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言葉はこうして死んでいく(瀕死の働き方改革に2.0をつけるのか?)


言葉に命はあるのだろうか

先日、「鎮魂の、面接2.0」という記事を書いた。
公開から2日で約20,000人の方に届けることができた。

「2.0」という呪文は便利だった。多くの人が関心を持ってくれるきっかけになったと思う。

「鎮魂の、面接2.0」を書いた理由は明確で。内容を一人でも多くの人に届け、失われるはずの命を救いたかったから。


しかし、今、なぜか罪の意識に苛まれている。


「2.0という言葉を使ってしまった。」


だから、自戒と内省、そして弁明のために、少し抽象的ではあるが、このアンサーソングを書くことを決めた。

問いは一つ。


僕らが2.0という呪文を使うとき、その言葉の命を考えているか?


この問いを、今こそ世にぶん投げたいと思う。



言葉の死について考えることがあったので、ここに書き記しておこうと思う。言葉の命について、たまにはゆっくり考えてみたい。

言葉ってのは、ある事象の解釈をあわせるためのツールだ。

鼻の長い動物を、僕らは象という言葉を使い、英語圏の方々はエレファントという言葉を使う。あの灰色の訳のわからん動物が、目の前にいなくても象について話ができるのだ。

そういう意味では、お金と同じ。お金が価値を具現化して定量的に測るためのツールだとしたら、言葉は個体や事象を言語化し解釈をあわせるためのツール。

そしてそこに、2人以上の人間がいるときに初めて機能する。そして、言葉はきっと「この2人が交わした約束」だと思うのだ。

なんでこんなことを書こうと思ったか

最近、言葉が死んでいくのを目の当たりにすることが多い。

言葉のファストファッション化とともに、バズワードが増えている。かつて丁寧に作られた言葉は、今はファストファッションのように、大量生産されては浪費されて捨てられていく。


生まれて、燃えて、死んでいく。


僕は言葉が好きだから、言葉が死んでいくのを見ると辛い。

例えば、今、完全に瀕死の言葉がある。


働き方改革

当初の解釈は、生産的な仕事にフォーカスしてリソースを集中し、個の能力を活かし組織を活性化する。みんなハッピーになる構想をあらわす、大事な言葉だった。

でも、今は働き方改革という言葉から、人々は暗い顔で早く帰るということを想起する。カフェで残業する人、板挟みに合う人、土日に持ち帰る人。フラリーマンという言葉も生まれた。

この働き方改革という言葉の死因は、ゆとり教育のそれと同じで、フェーズ1とフェーズ2に対する、マイルストーンのコンセンサスと期待値調整がうまくいってなかったからなんだ。

ゆとり教育も、本来すごく価値のある崇高な構想だった。まず、従来の詰め込み型教育を最低限に抑え、クリエイティブな「学習体験」をデザインする。この「クリエイティブな学習体験をデザイン」することに失敗した。

理由は簡単。まず、そもそもその情景を、ゆとり教育という言葉を通してイメージできていなかったから。

働き方改革も同じ。まず、非生産的な業務を最低限に抑え、、ここで死んだ。

理由は、書くまでもない。

働き方改革という言葉は、もうすぐ死ぬ。

そろそろお別れを言わないといけない。

僕は、密かに、働き方改革の後に、おきまりのあれが付着することを恐れている。


魔法の呪文


最近は魔法の呪文がある。


〇〇2.0


言葉をアップデートするための簡単な呪文だ。

これは便利な反面、多用しすぎると信頼を失う、劇薬のようなものだ。

というのも、言葉がアップデートされるときの背景は大きく二種類あると考えている。

ひとつは、時代に言葉の元々の解釈がついていけなくなり、明確なビジョンのもとに言葉の意味をデモクラティックに再定義する場合。

もうひとつは、言葉をワンウェイで流通させ解釈の摩擦が起きたままに、作者もしくは周囲が、短絡的にそれを殺す場合。

アップデートの背景には、しばしば後者の影があることを忘れてはならない。

2.0という言葉は、便利だ。ひとことでいうと、「やり直します!」だ。

ただ、同時に、「1.0が当初の約束を守れませんでした」という、敗北宣言と一体なんだと思う。

仮に、ビンラディンがビンラディン2.0を名乗ってもテロの被害者はビンラディン2.0を許さないし、飛行機にも乗れない。仮に山口メンバーが、山口2.0を名乗っても、女子高生は山口2.0には近づかないしZipには出られない。

だから、何でもかんでも、数字つけてアップデートしたらいいってもんじゃないと思っている。きっと、本質的には、解釈をあわせるためのポジティブな時間と対話の積み重ねが必要なんだと思う。それが、多くの場合なされていない。

ほとんどの場合、言葉は一方的に生産され、一方的にアップデートされる。そして、束の間の脚光を浴びては、ボロボロの死体になっていく。


言葉はこうして死んでいく。


他方、お尻に数字をつけずにずっと残っている言葉は美しい。
それは、生まれたときの約束を守り続けていて、
それは、時代が変わっても普遍的な解釈が純度をもって浸透している。

ひとつひとつの言葉の命を大切にしたい。


そうは、思わないだろうか。


繰り返しにはなるが、2.0という言葉はあまりにも便利だった。事実、たくさんの方とのピュアな出会いも生まれた。きっと、失われるはずの命もひとつは救えた。そう信じたい。

ただ、味をしめて、生半可な気持ちで言葉の命を奪わないように、自戒を込めてここに書いておこうと思うのだ。


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キャリアや組織、教育について、いろいろ書いてます。ご興味ある方は是非御覧ください。

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