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ウエメセとヨコメセ

ネットで嫌われるタイプ

ネットは人びとのあいだのコミュニケーションを密にしたから、新語が次から次へと生まれてくる。そのまま廃れるものも多いだろうが、いくつかは定着して広く長く愛用されるものになる。そうして定着したことばの多くは、やはり「うまいこと言いやがったな」と感心させられるものが多い。個人ではなく群の創造性を考える一例として、たいへん面白い。

最近はこのネット・スラングみたいなものが流行語から常用語に昇格して、ネット外でも当たり前のことばのようにして使われる。流行に疎い自分などは、たぶんそのごく一部しか知らない。でも、そのなかでも特に気になってる言葉がふたつある。一つは「逆張り」だが、もうひとつは「ウエメセ」。今回はの話はこの「ウエメセ」について。

説明は不要かと思うが、「上から目線」を四文字の片仮名にしたもので、人を見くだしたような態度で接することを謂う。こんなことばが定着したからには、多くの人がその便利を感じているはずである。とくにこの場合は、ある種の行為の性質とか人の態度に関して、多くの人が共有している否定的な感情を、ハンディかつ直観的に言い表すのに便利だということであろうかと思う。ウエメセと聞いただけで、「ああ、あのことね」と誰でもピンとくる。それくらいありふれた経験になってる。

広く使われてるだけに、自分なんかも、何度か「ウエメセ」の告発を受けた。そうだったかなと反省してなるべく気を付けるようにしているが、今でも疑いは完全には晴れていないんじゃないかと思う。つまり、自分などは「ウエメセ」で「逆張り」をする、ネット世界で万人に嫌われるタイプの人間であるかもしれない。そんなことはぜったいにないと断言する自信もないから、まったくの濡れ衣であるとも言えない。それが、この二つのことばの流行を無視しえない理由である。

つまり、少しは罪の意識がある。だが、そうは言っても、便利なことばだけあって、これをやたらになんにでも貼り付ける人たちもいる。気に入らない人にこれを貼り付けると、もう「論破」したことになるらしいから、便利な魔除けのお札みたいなものだ。そんなものまで真に受けて遠慮したら、あんまり不自由で口がきけなくなる。

背伸びのしあい

実際のところ、自分が初めて「ウエメセ」と面と向かって告発されたのは、やたらに高飛車な人とやりとりしてた時だった。あまりに人を見下すので、こっちも負けないように一生懸命背伸びして、同じ目の高さに立とうとしてた。そのときに「ウエメセ」ということばを頂戴したのである。であるから、どうも二人のあいだには認識のずれがあった。どっちも自分の方が見下されてる方だと思って、背伸びしようとしてたらしいのである。それが互いの目には「ウエメセ」に見えた。

この場合などは、告発された方が「ウエメセ」なのではなくて、「ウエメセ」を告発した方が、実はみずからの不利をみずから認めただけで、どっちにも上から目線は存在してなかったということになる。二人がともに求めていたのは、「横から目線(略してヨコメセ)」であった。

上下というのは相対的な対概念であるから、こんな誤解も生じる。相手は上だと思ってなくても、自分が下だと思えば、ウエメセを感じてしまう道理である。最近、ウエメセに過敏な人たちが増えたのも、高飛車な人が増えたばかりでなく、自信がないのに背伸びする必要が増えたからでもあろうと思う。

こんな誤解を避けるためには、はじめから自分は「ヨコメセ」だよという信号を発しながら会話をすればいい。だが、それはどのような信号であるか。

ヨコメセだから、それは平等な立場の人のあいだでとられるべき態度である。通常(とくに日本の通常)では、相手を否定しないとか、相手を見てわかりやすいように話す、なんてことが思い浮かぶ。だが、これが本当にヨコメセであるのか? ややこしいのは、必ずしもそうではないと思える理由があることである。

ヨコメセ=やさしい目線?

これはまだ「ウエメセ」なんてことばが流行る前の話だが、仕事の関係で、テレビ番組制作をしてる人たちの海外取材に協力したことがある。そのときに、いわゆる「やらせ」みたいなことを平気でやっているのを知って文句を言ったら、「視聴者はこの方が喜ぶんですよ」という返事が返ってきた。つまり、視聴者のレベルにまで降りてあげてる。だが、自分はそこに「ヨコメセ」より「ウエメセ」を感じた(そういうことばはまだなかったから、「人をバカにしてらあ」というようなことばでこれを表した)。

「わかりやすさ」を売りにする最近の書物などにも、この「ウエメセ」を感じる。「あなたがたはこれだけわかれば十分で、これ以上わかる必要はないですよ」というような態度が、どうもひとを見下しているような気がする。そういう文章を制作するライターや編集者とも接したことがあるのだが、「一般の人にはこれがちょうどで、これ以上言ってもわからんですよ」というぼやきみたいのを耳にしたこともある。

むろん、番組制作者やライター・編集者だって、長年の経験からそういう結論に達したのであって、そうでなければもうとっくに廃業に追い込まれてる。プロとしてぎりぎりのところで妥協してるわけだから、そんな仕事は要らないというのでなければ、一概に非難もできない。だが、「ウエメセ」という告発だけは当てはまるんではないかと思う。

自分などが「ヨコメセ」で最初に思いつくのは、そういう変に親切な人たちではなくて、親しい友である。友人が友人に話しかけるときに、遠慮したり、容赦したりしない。そんなことをしたら水臭い。気遣いがないわけではないが、自分にわかることくらい友にもわかると想定してる。もちろん、それでもわかってもらえないことがたくさんあるんだが、わからないだろうという前提からは出発しないだから、わかってもらうために全力を尽くす

「やさしい」という日本語には、「簡単である」と「厳しくない」というふたつの意味がある。一般的には、ヨコメセはそういうふたつの意味での「やさしさ」に結びつけられる。自分を傷つけない、そして自分に余計な苦労をかけさせないように気遣ってくれるようなものが、「ヨコメセ」である。だが、やさしいものは、必ずしもヨコメセではない。慈悲は上から下に垂らされるものである。

ネットにおける平等主義

だから、先生が生徒に話すときなどに、「ヨコメセ」でやられたらたまらないはずである。知る者が知らない者に何かを教えるときには、やはり「ウエメセ」でやってもらわなければ困る。上にいる人に自分たちのレベルまで降りてきてもらうわけだが、自分たちと同じになってもらっては困る。だから、難しい話に慣れた人が、わざわざ「わかりやすい」本を書く必要が生じる。つまり、「ウエメセ」でやってもらわないと困るばあいもあるし、ひとびともそう期待してる。

そういう話になるのかと思うのだが、SNS でのやり取りでは、これがあてはまらないばあいが多い。というのも、SNS のかなり部分は、リアルな世界でものをいう年齢とか肩書などに基く社会的な序列や位階が捨象された、平等な人格としてのつき合いである。あらゆるエライ「先生」がたも、ネット世界では一人の人間にしかすぎない。そういうラディカルな平等主義がある。

「ウエメセ」がこれだけ普及した背景には、おそらくこのネット平等主義がある。誰でも平等であるべきネット社会においては、ネット外の権威を持ちこむことが忌まれる。学歴や財産や社会的名声があろうがなかろうが、一人の人間の意見の重さはみな同じであって、あとは数の問題である。多くの人の賛同を得た意見がエライ。外的な権威に寄り掛かからずに、意見そのものの内容で判断されるわけだから、より合理的である。むろん、それはあくまでも理想であって、実際は、ネット社会でもリアルな社会の権威が物をいうばあいも多い。だが、そういうラディカルな民主主義の可能性が、ネット社会にはある。

原理的には、自由民主主義の公共圏は、そういう場であるべきである。そこでは生物学的・社会経済的な差異と意見は切り離される。ただ、一個の独立した人格として、「ヨコメセ」で意見を交換し、相互批判に従事することができる。社会的にエライ人に気を遣って、言いたいことを我慢する必要はないのである。

であるから、「ウエメセ」批判はさらにラディカルな民主主義を求める声でもあり、その点では評価できる。ただ、「自分を額面通りに受け入れない奴はみんなウエメセだ」みたいな形で濫用されることが多くなると、かえって自由な意見交換が妨げられることだけは、この新語の弊害であるかと思う。

偶然による差異を捨象する公共圏の特性が、実際の自分以上によく見せたいという願望を刺激するから、かえって他人のウエメセに過敏になってしまう、という一面もあろうと思う。経験的に言っても、ウエメセをやたらに感じとるひとは、ちょっと無理してそうな人が多い。どうも、ネット公共圏は、そういう人を増やした功罪がある。

誰にでも多かれ少なかれそういう弱みがあるから、自信のなさそうな人をなるべく脅かさないように、「ウエメセ」と思われそうなことはやらないように気を遣うことは公共の利益にかなう。だが、それは、その人の言うことをなんでも真に受けるということとはちがうと思う。とくに、他人に向けられる前に自分に向けられなかったようなウエメセ批判は、無視するとまではいかなくても、相当割引して聞いておいても、平等に背を向けたことにはならんかと思う。

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。