エジプトのサムライ
過去と現在が同時にあること
サムライとスフィンクスは会ったことがある。合成写真じゃない。幕末にヨーロッパに派遣された使節団が帰路にエジプトに立ち寄った際に撮った記念写真である。歴史を知っていればスフィンクスをサムライたちが見物するのは不可能ではないのだが、ちょっと見には時間や空間が錯綜したような感覚を覚える。
ちぐはぐに感じるのは、別の空間や時間に属しているはずのものが、同時に同じ時間・空間にあるからである。日本人がエジプトで観光していてもいいのであるが、それは笠をかぶったサムライではなく、カメラを下げてカジュアルな洋服を着た観光客姿でなくてはならない。
でも、「西」と「東」、「現在」と「過去」が錯綜しているという意味では、今日の日本も程度の差はあれ同じである。恐らく外国人が日本に来たとき覚える感慨というのは、我々がエジプトを観光旅行するサムライの写真を見たときに覚えるものに似ていると思う。高層ビルのすぐ横に神社があったりする。そこは別の空間、時間に属すべきものが奇妙に錯綜しているように見えるのである。
さらに、ついこの間までは、この外国人旅行者がちょっと都会のはずれや田舎に足を伸ばすと、そこにはまだ「南」の空間を見つけることができたはずである。貧困とそれに伴うさまざまな問題が表出する場である。今日では、都市と農村の格差問題というのは軽減されたわけだが、「南」は都市と地方の間の格差、そして都市における貧困という問題として再生産され続けている。
日本とアジア・アフリカ
日本にはまだ東西南北が同居しているなんていうと、「何でも吸収して自分のものにしてしまうのが日本のすごいところ」なんていうおなじみの自画自賛になりかねないのであるが、ここではむしろ日本の特殊性を強調するのではなく、日本人以外の人々との経験の共通性に目を向けたい。
日本と同じく西洋の知識文化に基づき空間を作り替えようとした国(そうしなかった国があるのだろうか)にも、やはり同じような東西南北が生じる。さらに、先駆者としての北西ヨーロッパの社会もかつては同じような東西問題、南北問題を抱えていたはずである。もっと言えば、今日においてさえ、東西南北という空間は国民国家や文明圏の間だけではなく、同じ国家、文明の中にも錯綜して存在しているはずである。
先ほどの外国人旅行者の話は、実は外国に旅行する日本人の話でもあるわけだ。実際に、外国で「この風景はどこかで見たことがあるぞ」という既視感を感じることは少なくない。
これは旅行だけじゃなくて、読書を通じた学びでも感じられる。日本とは縁のなさそうな国の歴史を読んでいると、なんだか日本史でも出会ったような話に多く出会う。たとえば、半植民地化されたイランにカフカのような現代作家がいたりして驚かされるが、彼はインド人に対してはオリエンタリスト的視点を持っていたりもする。やはり、いろいろな時間空間が錯綜してる。日本近代からの視点から十分理解可能なことがたくさんある。
自分のなかの時間・空間
時間・空間というのは、自分の外ではなく中にある。それはわれわれが世界の物事を整理するさいに利用する枠組みみたいなものである。カントにとって時間・空間は人類普遍であったが、われわれはそれがより文化的なものであることを知っている。すなわち、時間や空間の概念は多様であり、場所や時代によって異なりうる。
われわれは無意識のうちに、こうした時間・空間の枠組みを利用して世界を見ている。だから、その枠組みから外れてしまうスフィンクスを見物するサムライなどを見た途端に、違和感を感じることができる。一種の暗黙知である。だが、この暗黙知が多くのものを見えなくもする。
今日のグローバル社会では、東西問題が文明間の衝突(例えば、西洋文明対イスラム文明)、南北問題が富裕な国対まだまだ貧乏な国という構図で捉えられる。この構図だと「西」と「東」、「北」と「南」というきれいに線引きされた抽象的な空間軸にそって現実の世界が分類されてしまい、まったく共通性のない他者同士のように見えてくるわけだ。
でも、現実にはすべての社会の中に東西南北があるとすると、今日の国民国家や文明といった抽象的な空間は、実は具体的な経験をもとにしたアイデンティティによって内と外から貫かれているのである。「日本人」、「アメリカ人」、「中国人」といった主語は、実はさまざまな述語を共有しているのである(述語の論理については、以下リンク参照)。
日本の経験が貴重なのは、それが日本独特のものだからというよりは、近代化というすべての社会が苦しんだ経験の一つの例だからなのだと思う。近代というのは「西」が「東」に、「北」が「南」にとって代わることではない。それ自体が東西問題、南北問題を作り出すものであり、日本も近代を追求する過程でそのナショナルな空間の内と外にそうした区別を作り上げて来た。
日本のアイデンティティをむりやり東西南北のどれかに統一しようとしてしまうと、多くの経験を抑圧して歴史の彼方に押し込めてしまうし、それが今日の差別や排除にもつながる。むしろ、東西南北のいずれにも属しきれないが故に、いずれの空間にも自分たちの姿を重ねられるところに強みを見いだすべきではなかろうか。しかし、われらは半端ものであるから、何もしなくてもそれができるわけではない。抑圧された自分自身に向き合う努力なしには、他者への共感もわきにくい。
(画像は次のサイトから借用:歴人マガジン「カレーと武士の出会い その2」https://rekijin.com/?p=5761)
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