【あの街 この建物】第三話:街の変遷を語る名も無き建物たち
今回の「あの街 この建物」は、これまで以上にアノニマスな建物について触れていこうと思います。(本稿の写真は、去る記事と同様に、本年2月某日に盛岡市へ出張した折に撮影したものです。)
それでは、昨今話題の盛岡市を舞台にした建物物語にお付き合い下さい。
【お願い】以下に掲載している建物の中には、現行法(建築基準法・条例等)と照合して既存不適格となる場合も想定されますが、本稿はそうした点を論う或いは指摘する目的で記してはおりませんので、心穏やかに観覧して頂ければ幸いです。
街の変遷を語る名も無き建物たち
新陳代謝は、人間の体ばかりではなく、身近な街でも起きています。
とかく、都市の代謝と言えば、道路や給排水といった公共的なインフラのことを思い浮かべてしまいますが、都市の空間を「雨後の筍」の様に埋めている建築物の有様や変遷もまた、目に捉えやすい代謝のバロメーターになっているように思われます。
特に、経済側の要請以外の与件(例えば、火災や倒壊の危険がある空家や悪臭・害獣が懸念されるゴミ屋敷問題)がクローズアップされている昨今、一つの建築物の来し方行く末が地域に与える影響は小さくないと言えるでしょう。
§ 盛岡市中の様子
さて、足繁く訪れている岩手県の盛岡市ですが、こちらも街でも、そこかしこで代謝が進んでいることが窺われます。
ここ10余年に関しては、去る震災の影響もあるとは思いますが、長い間活用されず空き家となっていた古い町屋の多くが解体されていたり、何某かの形で刷新(建て替え・リノベイト)しているようです。
また、昨今のインバウンド機運(「某外国人による紹介」の影響も多少はあるのかな?)が作用しているのでしょうか、盛岡市の素朴な街並みに、首都圏で目にする「洗練された意匠」や「観光客ウケを意識した映え」を匂わせる建物が散見され始めたこともあり、無責任なオブザーバーとしては一抹の悲しさを覚えているところです。
ただ、防災等の観点からみれば、適切な対策を講じることは好ましく、これまで定点観測していた旧家・古家に何らかの手が加えられていることに対しては、建築に携わる人間として安堵を覚えるわけで、この辺のバランス(情緒と職業倫理)に折合いをつけるのもまた散策の肝になっています。
§ 建物の横顔から
都市の代謝という観点で盛岡市中を眺めると「歯抜けになった街並み」が際立って見えてくると同時に、一つの建築物が刷新・解体されることの意義と影響を深く考えさせられる機会を与えられたような気持ちになります。
本稿で取り上げる盛岡八幡宮の界隈(宮古街道沿い)は、街道かつ参道という役割を担っていたため、各地の宿場町と同様に間口が狭く、且つ「鰻の寝床」のように細長い建物が、横並びに密着(長屋の様に)して街並みを形成していたことから、隣家が解体されるとあらば、その両脇(若しくは片側)の建物にまで影響が及びます。
写真を一瞥すると分かる通り、隣家が解体されて露わとなった建物の横面は、コンクリートブロックやモルタル、そしてトタンの波板等を使って塞いでいることが分かるでしょう。
しかも、その壁面には隣家の在りし日の姿を想像させる痕跡が残っています。それらの痕跡は、一つの建物の歴史と言うよりも街全体の履歴や変遷を物語っているように思われてなりません。
この様に、建物が一戸毎に独立しているのではなく、一群として一体的に街並みを形成していた事から、隣家が解体(若しくは建て替え)するとなれば、自身の家でも何某かの手立てが必要となったわけで、「現況の姿」はその顛末(或いは経過)を如実に表していると言ってよいのでしょう。
とにもかくにも、街並み(景観)のみならず、そこに住まう人々の暮らしを円滑に維持することの困難さを痛感させられますね。
§ 寄り道:唐たけし寫場 再び
この出張で、下リンク先の記事にて淡く紹介させて頂いていた唐たけし寫場を訪ねることが叶いました。
現在は、若手の職人が製作した南部鉄器を紹介するカフェ「お茶とてつびん engawa」として絶賛営業中で、このカフェでは南部鉄器で沸かしたお湯を使って珈琲を淹れてくれるのです。
寫場の中は、カフェの機能を優先していることもあり、当時の面影がどの程度残っているのかまでは分かりませんでしたが、和風拵えの客室には床の間や水屋風の設えもあったりと、昭和初期の気配を遺そうとしている心積もりが感じられました。(※当時のスタジオだった2階は見学不可)
珈琲を注文して暫くすると、店員さんが白湯を提供してくれました。南部鉄器で沸かしたお湯をゲストに味わって欲しいという、お店の主旨にアジャストしたサービスで好感を持ちました。
角がとれてまろみを帯びた白湯は、本当に味わい深いものでした。「これを毎日飲んでいたら体調がよくなりそうだなぁ。」と感心しきり。
勿論、所望した「本日のコーヒー」も美味しかったですよ。
§ 壁の復旧に使われたコンクリートブロック
盛岡市で散見される「歯抜けの街並み」において注目したいのがコンクリートブロック(以下、CB)の使われ方です。
※現在は、復旧方法の選択肢が増えていることから、特に一般的な木造建築物の外壁の復旧手段としてCBが採用されることは少ないはず。
推理するまでもなく、この界隈の建築物の多くが木造であったに違いなく(壁は土壁)、隣家の解体に際しては、供用していた壁(隣家と接していた壁)の老朽程度によって復旧方法を選択したはずです。
例えば、柱・梁などの構造材や土壁が比較的健全な状態であれば、トタンやモルタルで塞ぐだけで済んだことでしょう。しかし、隣家と共用していた壁が、隣家の解体に際して健全な状態を保全できる可能性は低いと思われます。いずれにしても、外気に接することになる壁を復旧するとあらば、簡便的な措置では不足したはずです。
ことに北東北に位置する岩手県の冬の寒さは無視できません。また、住家が密集している当該地域においては防火性能も看過でないでしょう。だからといって、隣家に接した壁の復旧だけに大枚を叩くのも辛い話です。
想像してみて下さい。自分の家は直す必要がないのに、隣家が解体するというだけで、自分の家の外壁を修復しなければならないという理不尽を。
そこで採用されたのが「CB」ではなかったかと・・・。
ご存知の通り、CBはコンクリート製(種別によってスペックは異なる)でありながら、比較的軽量な建築資材です。また、素材のコンクリートが防火性を、そして内部の空洞(空気層)が断熱性を担保すると考えられていたこともあって、前出の条件を満たす材料として認識されていたはずです。
更に、サイズが規格化されていて、一つ一つが小さく、狭小な環境かつ臨機応変な加工が求められる現場でも対応しやすかったことから、いわゆる「取り回しが良い材料」として重用されたのだと推測されます。
§ 建築資材としてのコンクリートブロック
CBと言えば、現在では、敷地を囲う塀や小規模な建物(ポンプ小屋や倉庫といった施設に付属する小規模な建造物)、更に土留め等でしか見る機会がありませんが、かつては北海道や沖縄の建築物で活躍した建築資材でもありました。
それは、本州から海を隔てた場所であっても容易に製造できたこと、且つ、技術的・労力的に負担がかからない組積造であること、そして、厳しい気候・環境に対応(断熱性や台風等への対処)するために適した材料として認識されていたからです。
※当時は断熱性能に富んでいると言われていたCBだが、冬期間の結露による凍害が酷いことが判明し、特に寒冷地域においては、断熱性能を動機として使用される機会は減っていった。
余談になりますが、去る震災の折に被害調査で渡った宮城県の離島(ネコ島で知られる網地島・田代島など)においても、取り回しの良いCBは、住家の基礎や外壁に多く用いられていました。
それは、資材の搬入に小型船舶を使うことが必須だった離島にあって、長尺な材料と重い材料を運搬することが困難(費用の問題だけではない)だったからに他なりません。
※建物の腰壁(都合4〜7段程度)までがCB造で、その上から短い柱を軸組みとして建てられていることが非常に多かった。これも資材の搬入が困難であった離島ならではの工夫だと言える。
§ コンクリートブロック そして 組積造 への想い
今となっては、活躍の舞台が限られてきた感のあるCB。
CBが登場した明治中期から120余年を経る中で発生した地震や悲しい人心事故などを受けて、ブロックの種別による使用範囲が決められ、積み上げ高さや鉄筋の使用、控え壁の施工といった法整備が成されてきました。
こうした変遷を正大に捉えつつも、建築に長らく携わってきた人間としては、組積造という建築技術が適切に継承されていくことを強く望んでいます。
小さな材料を組積することで大きな構造物を構築させる技術は、今なお世界各国に現存する建築(土木)技術でもあります。材料が石であれ、レンガであれ、CBであれ、精度と強度を担保して組積する技術は、一見すると原始的に見えてしまいますが、一朝一夕で獲得できるものではありません。
これから更に進化を遂げるであろう組積造に期待を寄せています。
おまけ:宮古街道沿いの味わい深い建物たち
宮古街道の界隈には、思わず笑みがこぼれてしまうような、郷愁を誘われてしまうような建物が沢山あります。
その一部を、グリコのオマケよろしく少しだけご紹介させて頂きます。
私の中に残っている「宮古街道界隈の風景」の一番古い記憶は、高校三年生の時分になります。
当時、父が盛岡市に単身赴任しており、高校を卒業する春休み期間に、父の暮らすマンション(開運橋の傍)を根城にして自動車教習所に通っていました。(※在学中の免許取得は厳禁だった(笑)。)
その1ヵ月間は、本当に自由気ままで楽しかったと記憶しています。日々の合間を縫って、市内各所・名所旧跡を巡り歩きました。
この大石たばこ店さんも、当時は営業していましたっけ。こういう店構えは、建築模型で作りたくなりますね(笑)。
こちらの陽月菓子店さんも、大分年季が入りましたが、私が高校生の時分も老舗オーラ全開で営業されていました。ちなみに、看板商品の「ぶぢょうほ まんじゅう」は癖になる味わいです(笑)。
そして最後は、趣ではなく可笑しみという点で、某書店さんを御紹介させて頂きましょう。(noterさん達は本がお好きですしね。)
この書店は、宮古街道の南町通り1丁目交差点の角にあります。通りに広く面していることもあって「本屋の主張」が凄いですよね(笑)。
ところが、脇にまわるとびっくり。
昔で言えば一間間口(1820㎜)に等しいほどの薄さ。まぁ、それは大げさですが、壁の芯々寸法で凡そ2m余りの奥行ですから、なかなかのものです。
もっとも、ワイドな開口部から見える本棚の様子から「もしかして?」とは薄っすら感じておりましたが、実際に懐の無さを体感すると、これでなかなか面白いものです(笑)。
首都圏と異なり、地方はゆとりがあると思われがちですが、その時々に応じた都市計画(主に道路インフラの刷新)の変遷に伴い、歪な土地や空間が生まれているのも事実で、そうした隙間にこそ、人間の執着や飽くなき創意工夫が捻じ込まれているので、曰く難い可笑しみを感じているところです。
雑感
代謝と言えば、私の生業でもある建築の世界では、1960年代に「メタボリズム理論」が提唱されたことがありました。
この理論の象徴にもなっていた中銀カプセルタワービルは、2022年に解体されました。然らば、メタボリズムの最終形をものの見事に体現したとも言えるでしょう。(皮肉に聞こえたら御免なさい。)
因みに、本稿で紹介した盛岡市にも、メタボリズム理論を提唱したメンバーであった菊竹清訓が設計した「旧・岩手県立図書館」があります。この建物は、幸いなことに解体の憂き目を回避し、今もなお「もりおか歴史文化館」として役割を全うしています。
たった二つの例を並べただけでも、建築物や築造物の多くが、その規模・構造・役割・利用のされ方等の異なりによって生じる老朽劣化の程度のみならず、経済側の要請によっても寿命(供用期間)に差が生じてしまうという現実を内包していることが分かろうものです。
そう考えると、建築物なんてぇのは、実に儚い存在だと・・・。
メタボリズム・・・それは反射的に格好良く聞こえてしまう横文字ではあるけれど、日本人の私には「諸行無常」や「万物流転」といった言葉の方が、実はしっくりくると言うのが本当のところだったり。
「人間が関わった事物の移ろいやすさ」は、メタボリズムという横文字では表現しきれていないと感じている伝吉小父でした。
さても、さても、長くなってしまいましたね。
この辺で、キーボードを叩くのを止めておきましょう。
それでは、最後までご一読賜り、有難うございました。