「感染症」と「天気の子」と「イリヤ」と「鬼滅」
感染症が広まり数ヶ月前には想像もできなかったような世界が広がっている。
このような状況を「セカイ系」と呼ばれる物語の視点から少し考えてみたい。
今回、題材にするのは、「天気の子」(以下「てんき」)と「イリヤの空、UFOの夏」 (以下、「イリヤ」)。
以前、FBの方で実際には論じているが、もう一度説明していこうと思う。
どうしようもなく強大な敵(以下、「セカイ」)、それを変化させられるかもしれないが何かしらの葛藤を抱えている女性(以下「ヒロイン」)、その葛藤の原因(もしくは解決)となる男性(以下、「主人公」)との関係を描くのが、一般的にセカイ系と言われている作品だと解釈している。
「セカイ」と「ヒロイン」をどちらを選ぶかの葛藤を楽しむものだと思っていて、結果的に「イリヤ」では「セカイ」を選び、「てんき」では「ヒロイン」を選んだ。また、「イリヤ」では、最終的な選択は「イリヤ」では「ヒロイン」が行い、「てんき」では「主人公」が行う。
ただ、どちらも「主人公」が”「セカイ」は狂ったままでいいんだ”という発言をしているところが類似点となろう。
その結果、平成の「イリヤ」は、虚無な「主人公」と自分で選択をする「ヒロイン」、令和の「てんき」は、独善的な「主人公」が目立つような構造となっている。
さて、最近の「感染症」をキーワードにこれらの作品を再考すると「てんき」の異様な立ち位置に気付いてしまった。
性の問題は最近非常にセンシティブな部類の話であることは承知の上ではあるが、ここで「主人公」を「人」、「ヒロイン」を「欲求」、「セカイ」を「ウイルス」と解釈してみる。すると、現実の世界に酷似した様相を呈していると感じる。
「てんき」を解釈し直すと、「欲求」を我慢しなかった「人」が「ウイルス」の蔓延を許すとなる。「てんき」の「セカイ」は「雨が降り続く東京」である。「てんき」における「傘」は「マスク」となるだろう。
実は心のどこかで、「イリヤ」的な選択の結果を願っていたのだが、上記の解釈では「イリヤ」では「欲求」が選択権を持つことになってしまう。
「てんき」では「ヒロイン」を「欲求」まで落とすことによって、現実の世界を表していると感じてしまうのである。このような作品を令和に作り上げてしまい、美しい映像で騙されてしまったのは自分でも面目ない気がしてきた。
余談ではあるが、性のセンシティブさを慎重に扱って、もっとも目新しいものとしては「鬼滅の刃」が挙げられるだろう。淡い恋心のようなものを作中で描いているが、作品の主題は、鬼との戦いであって、そのために不必要な恋愛は極力排除している点が、非常に現代の性の意識に近いと思う。最終回でも、なんとなく示唆はされるものの、鬼無きあとの「平和」が主題である。
それに比べて、「てんき」は性の扱いが古過ぎるように感じる。結局、「ヒロイン」は何も選択していないし、「主人公」は「欲求」を抑えられず未熟だ。
なのに、「てんき」の状況は現実の世界に一致してしまう。皮肉なことではあるが、我々の幼稚さを、上映当時は、心のどこかで違和感を抱いていたが、真にリアリズムであったと言わざるを得ない状況だと感じてしまう。「古くて、リアル」それが「てんき」の異様の原因だと思う。まったく笑えない。