【思い出ぼろぼろ】真正面から向き合う
過日 56歳 になりました。
年に一回、年嵩を増すことに今さら不満はありませんが、誕生月が近づいてくると、知らず知らずのうちに「己の来し方と行く末」に思いを巡らす時間が増えてしまい、それに気付いて苦笑いしている自分がいます。
真正面から向き合う
1:万を治むる仏さま
誕生日を迎える頃になると、アトリエの本棚の一番上に飾ってある『万治の石仏』の写真を見上げることが増える。
このモノクロ写真は、今から30年程前(1995年頃)に長野市で仕事をしていた私が、余暇を使って旧中山道を巡り歩いていた折に撮影したものだ。
『万治の石仏』は、旧中山道と旧甲州街道(終点)が交わる下諏訪宿の傍に鎮座している趣のある石仏で、地域の人々から「万を治むる仏さま」として永く愛されてきた。
予てから、諏訪地域と深い御縁を賜ってきた私だが、『万治の石仏』と明確な意識を以て対面したのは、この時が初めてだと言ってよいだろう。
※お袋の話では、私が幼稚園児の頃に一度対面していたらしいのだが、当の私は広大な諏訪湖の景色と土産屋の印象しか記憶していない。
幸いなことに、この日の街道巡礼は、下諏訪宿を終了地点としていたこともあり、先を急ぐ理由もなかった。それ故、下諏訪宿の本陣や諏訪大社の秋宮・春宮を参拝した後に、何かしら物足りなさを感じた私は、気まぐれよろしく『万治の石仏』に足を向けることにしたのである。
概して、身構えていない時に遭遇する衝撃的な出来事は、当事者の心身に想像を超える影響をもたらす場合が多いものだ。何しろ、心の準備を整えていないだけに、その衝撃はダイレクトに到達するのだから堪らない。
この時の石仏との対面は、正に”そのような状況”であった。
『万治の石仏』は、ぽつねんと鎮座していた。
その原始的で土俗的な風貌に目が釘付けになった。
辺りに人影もなし。
自分一人が石仏と相対していた。
石仏と対峙すること暫し。夕暮れが迫っていることに気付いた私は、手にしていたカメラを向けてみる気になった。
しかし、ファインダーを覗いた瞬間、石仏が放つ圧倒的な力に気圧されてしまったのだ。そして、弁えを知らぬ自分の心を見抜かれたような気持ちに陥ってしまったのである。
然るに、小手先の技巧なんぞ通用するわけもなく、真正面から向き合うしか術がなかった末の撮影結果が、これら二枚の写真だったと言える。
そんな貴重な体験を与えてくれた『万治の石仏』は、今もなお「等身大の自分と真正面から向き合わないと駄目だよ。」と私を叱咤激励してくれている。それも、何故にか誕生日を迎える頃になると・・・なのだから、明らかにタイミングを狙っているとしか思えないのである(微笑)。
2:六十代を前にして
随分と前になるが、去る記事で「怒られることが無くなった」と吐露したことがあった(下リンク)。つまるところ、近年の「誕生日を迎えると発動する反芻と思索の時間」は、こうした感慨が大きく作用しているのである。
32歳で独立開業して以降、相応の立場で仕事をしてきた身なればこそ、この状況を維持したまま六十を迎えてしまうことに曰く難い不安(危惧)を感じ始めたというのが本当のところだったりする。
即ち、このまま自分の「好きなこと」「得手なこと」だけを安穏と続けていたら、垂れるはずの稲穂も反り返ってしまうだろうと。つまるところ、私自身が最も嫌悪している居丈高な人間になってしまうことだけは回避したいのだ。
では、何をすべきなのか・・・である。
これらの危機感をまとめると、どうやら「等身大の自分と向き合うこと」そして「初心に帰ること」が、自分の行く末を整えていくのに適したタスクのように思われた。
といった経緯もあり、去る年度末の繁忙が片付いた頃から「初心に帰る試み」に取り組んでいたわけなのだが、悲しいかな・・・挑戦すること3ヵ月を経ずして体調に異変をきたしてしまったのである。正に、聖書が示す処の「心熱すれど、肉体は弱し」を具現化した格好になってしまった。
さわさりながら、不肖 伝吉、ここで早々に退散するタマではない。一応の考察が得られるまで、細く長く続けていくつもりだ。
兎にも角にも「真正面から向き合う試み」は始まったばかり。
合言葉は、慈眼寺の大阿闍梨(塩沼亮潤住職)の言葉を借りるならば「人生生涯 小僧の心」である。
六十代に突入するまでの猶予を使って、自分を見つめ直す時間を味わうように過ごしていきたいと考えている。
追記:旧街道巡礼について
長々としたテキストに最後までお付き合い賜り有難うございました。
蛇足を承知で、最後に本稿の背景をひとくさり綴らせて頂きます。
学生時代に登山やロッククライミングで長野県や山梨県へ通っていた私は、山行を終えて余裕がある時は、木曽路に点在する宿場町に寄り道することにしていました。
こうした機会を重ねていく中で、昭和40年代に国の施策を契機として復興を遂げた宿場町(妻籠宿・馬籠宿・奈良井宿等)と、その恩恵から漏れてしまった宿場町の「様相の異なり」に衝撃を受けた私は、旧街道に点在する宿場町を訪ね歩きたいと考えるようになりました。
この願いは、社会人になってから暫くして後に叶いました。
冒頭に記した通り、東京から長野に拠点を移した私は、新天地での生活に慣れ始めた1995年の春頃から、長野県内に現存している大小様々な旧街道を計画的に巡り歩くことにしたのでした。
もっとも、当時の私は、時間とお金の双方に窮していたことから「長野県内」という縛りを設けることになったわけですが、それが為に、小規模な旧街道にも目を向けることができたのは怪我の功名だったと言えるでしょう。
当時の長野県は、冬期オリンピックの開催が決まっていました。
急激な変貌を強いられるであろう当地の未来に得も言われぬ暗い影を感じていた私は、かつての自分が抱いていた動機に加えて「平成初期の旧街道と宿場町を記録する」ことに意義を見い出していたように思います。
今となっては青臭い話ですが、良き思い出ですね(微笑)。
危険な崖道を走って辿り着いた大平宿(大平街道:建築家の吉田桂二氏が復元・保存に注力した山間の宿場町)や、北国街道から枝分かれした小規模な街道(飯山街道・谷街道・十日町街道・松代街道など)が与えてくれた緊張感や高揚感は、名も無き人々の多様な営みに対する共感と批判をもたらすと同時に、冒険にも似た興奮を与えてくれました。そして、人や物のみならず文化・慣習・技術・意匠といった事物の伝播について学ぶ機会になったと感じています。
※本稿に掲載したモノクロ写真の現像にまつわる顛末は、以下のリンク先にて淡く書き留めてあります。お時間のある方は、お付き合い下さいませ。
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