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【思い出ぼろぼろ】苦闘する若人にかつての自分を重ねたら

 「想い出 ぼろぼろ」と言えば、内藤やす子の歌声を思い浮かべてしまう昭和のオジサンです。(作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童)
 此度は、伝吉小父の思い出ぼろぼろにお付き合い賜りたいと思います。お時間の許す時にでもご一読賜れれば幸いです。



苦闘する若人にかつての自分を重ねたら

1:頂上の二人 

 アトリエの本棚の一隅に長らく飾っている写真が一枚ある。
 その写真に写っているのは、Sさんの二人。そしてロケーションは、厳冬期(2月)の唐松岳からまつだけ

Sさん(左)と僕(右)

 この27~8年前に行った登山には、少々おセンチな背景があった。
 その年の3月を機に、長野から故郷の仙台へ戻ることが決まっていた僕は、最後の記念として相応の高さの雪山を登ってから長野を離れたいと考えていた。そんな僕の思いを聞いたSさんは、快く同行を申し出てくれた。

ネガフィルムは15年程前に一度整理していた。

 職場の先輩として御縁を賜ることになったSさんとは、仕事よりもむしろ余暇のアクティビティーを介して親交を深めていったように思う。

 僕は、Sさんからマウンテンバイクの林道ツーリングを学んだ。彼の誘いによって山深い北信エリア(秋山郷や志賀など)の山々を走って周った。また、好奇心旺盛なSさんがフリークライミングをやってみたいと口走ったのを契機に、長野県内の岩場へ足繁く通った。そして冬は冬で、長野市内から程近い根子岳ねこだけ四阿山あずまやさんでバックカントリー・スノーボードを楽しんだ。

最高の天候とロケーションの元で撮影できたのに現像した写真が見つからない!

 こうした危険を伴う非日常的な時間を共有していく過程で、互いの技量や体力を量るはかると同時に、「リスクを共有できる人物=信頼に足る人物」であるか否かを確認していったのだと思う。だから、それなりに標高が高い雪山登山のパートナーとして不足を感じることは微塵も無かった。

不帰Ⅱ峰の稜線も綺麗に撮影できた。

 幾つかの候補の中から唐松岳を選んだのは、3000mに迫る標高にもかかわらず、登攀要素が少なくワンプッシュで登れるという利点もあったが、僕の「不帰Ⅱ峰かえらずにほうの雄姿を目に焼き付けておきたい。」という願いが大きく作用した。それは、雪をまとった後立山連峰うしろたてやまれんぽうを愛でる最後の機会になるであろうことを予見していたからだ。

 故に、この唐松岳登山は、長野での生活に対する惜別の思いが詰まった山行でもあった。そして、今になってこの山行を振り返る時、この節目の瞬間にSさんが居てくれたという証を、僕は再確認しているのである。

矢印のネガが次の写真。(額にあわせてトリミング済み)

物語の途中の余話:本稿に掲載した写真について
 当時、モノクロ写真に凝っていた僕は、自作の防寒カバーを施した愛機の中に白黒フィルムを仕込み、この厳冬期の山行に臨んでいた。

 これらのモノクロ写真は、近所の写真屋さんで焼かせて貰った。
 その奇特な写真屋さんは、長野オリンピックのために敷設される道路の影響で立ち退を要請されていた。そんな辛い状況もあってか、僕がモノクロのベタ焼きを依頼すると「やってあげたいんだけど、面倒臭いんだよね。」と商売人としてはありえない理由を口にした。しかし、言い過ぎたと気が付いたのだろう、代替え案よろしく「じゃぁ、自分で焼くってのはどう?閉店後の1~2時間くらいだったら暗室を好きに使っていいけど、やってみる?代金は内容によってかなぁ。」と破れかぶれの提案をしてきたのだった。

 それは、僕を諦めさせるための台詞だったに違いない。しかし、店主の言葉を真に受けた僕は、この日を境に、それまで溜め込んでいたモノクロのネガ(旧中山道の宿場町の風景や野仏、社寺仏閣などのネガ)を小分けにして持ち込み、店主の顔色を窺いながらモノクロ現像紙に焼かせてもらった。
 1から10まで分からないことだらけだったので、初めのうちは手取り足取りの状態が続いたが、店主は自分で提案した手前もあってか、ムスッとしながらも丁寧に教えてくれた。
 この機会を最後に、僕は暗室には入って写真を焼く事はしていない。だから、本当に貴重な経験をさせてもらったと感じている。あえて空気を読まず、素直(強引?)に甘えて良かったと思う。

 長野を離れるまで1カ月余り、僕は本当に濃密な時間を過ごした。ありとあらゆる事柄を、限られた時間の中に詰め込むだけ詰め込んで、それでも消化できたのは若かったからであろう。

 それにしても、かようにして現像した写真が見つからないのは残念でならない。とかく、引越しが多いと紛失する物が多いので閉口する。加えて、記憶も朧気になるばかりだから堪らない。とは言え、これは完全に僕の不手際だ。ネガフィルムは揃っているので、折を見て現像したいと考えている。

急登を遠望しながら八方尾根を行くSさん。(茶箪笥の中で偶然発見!)

2:過去の自分

 さて、毎度の如く前置きが長くなった(低頭)。
 実の処、本稿に綴りたいことは、前項のようなオジサンのおセンチに満ちた思い出ではない。

 数日前のことである。
 6,7年振りに、Sさんからメールが届いたのだ。
 彼の人柄を表すような朴訥とした文章で、安否を尋ねてきてくれたのだった。何事かでもあったのかとドキドキしながら返信すると、彼は次のメールで家族の様子を伝えてきてくれた。そのメールには、長野から遠く離れて暮らす娘さんが、建築士の試験に挑戦していると書かれてあった。

 Sさんの娘さんとは、彼女が小さい頃に幾度となく会っている。彼女に記憶はなくても、この小父さんは明瞭に記憶しているのだ。(僕の結婚式にも参列してもらったのだから当然覚えている。 ※僕の記憶違い。他の友人の結婚式だった。記憶はあてにならない。)
 Sさんのメールと写真から、聡明に成長したであろう彼女もまた、社会人として悪戦苦闘をしていることがヒシヒシと伝わってきた。社会に出て間もない身なれば、慣れぬ仕事と独り暮らしだけでも身に応えるはずだ。そこに建築士の試験が加わるのだから尚更であろう。きっと、体験したことのない孤独を感じているに違いあるまい。

 娘さんに寄せる愛情と気遣いを感じさせるSさんの文面をなぞっている内に、いつの間にか「長野で働いていた頃の自分の姿」を思い起こしていた。 
 当時は、時間もお金も体力も気力も本当に厳しい状態だった。でも、一番辛かったのは、腹を括って取り組んでいるはずなのに、いつまで経っても確固たる自信を持てないでいたことであった。
 それは正に、霧の中を彷徨う感覚に近似していた。辛うじて道を逸しなかったのは、磁針の指す先(建築士資格の取得)が、最後の最後まで微動だにしなかったお陰だ。即ち、迷いようがなかったのである。


3:尽きぬ思い出

 Sさんの娘さんに当時の自分を重ねていたら、胸が熱くなってくると同時に、楽しかった思い出がとめどなく湧き出してきた。

山形の名峰 飯豊山梅花皮かいらぎ雪渓にて。Sさん(右)と僕(左)
当時(26~7年前)は上から下まで雪渓が繋がっていた。

 僕が故郷の仙台に戻ってからも、Sさんとの交友は「年に一回の夏山山行」というイベントとして続いた。
 最初の山行は、岐阜の白山だった。その後、山形の飯豊山いいでさん朝日岳、そして立山連峰の剣岳も登った。その時々にメンバーは増減したけれど、何れの山も味わい深いものとなった。

Sさん達との最後の「年1山行」剣岳だった。八ツ峰のスカイラインが美しい。
学生時代に、クライミングクラブの仲間と八ツ峰Ⅵ峰Dフェース・富山大ルートから三ノ窓(ビバーク)を経由してチンネ左稜線を継続登攀した。ひたすら岩を満喫した山行だった。三ノ窓で仰ぎ見た満点の星空は一生忘れない。僕もまた剣岳の懐の深さに魅了されたクライマーの一人だった。

 その後、互いの家庭や職場の環境が変化するにしたがって疎遠になっていったけれど、繋がりが分断された感覚はなかった。それはやはり「同じ釜の飯を食った間柄」だったからに他らない。

4:忘れえぬ山 酸いも辛いも良き思い出

 振り返ってみれば、僕が長野県で働いていたのは3年程である。かように短い期間の中で、Sさんと巡った秘境・夏山雪山・岩場は数知れず。
 しかし、僕の「忘れえぬ山」は、あの「厳冬の唐松岳」に尽きる。

 唐松岳の頂上で二人並んで撮影したモノクロ写真は、当時の不条理で不安定な状況に置かれた自分自身を反芻することができる装置になっている。
 あの写真の中に含侵している孤独で不安な記憶が呼び起こされる度に、稜線を吹き渡る鮮烈な風と澄みきった冷たい空気が、僕の鼻腔の中を通り抜け、そして、あの剣呑とした不帰Ⅱ峰の雄姿が脳裏に映し出されるのだ。


番外編:長野時代の七転八倒ライフ

 僕が若かりし日々を過ごした長野県での七転び八起ならぬ七転八倒の青春日記を根付彫刻に載せて綴りました。お暇な時にでもご一読下さいませ。

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