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ドイツ語と日本語の間で 番外編 〜Hochdeutschという呼び方〜

またも久しぶりにnoteを書くこととなりました。今日は日常の話、というよりはドイツ語の中で使われるHochdeutschという語について、ドイツ語言語学に関わる者として少しお話をしていきたいと思います。

そもそもなぜ突然こんな話をするかというと、とあるドイツ語学習者の方で、ドイツ語学習をされる方々の中ではそれなりに影響力がある方が発信しているYouTubeの動画の中に、これに関して誤った情報があったため、このまま間違った情報が出てしまうのは良くないのかな、という思いがあったためです。そしてこの間違った理解は、そもそも"Hochdeutsch"というタームや、"hoch", "nieder"というような表現を解釈する時に発生する誤解に由来するのではないかと考えたためです。

該当の動画については、公開にはなっており、本来は出典などを明記するものなのだと思いますが、私としては動画そのものを批判したいわけではないので、ここではリンクを載せたり名指しをせずに進めたいと思います。発信された方は一般の方ですし、何か不利益が発生するということもあるべきではないと思いますので、こちらを予めご了承いただければと思います。

また、本文中では「方言」という表現を何回かすることがありますが、これは一般に広まっている用語を使うという意味合いのみを含んでおります。筆者は「方言」ということばが持つネガティブな意味についても承知しており、このタームは基本的には私自身が専門の話をする際には使わないのですが、今回この語が使われていても、その言語変種について下に見たり蔑むような意図は一切ございません。

まず、実際に動画内での発言を確認するまでは、とりあえずの注意書き程度にツイートをしました。

その動画の中では「標準ドイツ語」という意味合いで最初"Hochdeutsch"というタームが使われた、と、思いきや、その後「高地ドイツ語と言われるものですが」ということで方言学の中でよく使用される用語が取り上げられ、また続けて「高地ドイツ語がよく話されるのは、その名前通り(…)ドイツの北の(…)ちょっと西の方、ブレーメンとかミュンスターとか、その辺りで話されているものがHochdeutschで、私たちはHochdeutschを学ぶわけですが」と述べられていました。

ドイツ語を専門にする者としてこれはちょっと聞き捨てならない、ということで上記のようなツイートをとりあえずしたのですが、この動画内でなされた記述の訂正をしつつ、それではどこが間違っているのか、なぜこういった誤解が生まれるのか、高地ドイツ語とはなんなのか、なぜHochdeutsch=標準ドイツ語という解釈がなされるようになったのか、というようなことを今日はテーマにしたいと思います。

高地ドイツ語と標準ドイツ語

そもそも話を始める前に「高地ドイツ語」とは、そして「標準ドイツ語」とは、ということを見ていきたいと思います。

先に述べたようにHochdeutschという語がドイツ語話者の中で使われるときは一般的に「標準ドイツ語」という理解がなされると言っても良いでしょう。これをよく示しているのが、1999年から2021年までバーデン=ヴュルテンベルク州が使用していた、かの有名なスローガン "Wir können alles. Außer Hochdeutsch."(「私たちはなんでもできる。標準ドイツ語以外は。」ー訳出:筆者)でしょう。バーデン=ヴュルテンベルク州はシュヴァーベン方言というドイツ語の一変種でドイツを代表する方言の一つが話される地域を包括しています。この表現はある種の自虐を含むようなスローガンであり、標準ドイツ語に対しシュヴァーベン方言が劣っているかのような表現なので、私自身は嫌いですし問題視しているものですが、とにかくここでいうHochdeutschというのは標準ドイツ語のことを指しているわけです。

私たちが学ぶのは確かにドイツ語の標準変種としてのHochdeutschなのですが、この文脈でのHochdeutschに「高地ドイツ語」という日本語の用語は基本的には用いられません。なぜかと言うと、高地ドイツ語だと別の文脈で使われるHochdeutschが想起されるためです。その文脈はというとドイツ語方言学で、この中で高地ドイツ語という表現は使用されます。

ドイツ語方言学の中でのHochdeutsch

それではドイツ語方言学の中でのHochdeutsch(日本語で高地ドイツ語)とは一体なんなのでしょうか?これをはっきりとさせると、先に動画の中で言われていたことに間違った情報が含まれていることもわかります。

ドイツ語方言学の中でのHochdeutschには高地ドイツ語という日本語が当てられていますが、これと対比で使われるのが低地ドイツ語(Niederdeutsch, Plattdeutsch)になります。高地ドイツ語と低地ドイツ語の違いは、少し専門的な話になるのですが、「第二次子音推移が完全もしくは部分的に起こっているか否か」ということになります。第二次子音推移が起こっているドイツ語をまとめて高地ドイツ語、この音韻推移が見られないドイツ語を低地ドイツ語と呼びます。

第二次子音推移というのは、紀元後500年ごろからアルプス地方で始まり、徐々に北へと広まっていったと考えられる音韻推移のことで、具体的にはゲルマン語の/p/, /t/, /k/, /d/といった音韻が変化しました。ただし、これは全域に広まったわけではなく、現在のデュッセルドルフのベンラートの辺りより上の方で話されるドイツ語はこの音韻推移を経験していません。

これについて、Astrid Stedje (2007): "Deutsche Sprache gestern und heute. Einführung in Sprachgeschichte und Sprachkunde"の中で以下のような記述がなされています。

Dieser Lautwandel sondert die süd- und mitteldeutschen Mundarten, zusammenfassend Hochdeutsch genannt, als selbständige Sprache vom Englischen, Nordischen, Friesischen, Niederländischen und Niederdeutschen ab.

Stedje (2007: 75)

ここでは第二次子音推移を経験していない他のゲルマン語として低地ドイツ語の他に、英語、北海ゲルマン語(デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、アイスランド語)、フリジア語、オランダ語が挙げられています。また高地ドイツ語としてのHochdeutschにまとめられるドイツ語変種として「南部・中部ドイツ方言」が挙げられています。

ということは、高地ドイツ語が話される地域というのは、先の動画の発言内の「その名前通り」ドイツの地図でいうと上の方、ではなく、むしろ下の方になるということになります。

現在私たちが学ぶ標準ドイツ語はこの「第二次子音推移を経験した」音韻が採用されているドイツ語であり、これも標準ドイツ語=Hochdeutschと呼ばれる理由の一つであると思われます。では、この第二次子音推移とはなんなのか、具体的に英語とオランダ語と低地ドイツ語と比較する形で例を挙げてみたいと思います(ただし低地ドイツ語の方は書き方にバリエーションがあるので、一つを選びました)。

p > [pf] または [f]

Hochdeutsch: Pfeffer
Englisch: pepper
Niederländisch: peper
Plattdeutsch: Peper

Hochdeutsch: Schaf
Englisch: sheep
Niederländisch: schaap
Plattdeutsch: Schaap

t > [ts] または [s]

Hochdeutsch: Zunge
Englisch: tongue
Niederländisch: tong
Plattdeutsch: Tung

Hochdeutsch: Wasser
Englisch: water
Niederländisch: water
Plattdeutsch: Water

k > [kx] または [x]

[kx]は方言の中でのみ見られる音韻であり、規範変種とされる現代標準ドイツ語の中にはありません。

Hochdeutsch: Buch
Englisch: book
Niederländisch: boek
Plattdeutsch: Book

Hochdeutsch: suchen
Englisch: seek
Niederländisch: zoeken
Plattdeutsch: söken

d > [t]

Hochdeutsch: Tochter
Englisch: daughter
Niederländisch: dochter
Plattdeutsch: Dochter

Hochdeutsch: leiten
Englisch: lead
Niederländisch: leiden
Plattdeutsch: ledden

「高地」と「低地」のここでの意味

「高地というんだから地図で言ったら上の方、低地だから下の方」という解釈は、実は起こりやすい誤解だと思います。高い・低いというのが物理的に上と下と連想されてしまうということだと思います。でも高地・低地というのも、地図を見るときに「地理的に高い・低いってことなのかな?」という風に理解することもできるかと思います。つまり、この低地ドイツ語・高地ドイツ語の低地・高地には海抜が低い・高いということが関係しています。

そもそもHochdeutschがなぜ「標準ドイツ語」と理解されるようになったのか

もともとは第二次子音推移を経験したドイツ語変種を総称してHochdeutschという風に呼んでいたのが、なぜ現代では「標準ドイツ語」という意味を含むようになったかを知ろうとすると、簡単に言ってしまうと「学校教育などで使われる規範化された言語のことをHochspracheと呼ぶ」というのに由来します。でもこれで終わってしまうのは勿体無いので、そもそもじゃあなんでドイツ語では、Hochspracheが標準化された言語を意味するのか、ということを考えたいと思います。

標準ドイツ語というのは、その名の通り「標準化されたドイツ語」ということですが、歴史上のある時点まで現在のような一つの規範を持つ標準ドイツ語というものはありませんでした。元々ドイツは今のように一つの国としてまとまっていたわけではなかったことは、ヨーロッパの歴史を学んだことがあるという人はご存知かと思います。言語にも方言差があり、また今のように規範化された書き言葉というものもある時点まではありませんでした。そもそも標準化された言語というのは書き言葉を整備することに関連するのですが、ドイツ語で「統一された書き言葉を整備し、標準的なドイツ語を広めよう」というような流れが出てきたのは、ルターが16世紀に聖書をドイツ語訳したときが初めてでした。それまでに書かれたものは同じ物語をとっても、音韻体系や書記体系が異なっていました。書き言葉を統一して標準的なドイツ語を整備しよう、というのは、実はルターの後にスムーズに進んだわけではありませんでした。これは現在のようにドイツという一つの国民国家がなかったことに起因すると言われています。これについてJörg Riecke (2016): "Geschichte der deutschen Sprache. Eine Einführung." では以下のように述べられています。

Es wäre folglich ein Irrtum, wollte man Luther allein das Verdienst zuschreiben, die Regeln der deutschen Schriftsprache geschaffen zu haben. Dafür sind mehrere Gründe ausschlaggebend: Zu Luthers Lebzeiten befand sich in sprachlicher Hinsicht noch alles im Fluss, weder die Laute und ihre Verschriftlichung noch die grammatischen Formen, der Wortschatz und die syntaktischen Regeln waren eindeutig festgelegt. Die Standardisierung der deutschen Schriftsprache, die im 16. Jahrhundert im Umkreis von Luthers Bibelübersetzung begonnen hatte, wurde im 17. Jahrhundert nicht zuletzt auf Grund des Fehlens eines nationalstaatlichen Rahmens und des begrenzten politischen und wirtschaftlichen Aufstiegs des für volkssprachige Entwicklung maßgeblichen Bürgertums zunächst nicht fortgesetzt.

Riecke (2016: 129)

ドイツ語を音韻や語彙、文法や書記法において標準・規範化する動きが大きくなり実際に活発に行われたのは、18世紀になってからでした。これについて荻野蔵平(2007)「標準ドイツ語(Hochdeutsch)成立過程の特異性について」(注:リンクは直接PDFダウンロードにつながっています)を参照したいと思います。同氏は標準ドイツ語としてのHochdeutschが成立した背景について以下のように述べます。

新高ドイツ語は、(…)もっぱら書き言葉のレベルで成立した。(…)(新高ドイツ語は)既に存在するなんらかの統一的な変種に他の変種が統合されるような形式ではなく、複数の変種がやがて一つの有力な変種に収束(Konvergenz)される形で形成されていった。本来Hochdeutschは、「高地ドイツ語」を表わす方言地理的な概念であったが、例えばルタードイツ語、東中部ドイツ語(Ostmitteldeutsch)、共通ドイツ語(gemein deutsch)、上部ザクセン語(Obersächsisch)などの超地域的な文章語と同一視された後、18世紀になると特定の人物・地域に限定されない、たとえばりっぱな作家や知識人が用いる「模範的で上品な書き言葉」を意味するようになった。

荻野(2007: 102)

荻野氏の最後に述べる「りっぱな作家や知識人が用いる『模範的で上品な書き言葉』」という一種の社会的階層が高い人たちが話す言語が標準Hochspracheと呼ばれるようになったのは偶然ではないでしょう。

また、少し古い本ですが、ヨアヒム・シルト著、橘好碩訳の『ドイツ語の歴史』(原著は1991年、訳書は1999年出版)の中では、14〜15世紀に「官庁と上流階級の人々が高地ドイツ語を使用するようになった」(114ページ)と述べられていますが、この記述の中では高地ドイツ語としてのHochdeutschという理解が前提となっている一方で荻野氏の指摘する社会言語学的な意味でのHochdeutschの片鱗も見ることができます。

「ハノーファーで標準ドイツ語が話される」という話について

ドイツ語を勉強している人やドイツに住んでいる人は、こんな話を聞いたことがあるかもしれません。

「標準ドイツ語はハノーファーで話されている。」

しかし荻原氏も指摘しているように、標準ドイツ語は特定の人物や地域に限定されるものではなく、また人工的に整備された変種であり、学校教育や言語教育の中で教えられる標準ドイツ語を全くその通りに母語として話す人というのはいないといっても過言ではないと思います。というのも母語話者であるなしに限らず、学校文法通りの文法やDudenなどで表記される発音通りのドイツ語をそのままで話す人というのはいないと言えるからです。これに関連してDeutschlandfunk Novaの記事の中で、ハノーファーの都市言語(都市変種)の研究をするグループを指揮する研究者François Conrad氏は「純粋な標準ドイツ語というのは存在しない」と語っており、それゆえ「ハノーファーの人たちがみんな純粋な標準ドイツ語を話しているとは言えないだろう」と言っています。記事の中ではKäseという単語の発音が例として挙げられていますが、äの箇所が"ee"と発音される例がハノーファーで見られることが指摘されています。ただし、他の方言地域の人たちが話すドイツ語と比べたら標準ドイツ語に近いドイツ語が話されているということが言えるのだろうということでした。要は程度の話なんですね。

まとめ

この記事では、とある動画内での間違った情報を起点とし、Hochdeutschというタームとその訳語・理解をめぐる問題点や起こりやすい誤解を指摘した上で、ドイツ語史ならびにドイツ語方言学上でのHochdeutsch(高地ドイツ語)と現在一般に言われる標準ドイツ語という意味合いでのHochdeutschの成り立ちについて見ていきました。もっともっと細かく見ていくとドイツ語の歴史や人々の言語使用に関する歴史、社会言語学などの様々な分野に触れていかないといけなくなるのですが、これをきっかけに語学としてのドイツ語だけではなく、ドイツ語の後ろに隠れたロマンや物語をついて皆様に興味を持っていただければ良いなと思います。最後に動画の発言を訂正するとすると、方言学上一般に使われる意味での「高地ドイツ語」はミュンスターやブレーメンで話されているとは言えません。

参考文献

  • Riecke, Jörg (2016): "Geschichte der deutschen Sprache. Eine Einführung." Reclam. Stuttgart.

  • Stedje, Astrid (2007): "Deutsche Sprache gestern und heute. Einführung in Sprachgeschichte und Sprachkunde." 6. Auflage. Wilhelm Fink. Paderborn.

  • 荻野蔵平「標準ドイツ語(Hochdeutsch)成立過程の特異性について」、2007年、雑誌『国際化時代の異文化受容』95-106

  • ヨアヒム・シルト著、橘好碩訳『図説 ドイツ語の歴史』、1999年、大修館書店、東京

  • "Sprachentwicklung: Warum wir denken, dass das beste Hochdeutsch aus Hannover kommt", Deutschlandfunk Nova, Beitrag aus dem Archiv vom 24. März 2021
    (https://www.deutschlandfunknova.de/beitrag/sprachentwicklung-warum-wir-denken-dass-das-beste-hochdeutsch-aus-hannover-kommt), letzter Zugriff: 15. Februar 2023.

  • Hansen, Peter: Digitales niederdeutsche Literatur-Wörterbuch (dwn), https://www.niederdeutsche-literatur.de/dwn/index.php, letzter Zugriff: 15. Februar 2023.

*表紙の画像はcolormusicaさんよりお借りしました。ありがとうございます!

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