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葦毛の仔馬

午後、図書館へ頼んでおいた本を取りに出掛けた。その途上、蒸し暑い曇り空の下を、涼しげに着飾った女の子が横断歩道をわたってきて、自分の数メートル先を歩いて行く。十六、七くらいにしか見えないが、日本の女は歳より子供っぽく見えることが多い。ことによるともっと上なのかもしれない。顔はよく見えなかったが、あまり器量はよいほうでもなさそうだ。赤味のあるブロンドに髪を染めていて、前髪が気になるのか、歩きながらずっといじっている。団地の方から出て来たので、中流でもあまり豊かでないほうの家庭の娘ではないかと思う。バス停の方に歩いていくので、これから街へ遊びにでも行こうという腹積もりらしい。

この近辺は年寄りばかりが増えて、ただでさえ若い女を目にする機会が少ない。工事現場の警備員たちも小ぎれいな娘が通りかかるのをちらっ、ちらっと盗み見している。自分も何だかちょっと得した気分になって、後ろについて歩きながら観察してみた。中年すぎの男が若い女にいだく関心など、どのみちろくなものではあるまいが、自分にも同じ年頃の娘がいる。何だか楽しそうに歩いていく娘に興味をそそられるのも、あながち変な下心ばかりでもあるまい。

最近の流行りらしくて、栄養失調ではないかと思うくらいやせぎすの女で、あまり体格がよろしくない。だけども、明らかに晴れ着モードであり、これも日本の女に特有の清潔さがただよっている。光沢のある灰青色の裾長のワンピースを着ていて、それがなにやら自分に写真で見た葦毛の馬を連想させた。よく見ると縞ではなく、濃紺の下地を薄手のベールのようなものが覆っていて、そのベールの厚薄の縦筋の関係で縞模様に見えるのである。女の服の薄くてひらひらした布切れなどを自分は安っぽく感じて嫌う方なのだが、なるほど遠くから見るとこういうふうに小粋に見えるのだ。

袖がないから、小枝のようにか細い二の腕まで見える。曇り空でも、自称白色人種よりもよほど真っ白い肌がまぶしく映えている。淡い灰青色から白い手足が出ているから、葦毛の仔馬が歩いているような印象を受ける。そんな印象を受けるのは、歩き方にも特徴があるからだ。かかとの高い白いサンダルを履いているが、履きなれないらしくて、バタバタとちょっと足を跳ね上げるような不器用な歩き方なのである。ふだんはかかとのないズック靴でも履いている子供が慣れないものを履かされたようでもあるし、楽しみを前にして地に足がついてないような感じでもある。それが余計に世なれてない娘っぽく感じられて、見苦しいというよりは好ましい印象を与える。

前髪がよほど気になるらしくて、後ろからじろじろ見られているのにまったく気づく気配がない。女には見られていると感じたときに反射的に髪に手をやる癖がある。まだ無意識の幼女ともう諦めのついた老女を除いて、これは年頃の娘からかかあ連中に至るまでかなり広くみられる癖である。だが、この娘はこれから会う人の目ばかりが気になるらしくて、今自分の後ろを歩いている人間などは眼中になさそうだ。同性か異性か、友人か恋人かは知らんが、これから会おうという人は大事な人なんだろうなと考えると、鈍感さ、不器用さ、ある種の傍若無人さも何だか一途な心のあらわれに思えてきた。

そうやって観察できたのも五分かそこらで、バス停の方に歩いていく女の後姿を横目に、自分は図書館の方へ角を曲がったが、何だかうきうきして、どこかへ人に会いにいきたい心持であった。娘の幸福感が感染したらしい。それでも、女を隠れて観察するという行為に後ろめたいものを感じていなくもなかったので、自ずからそちらの方に考えが向かった。

若くて美しいというだけの理由で通りがかりの人の興味をそそってしまうのは、娘らにとっては不本意な話かもしれない。男の自分には経験がないので、そのような立場にいるものがどのように感じるかは推しはかりかねる。しかし、自分も外国に住んでいたとき、それに似た立場に立ったことはある。東洋人が珍しい街であったので、何もせずに立っているだけで目立つ。それも、どちらかという軽侮とか冷笑とか、悪意ある好奇心の対象となるのである。

それでも、自分などは自分に集められる注目を特権として、できるかぎり享受した。派手なスカジャンもどきのデニム・ジャケットとブーツカットの体にぴったりしたジーンズに、バンダナを手ぬぐいみたいに腰から垂らして、道行く人の度肝を抜いては喜んだ。職場の同僚の許嫁の家に招待されたとき、彼女の兄から「オレはお前を知ってるぞ。いつも○○通りを歩いている奴だ」と言われたときも、驚くよりちょっと得意だった。○○通りというのはその街の目抜き通りの一つで、中流以上の若者が集まる場所でもある。自分はそこによくCDを買いに行ったのである。初対面の人にそう言われたことが何度かあったから、相当目立ったらしい。若くて美しい女にも、やはりこのような楽しみはあるんじゃないか。

そんなことを考えながら歩いている自分を、補助輪付きの自転車にのったブロンドの白人の女の子が追い越していった。こちらが彼女に払うほどにも向こうはこちらに注意を払ってくれなかった。なるほど、若くて美しくて愚かであるというのは確かに特権である。だが、それが特権として意識されないかぎり、無邪気な特権である。人間があの高貴で冷酷な異教の神々の気持ちにいちばん近づくのは、案外こんな時なのかもしれない。これを厭味と感じるのはよほど妬み深い老人だけでよろしい。そんなことを思いながら、にやけて家に帰ってきた。そうして、久しぶりにそんな楽しい気分にさせてくれたあの葦毛の仔馬に感謝する気持ちでもあった。

それで帰ってからこんな文章を書いてみた。異性のしかも若い奴だけを特別扱いすることは市民的無関心の原則違反だが、ただ「若い女」というものが存在するというだけのことが、もう色恋沙汰には縁のないような男たちの人生をどれだけ明るく楽しくするか、ちょっと御当人たちには想像がつかぬだろう。若い元気な男でもある程度はそうなのであるが、同性の若さは失われた自己である。異性の若さは永遠の他者である。憧れながらももう自分には決して手の届かぬものとして諦めきれぬところが、若い異性をしていまだ到来せぬユートピアへの鍵を握る特別な存在たらしめる。セクハラだ、女性を卑しめる考えだと言われると困るが、幸い自分は何の特権も付与する地位にはおらぬ。若いイケメンの少年、青年がわれらがかかあ連の人生において占める役割を認めるかぎりは、必ずしも女性だけを差別をしていることにはならんと思う。

白状すると、こんな文章が書けたのも、実は最初から書くつもりで注意して出掛けたからであった。志賀直哉がちょっとした日常の風景から厚みのある文章を書くのに感心して、自分も真似してみようと考えたのである。一時間足らずの散歩、しかももう何百回となく歩いた道である。放っておけば何事もなく流れていく。そこから何が掬い取れるのか、というより、書くことによってこののっぺりした日常の一コマにどれほど厚みを加えることができるか、というのが自分の挑戦であった。

これに成功したとは思わないが、書かなければ、この散歩も何百回となく行われ、そしてこれからも何百回と行なわれるもののなかに埋没し、「失われた時」にしかならなかっただろう。カミュによると、不条理の世界においては、よりよく生きるのではなく、よりたくさん生きることが重要になる。つまり質的ではなく量的に多く生きることが豊かな人生を生きるということになる。しかし、よりたくさん生きるというのはただ長生きするという意味ではない。今この瞬間を、明敏な意識で味わい尽くせるだけ味わい尽くすことである。自分には刹那主義にすぎる見方に思えるが、確かに小さなことからでさえ多くことをひき出すことができる。こんな駄文でも、まあ書いて損をした気はしなかった。きっと見られる方の娘たちにはキモイと言われるのだろうけど。

(2019年7月4日。多少語句を修正した。)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。