様、ポルトガル風の民謡が特徴です。マンガロールのコンカニ語映画作品も二つのコミュニティーでそれぞれの方言を使って制作されています。プロテスタントの布教はそれほど成功しているとはいえませんが、19世紀後半にマンガロールで活動したスイスのバーゼル・ミッションは、この地方の独自の景観に大きな影響を残しています。この宣教団は、殖産興業による雇用創出を目指し、印刷業などさまざまな技術を伝えたのですが、雨が多く、また、赤土の粘土が川沿いに大量にあったこの地域で、欧風の瓦の製法を産業化したのです。「マンガロール瓦」は農村部まで普及しただけでなく、インド洋沿岸各地にも輸出され、コロニアル建築の屋根を特徴づけることになりました。『チャーリー』のカルワルの街並みがどことなく洋風に見えるのは、おそらく瓦屋根が効いているのだと思います。ただし、屋根の乗っている下の部分は、赤土を切り出した日干し煉瓦の建物です。
 水田に囲まれた瓦屋根の家が点在する平野部の散村は、どこか日本の田舎を思わせて(特にデカンで暮らした後だと)懐かしいのですが、南インド西海岸の景観を特徴づけるヤシ、ココヤシとアレカヤシ(ビンロウジュ)は日本の風景にはなじみません。どちらも東南アジア、フィリピンあたりが原産の植物ですが、南インド・スリランカには先史時代、紀元前2000年紀に入っています。このうち、ココヤシのほうは、近年の遺伝子研究で、東南アジアと南インドでかなり異なる2系統に分かれることがわかってきました。ただし、栽培植物として人為的な選択が行われた形跡があるのは東南アジアの系統で、ココヤシの栽培化がオーストロネシア系(いわゆるマレー系)民族の東太平洋イースター島からインド洋西部のマダガスカルに至る遠洋航海を可能にしたという説を裏付けています。一方、アレカヤシのほうは、東南アジアと南アジアに共通の嗜好品(キンマ、パーン)としての栽培化であって、インド洋を越える人的交流があった証拠になっていると思います。
 キンマというのは、コショウに似た(これまた東南アジア原産の)蔓性の植物の葉(ベテル、パーン)に石灰を塗り、アレカの実の核を砕いたものといっしょに噛み、赤い唾を吐く、という習慣です。葉のほうはベンガルなどインド各地で産しますが、アレカヤシは栽培に大量の水が必要で、かつ直射日光を嫌う、という条件のため産地が限られていて、マルナードゥや西海岸の西ガーツ山脈の谷筋が伝統的な産地になります。ココヤシよりほっそりした幹がほぼ垂直に伸びるヤシで、干し柿程度の大きさの実が数十個の房を作ります。実がなる前に花を包んでいた「苞」は大きく厚いのですが、農業労働者が、落ちた「苞」を折りたたんで作ったヘルメットを男女問わず被っている姿も、マルナードゥとカラーワリに共通の風景と言えるでしょう。
 この地域のハヴヤカ・バラモンは「アレカを作らせたら彼らの右に出る者はない」と19世紀のマドラス州民族誌にも書かれていて、伝統的にはこの労働集約型の商品作物の農園主の階層であったことがわかります。ハヴヤカに限らず、この地域のバラモンは平地では稲作、山間部ではアレカヤシやカシューなどの果樹栽培に従事する中小の農園主です。ただ、インドの工業化・サービス業化での労働者の都市への流出で、この伝統産業も曲がり角にさしかかっています。水やりは汲み上げポンプとスプリンクラーへの投資で何とかなりますが、高所での農薬散布や刈り入れを担当できる熟練労働者の確保が難しくなっているのです。日本の技術で何とかならないかと相談されて困ったことがあります。今だったらおそらくドローンが回答になるのでしょうが、農業経営のロウインプット・ロウリターンからハイインプット・ハイリターンへの転換で中小規模の経営が成り立たなくなっていく、というのは世界各地で繰り返されてきたことです。
 キンマ自体も、赤い唾で舗装面を汚す習慣として、都市部では嫌われる傾向にあります。『アラヴィンダ・サメータ、ヴィーラ・ラーガヴァ』でも、ヒーロー・ヒロインが田舎者に勧められて習慣がないと断るコミカルなシーンが出てきます。しかし、産地の農村では軒先にパーンの葉とアレカ、アレカ用の鋏を用意して来客がだれでも手を出せるようにしておくのは伝統的なもてなしです。また、ラクシット・シェッティのトゥルナードゥものの出演作は喫煙シーンも多いですが、キンマを口に含んでいるという演技も多いのです。

 アレカ農家を舞台にしたトゥル語の短編映画。ラクシット・シェッティもこういう短編映画から映画製作にはいったようです。

 ブータ信仰の動画もつけとこうかと思ったらYouTubeにものすごくたくさん上がっています。村々で年1回やるKola、必要に応じて誰かがお願いするNema、ブータもたくさんいるので多い、というのもあるでしょうが、コメント欄、『カーンターラ』を見てたどり着きました、の多いこと。人気ですね。インドのアマプラに入らないと見られないのかな。いちばんワイルドなブータがGuligaです。Panjurli(Panju Kurli)はイノシシのブータですが、ヴィシュヌの化身ではなくて、シヴァに結び付けられた農地守護のブータです。ジャイナ教のブータとかイスラム教徒のブータとか、トゥルの英雄のブータとかいろいろいるのですが、祭司(シャーマン)役は村の外に住んでいる(元)先住民です。
 トゥルナードゥの文化はケーララと共通点が多いのですが、マラヤーラム語話者97パーセントのケーララに対して、トゥルナードゥは過半数を占めるような言語グループがいません。カースト(ジャーティー)制度のためみんなが自分たちは少数派だと自覚している、というのがインドが日本(東アジア)といちばん違う点だと思いますが、トゥルナードゥの場合、いろいろな人々が移民としてやってきて、カースト内での結婚制度のために「人種のるつぼ」ではなく「人種のモザイク」状態が続いてきて、自分たちがほんとうはヨソ者である、という記憶が残っているので、本来の先住民の文化に対する一定の敬意を保っているんじゃないだろうか、というのが個人的な感想です。熱帯湿潤地域というのは、アフリカの半乾燥地で進化してきたヒトにとって決して住みよい地域ではなかったはずです。(たとえばマレーシアは今でも「産めよ増やせよ」政策をとれるぐらい人口密度が低いです。)通商や農業のために移り住んではみたものの、病気や猛獣に対処するために先住民の知恵を借りる必要があった、という説はどうでしょうか。
 この地域の言語の異なるコミュニティーを結び付けるのが「ヤクシャガーナ」と呼ばれる演劇(歌舞劇)です。実はウドゥピのクリシュナ寺院建立と、テルグ語圏のシンハーチャラムのナラシンハ信仰(ヴィシュヌ派寺院化)とこれが密接に関係しているんじゃないのかな、という話が続く予定。

ヤクシャガーナの謎

 YouTubuでYakshagana で検索すると、コースタル・カルナータカやマルナードゥの演劇の動画がいっぱい出てきますし、サウスカナラの文化や慣行を紹介する文章では必ずと言っていいほどYakshaganaが(しばしば写真入りで)説明されています。上の「カラーワリの歌」でも、子供たちが演じているものも含め、何回も登場しています。ですが、同じような衣装・メイクのケーララの古典舞踊「カタカリ」との違いは?関係は?という謎にはなかなか明確に答えてもらえません。
 そもそも、ヤクシャガーナって踊りの一種なのか。「ガーナ」は「歌」なのです。そもそも、踊りや芝居のない「ヤクシャガーナ」も実はあります。大衆演劇ではなく「通向け」、というか、高位カーストの家でお座敷がかかって、というような催しとして、歌い手と楽器(シンバルと太鼓)だけが普通の服装で現れ、歌いと語りを演じて帰っていく、というようなことがあるのです。
 また、コースタル・カルナータカに限るわけでもないのです。「Kuchipudi Yakshaganam」でYouTubeを検索すると、テルグ語のヤクシャガーナ(ム)が引っかかります。歌にあわせて踊ったり、芝居を演じている部分もある、というのは同じですが、舞台衣装は違いますし、踊りはテルグ古典舞踊の「クーチプーディ」に見えます。
 本来は音楽のジャンルの用語だったらしいヤクシャガーナが、歌にあわせた「芝居」になっていくにあたって重要だったのが、13世紀にウドゥピではじまったマドヴァのヴィシュヌ派バクティ(帰依)信仰だと考えられています。マドヴァ派のバクティ信仰を歌や踊り・辻説法で広めたのが「ハリダーサ」(ビシュヌのしもべ)と自称する人々です。この運動が南インド全体に強い影響力をもつようになったのは、16世紀前半に最盛期を迎えたヴィジャヤナガラ帝国の王朝がトゥルナードゥ出身で、ウドゥピの僧院主ヴィヤーサが王家の祭司として迎えられたためです。南インドの古典音楽であるカルナータカ音楽で重要なプランダラ・ダーサやカナカ・ダーサも、カンナダ語やサンスクリットでヴィシュヌ(ヴィッタラ)頌歌やクリシュナ頌歌を作ったハリダーサです。コースタル・カルナータカで演じられている古典的な芝居の演目も、古いものはオリジナルがこの時代まで遡れる写本群が多くなりますが、多くはヴィシュヌとそのアヴァターラ(化身)、特にクリシュナ神の説話に基づくものになります。一方、クーチプーディはクリシュナ河デルタの村の名前で、この村のバラモン男子が、クリシュナ神の愛妾、サッティヤバーマの問答を演じるバーマ・カラパムをはじめとする、ヴィシュヌ派説話群のヤクシャガーナムを演じた、というのが起源になります。
 19世紀には、寺院での古典舞踊が(デーヴァダーシの寺院売春の慣行と結びつけられて)弾圧され、20世紀に入って「芸術」として復興するにあたって、クーチプーディは他の地域の古典舞踊と同様に、ナーティヤ・シャーストラの伝統を受け継ぐ舞踊として生き残ることになり、クーチプーディ・ヤクシャガーナムは細々と維持されている、という状態です。それに対して、コースタル・カルナータカではヤクシャガーナが19世紀に「村芝居」として数多くの劇団を生み出すことになり、ヴィシュヌ派信仰に限らず、新たな作品も作られました。演目の言語も、本来はカンナダ語での芝居であったのが、まずトゥル語、さらにコンカニ語やその他のコミュニティー言語と、言語は違っても共通の文化的伝統として新たな展開を見せています。これは、農村を回る「旅芝居」として、夜通し演じられるため、「舞踊」の部分は回転ジャンプのようなアクロバティックな動きを多用、間を即興の寸劇でつないでいき、場合によってはメインのストーリーから離れてもいい、という自由さによるものだと思います。装束は、南側ではカタカリなどケーララの影響が強くなりますが、ウドゥピ以北では悪役の顔が黒くなるなど、どちらかというとブータ・コーラと共通するような扮装になります。

 映画からちょっと離れてきましたが、ここで少し戻しておきましょう。カンナダ映画の3シェッティの一人、リシャブ・シェッティはもともとヤクシャガーナの劇団出身です。ラクシット・シェッティの『アワネ・シュリマンナーラーヤナ』(彼こそヴィシュヌだ)では、主役の登場シーンが映画館で上映されているカンナダ語版『バクタ・プラフラーダ』(1983)、ヒランニャカシプ役のラージクマール(テルグ映画のNTRに匹敵する大スター)が叩いた柱の中からナラシンハが出てくる、という瞬間にスクリーンの向こうから警官姿のラクシット・シェッティが、という、新感覚神話モチーフのコメディーです。タイトルの「シュリマン」は、「シュリー(吉祥)をもつ」と「ラクシュミーを手に入れる」のダブルミーニング。『チャーリー』の怪しい獣医ラージ・B・シェッティの初監督主演作品『オンドゥ・モッテヤ・カテ(ある卵[=禿]の話)』(2017)は、禿でカンナダ語教師(かつラージクマールの熱烈なファン)という二重苦をもつ主人公の(自虐ギャグではない)正攻法の恋愛映画です。
 で、続きは『バクタ・プラフラーダ』、典型的なヴィシュヌ派バクティ信仰のストーリーで、テルグでもカンナダでもそれぞれ3回ずつ映画化されていますが、ヤクシャガーナでも(『プラフラーダ・チャリトレ』という題名で)演じられていますよという話。ちなみに、上記のカンナダ語版最新作(カラー)では、若いアナント・ナーグが「ナーラーヤナ」連発(『ヤマドンガ』とか)でおなじみのナラダ役をやっています。

バクタ・プラフラーダ

 ヴィシュヌ神がライオン頭の化身ナラシンハとして魔神ヒランニャカシプを成敗する、というのは、マドヴァ以前に遡るヴィシュヌ派帰依信仰の集大成ともいえる『バーガヴァタ・プラーナ』にまとまった形で出てくるストーリーで、南インドだけでなくインド全体で知られている物語です。ただし、『バーガヴァタ・プラーナ』自体が南インドで成立した、という説も根強いのですが。ヤクシャガーナのような(古典韻文を基礎とする)芝居だけでなく、もっと庶民的な伝統芝居でもよく出てきます。内陸カルナータカやラーヤラシーマでは Bayalata(バヤラータ、屋外芝居)、テランガナやアーンドラでは Veedhi nataka (路上芝居)と呼ばれている、素朴な旅芝居で、YouTubeにもたくさんあがっていますし、prahlada や prahallada という演目も多いです。(中にはナラシンハが出てこないで代わりにナーラーヤナ、ハリなどヴィシュヌの人間型の役が何人も出てくる長い芝居もあります。)
 割と忠実に映画化されているテルグ語版(1967)・カンナダ語版(1983)の共通部分のストーリーをざっとまとめてみます。

 ワイクンタプラのヴィシュヌの城の門番、ジャヤとヴィジャヤが、ブラフマ神の息子たちで子供にみえるクマーラ兄弟に無礼を働いたために、「人間として生まれかわって輪廻の輪に戻れ」という呪いを受ける。ヴィシュヌが、「ヴィシュヌの信者として7回生まれかわるのと、ヴィシュヌの敵として3回生まれかわるのと、どちらを取るか、と選択肢を与え、ジャヤとヴィジャヤは早くヴィシュヌの許に戻れる3回を選ぶ。(後の2回は『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』でそれぞれラーマとクリシュナに成敗されるヴィシュヌの敵、という伏線です。)

 リシ(聖仙)、カッシャパが夕暮れ祈願をしているところへ妻ディティがやってくる。(夕方セックスすると魔神が生まれてしまう、という伏線)ジャヤ、ヴィジャヤが、ヒランニャカシプ(カッシャパ)、ヒランニャクシャの兄弟として生まれる。

 ヒランニャカシプが魔神の王となっている。ヒランニャクシャは狼藉の限りを尽くし、ブーミ(映画では地球。カンナダ語版では途中で大地女神に変容)を弄び、宇宙の海に投げ込んでしまうので、インドラ神がヴィシュヌに助けを求める。ヴィシュヌがイノシシの頭の化身ヴァラーハの姿で現れ、ヒランニャクシャを成敗する。

 ヒランニャカシプは、弟の仇ヴィシュヌを倒すことを決意するが、「不死」の恩寵を手に入れるため、ブラフマ神への苦行祈願(タパッス)に入る。インドラ神はじめ神々は、アプサラ(天女)を送り込んだり暴風・大火を起こしたりして妨害を図るが、満願成就してブラフマ神がやってくる。

 ブラフマ神の恩寵は「昼死なず、夜死なず、家の外でも死なず、家の中でも死なず、地面でも死なず、空中でも死なず、人間によっても死なず、獣によっても死なず、命あるものによっても死なず、命なきものによっても死なず・・」という伏線満載の文言であるが、これによってほぼ無敵となったヒランニャカシプは、インドラ神の天界を含むすべての世界を支配する。

 ヒランニャカシプの苦行での留守を狙って、インドラ神が留守宅の妻(カンナダ語版ではバーガヴァタ・プラーナと同じカヤドゥ、テルグ語版などインド東側ではリーラーヴァティ)を襲うが、ヴィシュヌ信者で「ナーラーヤナ」を連発するリシ、ナーラダが妊娠中の妻を保護する。しかし、プラフラーダとして生まれてくることになる胎児に、胎教としてヴィシュヌ信仰が刷り込まれてしまう。

 果たしてプラフラーダは、幼いころからヴィシュヌを讃える帰依信者となり、ヒランニャカシプがヴィシュヌは弟の仇であり、魔神一族の神はシヴァ神であるといくら諭しても、投獄しても、聞く耳をもたない。ついに父は子殺しを決意し、象・毒蛇(ミンナーグ)・火・海への投げ込み・毒殺と手を尽くすが、そのたびにヴィシュヌがプラフラーダを守る。

 怒ったヒランニャカシプは、プラフラーダにヴィシュヌを連れてこいと迫るが、プラフラーダはヴィシュヌはどこにでも遍く存在すると答える。ヒランニャカシプが、ここにもいるのか、と柱を打つと、柱の中からナラシンハが姿を現し、ヒランニャカシプを成敗する。

 成敗の方法ですが、日没時、敷居の上で、人でも獣でもないナラシンハがヒランニャカシプを膝の上に乗せ、爪で腹を裂き、はらわたを掻きだす、というところまでがたいがいの映画・芝居の演技です。ただ、私が読んだことのある、少数言語コミュニティーのヤクシャガーナ(カセット・テープの朗誦付き)のテキストでは、単にはらわたを掻きだすだけでなく、それをヒランニャカシプの首にかけ、のたうちまわるうちにはらわたが首を絞める、生きても死んでもいないものによって死に至る、という描写になっています。なんたるイマジネーション。今のSFXだとここまでやっちゃうのが南インド映画界じゃないかと思うと、ちょっと空恐ろしいです。

 ナラシンハといえば、『シンハドリ』や『ヤマドンガ』でもおなじみの、テルグ語圏ヴィシャーカパトナムのシンハーチャラムの祭神です。この寺院は、ヴィジャヤナガラ帝国以前、マドヴァと同時代に、カリンガの東ガンガー朝の大臣でもあったと伝えられる聖者ナラハリが、この地域の他のヴィシュヌ派寺院と同様、ヴィシュヌ派寺院に改めたとされています。ナラシンハの神像は、サンダルウッドの粉でかたどったシヴァ派のリンガに似たご神体に埋め込まれていて、1年に1回だけこの粉を落として拝謁できる、という、「柱の中から姿を現すナラシンハ」を思わせる慣行になっています。

 ナラハリは、マドヴァの後継としてウドゥピの僧院に移った、という伝承もあるのですが、この時期のウドゥピとカリンガの関係はよくわかりません。ヴィジャヤナガラ帝国時代には、ゴーダワリ川デルタ以北のカリンガは係争地であって、ヴィジャヤナガラ帝国がシンハーチャラムの寺院を領有した時期があることもわかっています。ただし、ナラシンハ信仰の中心としての寺院は、帝国領内の各地に建てられたようです。タミルナードゥ、タンジャーヴールのヴィシュヌ派舞踊劇バーガヴァタ・メーラーは、ヴィジャヤナガラ帝国のテルグ系ナーヤカが持ち込んだ本来はテルグ語の芝居です。

 ナラシンハは、ヴィシュヌの化身としてはもっとも破壊力の強い神になります。破壊の神シヴァのヴィシュヌ派バージョンといえなくもないと思います。そもそもナラシンハは言葉を発しませんし、コミュニケーションが成立しません。プラフラーダ・チャリトラではプラフラーダが讃歌を歌ってヴィシュヌ神の姿に戻したという伝承になっていますが、ラーヤラシマの先住民チェンチュ族によれば、チェンチュ族のラクシュミがナラシンハを鎮めたことになっています。Jr. NTR の初期の主演作『ナラシンフドゥ』では、惨殺された村の少女の復讐のためにハイダラーバードにやってきたJr. NTRが言葉をしゃべれなくなっているのですが、これは怒りのためにナラシンハになっている、という演出だと思います。アーンドラのナラシンハ寺院は、ナラシンハだけを祀るのではなく、ヴァラーハ・ラクシュミ・ナラシンハ寺院のように、たいてヴァラーハやラクシュミが付いてきます。これは、ナラシンハだけだと祀ろうにも手を付けられないので、より穏やかな神の仲介が必要だから、ということのようです。

 ここでちょっと気になるのが、トゥルナードゥのブータ・コーラのパンジュルリとグリガです。パンジュルリがヴァラーハと同様、イノシシのブータです。農地を荒らすもの(たとえば野生のイノシシ)から土地を守るために祈るブータがイノシシの霊です。「土地」はブーミで、ヴァラーハが守ったものと同じです。それ以上の害を与えるものを破壊してくれる、問答無用のブータがグリガなのです。『カーンターラ』のクライマックスシーンは、リシャブ・シェッティがイノシシの憑依からグリガの憑依へ転換するところが見せ場になっています。『プラフラーダ・チャリトラ』、ひいては『バーガヴァタ・プラーナ』の南インド先住民信仰との関係、気になりませんか。

エーカム(ストリーミング)

 ラクシット・シェッティのプロデュースでコロナ以前から企画・制作されてきたカラーワリの映画が、どこのビデオ配信サイトでも採用してもらえなかったので、自主配信します、というのがこれです。おかげで海外からでもわずか4ドルで視聴できる(回線状態によって動画が止まってしまったりもしますが。)のがありがたいです。
 本編は7本の短編映画から成るアンソロジーです。配信が断られたのは、大衆娯楽映画としての要素が弱くて収入が見込めない、というだけでなく、おそらく第6話(プラカーシュ・ラージ出演)の葬儀をめぐるエピソードがちょっと問題ありとされたのではないかと思います。不条理劇として演劇でやる分には問題ないでしょうが、実写で生きたまま火葬ですから。同じ作者・監督の第7話と比べてみればおそらく比喩的な葬儀だとわかるのですが、文学作品に縁の薄い観客はそうは受け取れないでしょう。
 実は、カンナダ文学はインドの現代文学ではかなり重要なジャンルになります。独立インドの最高の文学賞の受賞者は、ヒンディー語(11人)に続く8人です。南インド諸言語の中で「カンナダ文学」は「近代文学」の文学史でいちばん長い項目が立てられる言語だろうと思います。「エーカム」は、そういう志向性をもった作家たちによる短編小説集といった趣の映画になります。ラクシット・シェッティもラージ・B・シェッティも、今の南インド大衆映画の問題点として、原作・脚本が弱いことを上げていて、優秀な作家を育てて待遇を改善していくことを課題としています。彼らの映画の多くが(インド映画らしからぬーだから日本に紹介するウリのない?ー)一味違ったストーリーになっているのはそのような主張の反映です。ただし、文学が「盛んである」ことは、大衆的に浸透している、ということではないので、ハイインプット・ハイリターンを追求するインド映画産業の中では苦戦を強いられることになるでしょう。彼らが期待をかけているのは、子供の頃からネットで海外やインドの過去の名作に親しんでいて、「最新のインド大衆映画」に飽き足らなくなっているだろう若い世代の観客なのですが、どうなりますか。
 そういう前置きは置いといて、7編とも、トゥルナードゥとそこでの暮らしぶりを知るにはこの上ない作品だと思います。たとえば、森の中のシーンでは、そこで聞こえる虫の声まで拾っています。いや、懐かしい、というだけで何回も見たくなります。このあとはその辺について書いていこうかと思います。

バスと銀行

 第1話はバス停が主な舞台ですし、第2話でも主人公が地主の旦那に会いに町に出かけるシーンでバスが出ます。ここで出てくるバスは、どちらも州バスではなくて民営バスです。私がはじめてこの地方に行ったのは冷戦崩壊前、インドがまだ混合経済(基幹産業は国有化、中小企業は私有)だった時代ですが、その当時から西海岸側のバスは民営が主流で、州バスは県外への路線しか走っていない、ということに驚きました。アーンドラ・プラデーシュではハイダラーバードの市内バスも含め、州バス(APSRTC。州分割でテランガーナ側はTSRTCとして分離しましたが、バスの塗装は元のまま。バスの色は、元のハイダラーバードのメトロエクスプレスの配色ですが、デザインが少し違います。メトロライナーの色がノンACのメトロエクスプレスで、APSRTC時代の緑色は廃止、ACバスが黄緑色でした。最近TGSRTCと改称)独占で、映画に登場するバスも(長距離バス以外は)ほぼ州バスです。
 単に民営であるだけでなく、複数社が競合して乗り入れる路線も多く、「競争によって利便性が向上する」というお題目が実感できたのです。たとえば、マンガロールとウドゥピの間は猛スピードのノンストップバスが何社もはいっていて、日中ならほぼ待ち時間なしで乗れました。主要な民営共用バススタンドでは、車掌が行き先・経由地に続けて「ベーガ、ベーガ(「急いで」、「乗った乗った!」という感じ)」と連呼する声があちこちで響きわたる、というのが当たり前の風景でした。
 なぜこんなに民営バスが多いのか。友人に聞くと、経済的に有力なコミュニティーが複数あって、それぞれ同じ業種に参入して競い合うのがこの地域では普通なんだ、という答え。それが目に見えるのが銀行業の場合です。インドは独立後、1980年までに大手銀行20行を国有化しましたが、そのうちの4行がこの地域で創業した銀行です。
 まずは現在もインド第4位の預金量のカナラ銀行。本店がベンガルールに移りましたが、創業はマンガロール。コンカニ・ヒンドゥーのGSBの銀行です。デリー支店の社員食堂は90年代には一般にも開放されていて、南インド風のヴェジタリアン・ティフィンが食べられる場所として有名でした。(GSB系のウドゥピ・ホテルが社食も請け負っていた、ということだと思います。)GSB系の国有化銀行はもうひとつ、最近カナラ銀行と合併したシンディケート銀行があります。こちらの本店はウドゥピの高台地区、マニパールです。マニパールには医大を皮切りに、経済自由化以前は珍しかった私立大学を次々に設立して、学園都市として変貌させたほか、コンカニ語だけでなく、トゥル語やカンナダ語の地方文化の支援事業もやっていて、出版物の問い合わせに本店にいったら頭取室に通されてびっくりしました。いちばん古いコーポレート銀行(最近、ユニオン銀行に吸収合併)は、マンガロールのバザールを取り仕切っていた富裕なムスリム商人の設立。ヴィジャヤ銀行(最近バローダ銀行に吸収合併)は、非バラモンのトゥル語圏最有力コミュニティーであるバント(テルグ語圏のレッディやカンマに相当)の銀行です。バントは名前に「シェッティ」「ラーイ」といった称号がついていることが多いです。国有化されなかった大手銀行としてはカルナータカ銀行があります。これもマンガロール創業で、カンナダ・トゥル・マラーティーの主として農業系バラモンのコミュニティーが設立したものです。第3話でラージ・B・シェッティに農家向け融資の悪用をもちかける友人銀行員は、「我々は国有化銀行と違って・・」と言っているのですが、これがこの銀行を指すかどうかは不明です。
 民営バスの「利便性」は、山間地域にまで及ぶ充実した路線網にもあらわれています。バスが通れる(ジープを使う必要のない)道路ならほとんどバスが来るんじゃないか、というぐらい路線があって、それらの乗り換え地点となる共用バススタンドは山間部にもあります。山間地域の人々でも、このバスで通勤・通学している人たちは多く、シャツにルンギー、サンダル履きという西海岸スタイルの、都市部と変わらない足早で無口な通勤風景が見られます。テルグ・タミルの饒舌と比べて西海岸の人たちは寡黙だという印象があるのですが、第一話はそういう寡黙な人たちが何を考えているんだろう、という下世話な想像に答えてくれる作品になっています。そういえばチャーリーも「心のことばが伝わればそれでいいだろう」なんてセリフが出てきますが、動物モノでなくても、セリフによらない演技でのストーリー描写が必要になる、ということがこの地域での映画作りにも影響しているかもしれません。
 もう一点、市場経済導入によるサービス向上の例はバスそのものにも出ていました。1980年代のハイダラーバードの市内バスは、扉がないのが普通でした。これはいわゆるフットボード・トラベル、入口付近にぶら下がる、とか、バスストップ(ではなくバスステージと書いてあるのが普通でした)で止まらずスピードを落とすだけのバスにダッシュで飛び乗る、とかいったハイダラーバード風の乗り方の便宜を図るためだったのかもしれませんが、マンガロールの市内路線や山間路線は基本的にドアがありました。市内路線だと窓ガラスがないのはハイダラーバードと同じですが、これは、スピードを出さない市内路線だと窓は開いているほうが涼しいからです。そして、よく見ると、開いている部分の上には、布製のスクリーンを巻き取ったバーがついています。雨季のマンガロールでは急に土砂降りになることがよくあるのですが、そういう場合はすばやくスクリーンを下ろして雨がはいらないようにするのです。ハイダラーバードではめったにないことですが、そんな急な雨が来ると気温が一気に下がるので、窓の閉められないバスだと、サリー姿の女性がいっせいに頭にサリーをかぶってマリア様に早変わりします。日本では「頭寒足熱」なんていう表現もありますが、インドだと足元は裸足のままでもまず頭を温める、というのが寒さに対する対処法なのです。

アレカ農家の暮らし

 第5話はアレカ農家が舞台ですが、上にあげたトゥル語短編映画の農家よりは大きな農園で、瓦屋根の屋敷も2階建て、『カーンターラ』冒頭の19世紀の王宮を連想させる構えですが、2階は住居というよりは物置のようです。農園の規模が大きいと考えるのは、アレカの木の配置が根拠です。木の間隔を一定に保って最大の植え付け本数を確保するために、60度間隔で交わる3列の直線の交点に1本、という配置になっていて、カメラを回すと直立したアレカの幹が一本に重なる構図が続けて出てきます。中小の農園ではそこまで厳密に間隔を守っていません。
 農園や屋敷が大きい割に、登場する人物は少ないです。昔だったら3倍以上は人間がいただろうに、という過疎ぶりです。映画スターの熱狂的なファンである主人公(おそらくバラモン)は、二十歳前にこの農園を継ぐことになった立場で、父親には死別、母親や兄弟は画面に出ません。唯一の親族は、盲目の大叔父。農園で働いている労働者も、平常時は3人、収穫時も5,6人といったところで、高所作業(地上の人間と一緒に画面に映る範囲の低いところにいますが)も一人だけです。主人公が引っ張っているのは、高所作業の際に担いで登る道具です。ロープを幹に縛り付けて固定し、ロープの先の板に腰掛けて両足で幹を挟み込み、両手が自由に使えるようにするものです。主人公は、ロープを幹にしっかり固定するやり方を低い位置で練習しているのです。本来、農園主は指示を与えるだけで自ら高所作業をする必要はなかったはずですが、人手不足がそこまで深刻になっているのです。
 ヒロインのガウリ(『カーンターラ』では主人公の母親役)は、農作業のほか、屋敷の掃除・洗いものなどの家事も担当しています。これは、屋敷にはいることのできるカーストだということを示しています。第2話の主人公のように、地主の家の軒下にもはいろうとしないコミュニティーもあって、1980年代まではそれが当たり前のことだと当人たちも考えていました。『カーンターラ』では主人公が地主の家に乗り込んだあと、地主が「家を清めておけ」というセリフがありますが、これは単に、日本の下町もので言う「塩をまいておけ」ではないのだろうと思います。第6話の、人が死んだときにマンゴーの枝を切って火葬の準備にあたるコミュニティーも、地主の家に入れない人たちです。一方、ガウリも立ち入ることができないのが、竈のある場所、つまり台所です。ここは、一家の主婦が神を祀る場所でもあるのです。ということは、母親など女性が不在なのだとしたら、主人公は自炊して大叔父を養っている、ということになると思います。農村の男性でも、たとえば法事・子供の入門式のようにコミュニティーを招く宴席では一家総出で料理をしますし、女性の生理中には料理も担当しなければならないので、自炊できないということはないはずです。
 アレカ農園は、母屋のほか、牛小屋と納屋の3棟で構成されていることが多いです。アレカの実は乾季に天日干ししますが、外側の繊維部分が大量の廃棄物となりますので、これも燃料として納屋に格納し、一日中お湯が沸いている状態にして浴場も併設します。牛の世話は主婦の仕事です。トゥル語短編映画でも出てくるように、早朝から起きて牛に餌をやり、乳を搾ります。搾った乳は、撹拌して脂肪分を分離したバターミルクにし、ココナツを削ってココナツチャツネを作るのが朝食の準備です。神話の「乳海攪拌」は、主婦の日常作業なのです。牛の餌は、農園で刈った草で、これを集めて牛小屋に運ぶのが日常的な労働者の仕事の一つです。第3話では主人公ダナラージャが牛(ダナはサンスクリットの「財産」ですが、カンナダ語では牛・水牛をダナと言います。)を飼い始めるのですが、屋根だけの急ごしらえの小屋はいいとして、餌はどうするんだろうとか、無茶で杜撰な計画であることがよくわかります。

食べ物

 朝食(と夕方の軽食)は、南インドの他の地域と同様に、ティフィンとコーヒー・紅茶ですが、この地域はコーヒー産地のコダグ地方(マイソールとマンガロールの間)に近く、最大のコーヒー積出港のマンガロールの近傍なので、コーヒーのほうが普通です。朝食を「ティフィン(を食べる)」ではなく「カーピー(を飲む)」と表現するコミュニティーもあります。最近は大都市部でさまざまなグルメ系コーヒーチェーンが現れていますが、第7話で作っているコーヒーは伝統的なフィルター・コーヒーだと思います。(ちなみに、ラクシット・シェッティの『キリク・パーティー(いかした奴ら)』でデビューし、今や全インド人気女優となったラシュミカーは、コダグのコーヒー農園主のお嬢さんです。地方都市の工業大学の学園ものですが、新入生にとってはまわりのみんなが知らない顔のはず、という理由で新人を起用した作品です。コダグ地方はマルナードゥの南端で、雨季にしかいったことがないのですが、とにかく雨続きです。ラクシット・シェッティの初ヒット『シンパラーギ・オンドゥ・ラヴストーリー(単にあるラヴストーリー)』もこの地域が舞台で、土砂降りシーン多数。)
 この地域でよく食べられるティフィンとしては、米だけで作ったやわらかいニール・ドーセ(ケーララのアッパムに似ています)や、米をフレーク状にしたもの(カンナダ語でアワラッキ)などがあります。第4話の朝食シーンはニール・ドーセかどうかわかりませんが、パリパリではなくやわらかいドーセのようです。前夜の飯の水気を切って団子状にして蒸し、麺状に捻りだしたヌードルもあります。麺状といっても固められているわけではないので、カレーをかけて食べているうちにただの飯になってしまうのですが。この捻りだす器具自体はケーララを含め市販されていて、誰がどうしてこんな見かけ上だけの麺絞り器を考えついたのか。
 コメはケーララと共通の赤いコメ。硬いので、籾の段階で一度茹でて、赤い色がついた米を、大量の水で粥状に炊いて柔らかくしたものです。第7話の回想シーンで母親に食べさせてもらうシーンがありますが、水気を絞って団子状にしているのがわかると思います。これは常食としてのコメであって、「ハレ」の食事では普通の白米ですし、レストランでもほぼ白米しか出ないと思います。『カーンターラ』では、地主が白米を食べているのに対し、シヴァが俺たちは赤いコメを食べると言っているセリフがあります。
 魚のカレーが多いのもケーララと共通です。ただし、バラモンはヴェジタリアンなので食べません。農民系バラモンがGSBをバラモン扱いしないのは、表向きは「GSBは魚を食べるから」です。農民系バラモンは、トゥル、マラーティー、カンナダとさまざまなコミュニティーがありますが、ヴェジタリアンの「パンチャドラーヴィダ」のサブセクトだと主張します。これに対して、GSBのGは、「パンチャガウダ」という北インド系(カシミール、ベンガルなど)のバラモンだという主張になります。本音は、GSBが商業系のコミュニティーで、定住農耕民は商人ネットワークを信用しない、という、世界的に普遍的な傾向の表れだろうと思います。
 第2話の狩猟採集民コミュニティーだと、イノシシやウサギはもちろん、モグラやネズミも食べます。ネズミ(ラット)は、ドブネズミより巨大なノネズミがいます。第2話では、猟がうまくいかなくなったところで息子が買ってきてくれた鶏肉を前に、主人公夫婦が「家鶏だな(字幕は「ブロイラー」)。我々の口にはあわない」といっているのですが、これには個人的に大いに共感します。フライドチキン(中華・ケンタッキー)が一般化して鶏肉が大量に流通するようになったのですが、明らかに味が落ちています。山田桂子先生のご友人で、インドで長く暮らしていらっしゃる日本女性にお会いしたことがあるのですが、「日本に帰ってインド風のチキンカレーを作るとみんな美味しいと言ってくれるけれど、違うのよ、鶏が。そんな味じゃないのよ。」と力説していらっしゃったのを思い出します。

住まい

 この地方は木材が豊富なので、中小農家でも椅子など木製家具のある家が多く、農村部にも家具職人の店を見かけることが多いのですが、本来は床での暮らしです。床で寝ていると思われる描写は、第2話の狩人夫婦と、第5話の盲目の大叔父の床に敷かれた寝茣蓙です。この地域だと、まず寝茣蓙を敷き、その上にシーツなり薄い布団なりを敷いて寝るのが地主を含めて本来のスタイルだろうと思います。その他の登場人物たちは、木製と思われるベッドの上で寝ている、という設定です。しかし、第4話では、祖母の部屋と思われる部屋の窓脇に、寝茣蓙ごと丸めた寝具が映っています。これはおそらく、床から立ち上ったり腰を下ろしたりが難儀になった老人のために、腰掛けられる木製寝台を入れてはいるが、その寝台の上に寝茣蓙を敷いて寝ている、ということだと思います。寝茣蓙は使わないときは布団ごとそのまま丸めて、湿気が来ないように高いところにしまいます。日本の伝統的な生活にも少し似ています。
 食べるときにも伝統的には床に座るのですが、日本のようなちゃぶ台は使いません。立食で皿をもって食べる、という機会も今では増えていますので、第3話の主人公のように座って皿を持って食べたりすることもあるのでしょうが、本来インドでは食器は使い捨てのバナナの葉ですので、必ず床に置くことになります。食べるときの前傾姿勢を楽にするために、食事の時にだけ使う低い木製の腰掛けが伝統的な家具です。第2話では狩人夫婦が使っている描写があります。第4話のドバイ出稼ぎ家庭では、テーブルと椅子の暮らしを始めていることがわかります。
 映画では出てこないのですが、大きめのタイルを使ったフロアリングが広がる前は、床は土盛りで、牛糞と灰を混ぜて水に溶かしたものを表面に塗ってセメントのように舗装する、というのが一般的だったようです。タイル張りの家でも、牛糞舗装の部屋を一部屋だけ残している、というような家も80年代にはありました。寝るとき涼しい、とか、薬効がある、とかいった説明を聞いたものです。また、法事や入門式といった、コミュニティーメンバーを大勢招待して食事を振る舞わなければならない場合には、アレカ農家の農作業(アレカの天日干しなど)に普段は使っている庭に幕屋を立て、床は牛糞舗装で平らに均す、というのが伝統的なやり方でした。その上にバナナの葉を並べて一家総出で食事を配膳していく、という宴席です。牛の糞や尿は、ほかの動物の糞尿とはカテゴリーが違うのです。「牛糞」だけに使われる別の単語もあります。デカンのような乾燥した地方では一家の主婦が都市放牧の牛の落とし物を拾い集め、家の壁に丸く貼り付けて乾かしてカウダン・ケーキ Cow-dung cake と称して燃料として使ったりもします。(私がはじめて見かけたのはマイソールでした。上品な奥さんが手づかみで牛糞を拾い集めているのに驚きました。)YouTube では、コロナウイルスから守る、と全身に牛糞を塗る人たちや、酷暑期の車の温度調節のために車のボディー全体に牛糞を塗ったり、という映像も出ていたりします。


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