屯田兵の血が騒ぎ、未開の砂漠を開拓したら案の定脱水で死にかけた話~中東クリエイティブ業界開拓記 1~
僕の曽祖父は屯田兵だ。
石川県から出てきて、未開の地 蝦夷 を開拓して移り住んだ。
自分にどうも周りと逆行する癖があると思ったらそういう事だった(知らんけど)。
当時スタイリストだった僕は、日本でのキャリアに行き詰まりを感じ海外に新たな活動の場を求めた。
東京での戦いから逃げただけだろ、という生存者バイアス(その場で戦い続けたから勝てたという主張)という漬けダレにどっぷり漬け込まれた成功者がいると思うが、全くその通りである(ドヤ)。
今後、自分の進む道で行き詰まる若者がいたら"逃げるのも戦略だ"と堂々と選択肢を提示できる様なジジイになりたい(今の所説得力がない)。
話を戻す。
クリエイターの海外挑戦(留学含む)の王道は、やはりパリ、ロンドン、そしてNYだ。
そしてそこには世界の頂上決戦に敗れた日本人アーティストの無数の屍と、その中で今も必死にもがく数多くの挑戦者達がいる。
先に言っておくと、僕は彼らを心の底から尊敬している。
無謀だと解っていながら果敢に挑戦し、例えひっそりと散ったとしてもやらないで後悔するよりは清々しいだろう。
ただ僕にはそれは出来なかった。
当時既に30を超えていて(歳は関係ないよ!というのは聞き飽きた)、貯金も無かったので、日本食レストランで10年バイトをしながら、同じ境遇にある周りのアーティストと切磋琢磨しながらアメリカンドリームを目指すという選択肢は無かった。
"そもそも貯金も無いのに海外に渡るなよ"と怒られそうだし、結論から言うとそれは正解なのだが、当時の僕はそんな事も関係ないぐらい追い込まれていた。
ありがたい事に日本で仕事は普通にもらっていたが、入ってきたお金を作品に投じる事をひたすら繰り返しても突き抜ける事はなく、じりじりと擦り減っていく人生にただただ焦り、それが限界に達したのだ。
とにかく、新天地を求めていたがそこではすぐに食えなきゃいけなかった。
今は血で血を洗うレッドオーシャンでの戦いを避けなければいけないという生存本能と、何より誰も踏み入れたことのない地を開拓したいという屯田兵の子孫としての欲求により、僕は海を渡った。
アラビア砂漠の上の方、ペルシャ湾の下の方、砂漠にそびえる蜃気楼、そうアラブ首長国連邦、ドバイを目指した。
*写真は "北に行けばこんな山岳地帯もあるよ" より。
中東版Esquireの撮影時のもの。
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