見出し画像

勉強しかしない「野蛮人」とその妻たち

津田塾と洋裁学校

戦争が始まる前、母の家ではアメリカの雑誌を購読していた。名は忘れてしまったそうだが、当時は珍しかったケチャップの広告などが載っていたことは覚えている。戦時中も棄てずにとってあったのだが、やはり見つからないように押入れの奥の方にしまい込んでいた。それでも、「鬼畜」たちの文物をこんな山積みにしていてもいいんだろうか、と子ども心に心配だったそうだ。
 
その雑誌に毎号小説が掲載されていた。母には何が書いてあるかわからなかったが、誰かが熱心に読んでいたらしくて、線が引いてあったり、辞書で調べたらしき単語の意味が記されていたりする。あとで考えると、当時女学生であった母の伯母が読者であったらしい。というのも、彼女は英語が好きで、今でいうと高校生くらいの時に、すでに相当な英語力を有していた。
 
あるとき、伯母と母が配給の行列に並んでいると、米兵を載せたジープが通りかかり、そのうちの一台が止まる。そして、二、三人が車から飛び降りて、母たちの方にやってくる。まだ十歳前後だった母は伯母の背後に隠れて震えていたが、伯母が米兵と何かやりとりすると、米兵はおとなしく車に戻り走り去った。あとで何を言われたのか尋ねると、「ダンスパーティがあるから、いっしょに行かないか」と誘われたそうだ。それにはっきりノーと言える英語力と気丈さを伯母はもっていた。
 
ともかく、英語が得意であったから、「津田塾に入れなさい」と女学校の先生が親に言いに来た。ところが、「お前のところのばあさんは、津田じゃなくて洋裁学校に入れやがったんだよ」と、のちに同じ学校に通った母は先生から言われて困ったことがある。先生もよほどがっかりしたらしい。
 
今となっては「何てもったいないことを」という話になるが、当時の状況を考えると、一概にばあさんを責めることもできない。そのころは、大卒の女はかえって就職や結婚で不利になった。学校の先生になるくらいしかない。そのばあさんも実は学校の先生であった。だが転勤が多いし、男は家事を一切やらない時代だから、仕事と家庭の両立が大変だった。「大学に行かせて自分のような職業婦人したくないから」というのが、ばあさんが娘を津田ではなく洋裁学校に入れた理由であった。
 
だが、伯母は先生にはならなかったけども、結局英文学者と結婚して、英文学は趣味として愛しつづけられたから、ひょっとするとばあさんが正しかったかもしれない。ついでに言うと、父が留学してしまって三人の幼子を抱えた母が困っていたのを見かねて、隣りに引っ越してきてくれたのは、この伯母である。

資本相続の男女分業

先般、ツイッターのフォロワーさんの一人が、片岡栄美という大学の先生の書いた『趣味の社会学』という本を勧めてくれたので、自分も読んでみた。以前どこかで紹介したピエール・ブルデューというフランスの社会学者がフランスで実証した仮説を、日本で検証した研究である。
 
ブルデュー理論というのは、人びとの社会的地位は経済資本のみならず文化資本によっても左右される、というものである。趣味(「ご趣味は何ですか」のホビーではなくて、「よい趣味・悪趣味」のテイストの方)とか学歴もまたこの文化資本の一部であり、経済資産を親から子へと相続するように、趣味や学歴もまた相続しようとする。
 
片岡先生の研究によれば、日本でもこのブルデュー説はだいたい当てはまる。しかし、日本独自の(日本だけとは限らないのであるが)特徴もある。いちばん驚いた(しかし、言われてみるとそうだなと思い当たる)のは、次の点であった。
 
日本においては、男の学歴はハイカルチャーへの嗜好と負の相関関係にある。つまり、学歴が上がれば上がるほど、趣味が「大衆化」する。文化資本の豊かな家庭に育っても、大学を卒業すると、パチンコ、カラオケ、スポーツ新聞といった大衆文化を許容するようになる。
 
じゃあ、日本では男には文化資本が相続されないのか、というと、そうでもないらしい。そうではなくて、男が相続した文化資本は、ほぼすべて学歴資本に変換される。つまり、男の子の時間の大半は、文化活動ではなく試験のための勉強に費やされるらしいのである(残った時間は、幼稚な欲求を直截的に満たすための娯楽活動に当てられる)。
 
それではなぜ趣味が大衆化するかというと、日本では大衆文化は「つきあい文化」とか「共通文化」の性格が強い。だから、立身出世のために大衆的な嗜好を身につけなくてはならない。下手に高尚な趣味など持っていると、「気取ってる」とか「お高くとまってる」とか思われて、かえって不利になりかねない。であるから、立身出世の見込みがある高学歴者ほど、子ども時代の文化資本を棄てて文化的には大衆化していく。
 
これに対して、女の子の社会的地位は、学歴だけではなく趣味と高い相関関係がある。ピアノやバイオリン、生け花や茶道といった「お稽古事」をやっていると、将来の学歴や家計の収入が上がる。当人というよりも、配偶者の収入が高い。面白いことに、学習塾へ通ってることは、男の子にとっては学業成績(したがって、学歴および将来の年収)と正の相関関係が認められるが、女の子にはこれが見られない。むしろ、お稽古事との相関関係の方が強い。
 
不思議なんであるが、こういうことらしい。日本における文化資本の相続においては、男女分業の度合いが強い。男は学歴資本に特化し、それ以外の文化資本は女が受け継ぐ。そして、高学歴で稼げるけ男と美大・音大を出た女なんかが結婚して、夫婦が手分けして経済資本、学歴資本、文化資本のバランスをとり、それを子に引き継ごうとする。これが日本の典型的な家庭の資本相続戦略らしい。
 
この研究の調査は90年代に行なわれたもので、ちょっとデータが古い。少子化やワーキング・プアーの増加などの影響で、結婚ではなく自ら仕事を通じて立身出世を目指す女が増えているはずだから、状況は変わっているかもしれない。だが、仕事で成功してる女の趣味は、やはり男と同様に「大衆化」する傾向があるという結果がこの調査でも出ている。自然の性差というよりは、社会的な戦略がこのような男女間分業を促しているのである。
 
英文学も趣味であるうちは女のたしなみたりうるが、これを学歴にしてしまうとむしろマイナスの投資になる。娘に洋裁を学ばせたあの伯母の母などは、どうやらこうした分業についての暗黙知を有していたらしい。

どうやらオレも野蛮人

ここで、少しばかり自分語り(騙り?)を許してもらおう。出だしは家柄自慢にでも聞えるかもしれないが、読み進めてもらえばそうでないことがわかってもらえると思う。
 
自分が記憶するかぎり、自分の家が他人のそれと比べてどういう地位にあるのか、という疑問を抱いたのは、小学校高学年のときであった。といっても子どもだから、自分の家は他の家と比べて金持ちなのかどうか、という問いである。それまでは友人たちもみな同じような生活をしていることを、自分は疑ったことがなかった。
 
自分が少年時代の大半を過ごしたのは、都心の通勤圏内にある(といっても1.5時間だから、今はもう圏内から外れて限界集落化してる)郊外の新興住宅地であった。だからほぼみんなが中産階級で、夫婦ともに学歴が高く、名の知れた企業の社員とか大学の先生とかが多い。少し経済的に余裕ができたときに、庭付きの一戸建てを欲しがるような人びとである。
 
だが、同じ中流でも格差はあって、ちょっと金持ちっぽいライフスタイルの人々もいる(新参者ほど多くなる)。遊びに行った友だちの家と自分の家と比較するようになって気づいたのは、自分の家は豊かな方ではないということであった。かといって困ってるわけでもなかったのだが、兄弟が多いこともあって、小遣い銭でも友だちはみな千円単位なのに、うちは桁が一つ少ない。服や車や家具や食事、果ては飼ってるネコでさえみすぼらしい。
 
それで、うちの親父はあまり偉くないんだな、くらいに思っていたんだが、ただ、東大というところを卒業して大学の先生であることなどを聞くと、人はなんだか妙に感心してくれる。専門が哲学とかいうものだと聞くと、もっと感心してくれる。持っているお金の量とはちがう基準で測られる偉さみたいなものもあるらしい、ということだけは感じていた。当時はまだブルデューなんて知らないんだけど、うちは経済資本は少なくて文化資本(学歴資本もその一形態)が多いんだなと、そういう言葉は知らないまでも漠然と感じたわけである。
 
そして、東大ではないが、自分も人から羨ましがられるような学歴を獲得して、頭脳労働に携わり、書籍もいっぱい所有するようになったから、自分も文化資本の豊かな人間だと思いこんでいた。そして、それは文化資本の豊かな家庭に育ったからだろうな、と考えていた。一般の社会人男性たちと較べて、自分は「大衆化」や「オヤジ化」の程度が低くて、もう少し高尚な趣味の持ち主である。こう思っていた。
 
ところがこの本を読むと、どうやらちがう。自分は文化資本となるハイカルチャーとはほぼ無縁の人間である。自分は子どもの頃に、クラシック音楽のコンサートに連れて行ってもらったことはない。だから聴く音楽は、ロックとかジャズとか、いわゆる「ポピュラー音楽」専門である。美術館やら博物館に連れていってもらった記憶もないし、今でも美術館・博物館に通う趣味はない。読書は平均よりたくさんしたかもしれないが、親に読み聞かせをしてもらった記憶はない。物心ついたころから、本というのは自分で読むものであった。
 
なおかつ、それにもかかわらず、パチンコ、カラオケ、スポーツ新聞のように、大衆文化の指標となるような活動とも、自分はほとんど無縁である。テレビはもうしばらく見てないし、マンガもほとんど読まない。
 
であるから、この本の基準を用いると、自分などは、お金や時間や教養不足などの理由によってほとんど文化活動を行わない「文化不活発層」に入りそうである。やっているのは読書くらいであるが、読書は国民一般にもっとも普及している文化活動で、ほぼ誰でもやるから、文化資本としての価値はもうほとんどない。
 
そのようにハイカルチャーにも大衆文化にも疎遠な自分は、経済資本や文化資本や社会資本(人と人とのつながりの蓄積)の関係において、いったいどういうふうに位置づけられるのか。自分の経歴を振り返ると、どうやら次のようなことになる。

日本の平均的な男と同じように、自分もまた生まれ育った家の文化資本を相続し、それをほぼぜんぶ学歴資本に転換したのである。その後も研究職に近い仕事につくことが多かったから、読書は実は文化活動というよりも経済活動として行ってきた。読書も仕事としてやってる部分が大きいから、立身出世のために相続した文化資本を脱ぎ捨てていく日本の男のパターンの方にずっと近い。勉強だけしてる野蛮人たちの一人である。そして、自分に欠ける文化資本を補うのは女に期待してる(自分が結婚相手に選んだ女は、芸術家だった)。

ただ、自分に特徴的なのは、つきあい文化としての大衆文化への嗜好をほとんど身につけてない。だから、社会人の男たちとの社交に多大な困難を覚える。酔っぱらってカラオケを歌ったりしないし、風俗にも行かない。だから、社会人の男性諸君とのあいだにホモソの絆が生まれにくい。多くの人に囲まれながらも、なんとなく孤独感がぬぐえなかったし、職場では特に同性の上司に睨まれやすい。

だが、これも性格というより社会的環境の影響が強い。片岡先生の調査によると、日本人男性の趣味がもっとも「大衆化」するのは、意外にも二十代である。つまり、社会に出たての二十代の若者がいちばん「オヤジ化」する。社会人になったときの付き合いの必要からそうなるので、男でも年をとるにつれて趣味が広がっていく。
 
自分が大衆文化にいちばん近づいたのも、やはり二十代に働いた最初の職場であった。酒も女もカラオケもマージャンも、いちおう一通り経験した(週末をとられるのがいやで、ゴルフだけはしなかった)。学生の時はオヤジくせえなと軽蔑していたような週刊誌(裸のお姉さんの写真が載ってるようなやつ)も、社会勉強だと思って目を通した。しかし、日本ではなく外国で暮らしていたこと、その後また大学に戻っていったことで、これが身につかなかっただけである。それが後にまた大学の外の社会に戻ったときに、立身出世の妨げにもなった。

脱文化の過程

この脱文化資本化(ハイカルチャーからも大衆文化からも脱落していくことをこう呼ぶとすれば)は、実はすでに親の世代から始まっている。以前も少しどこかで触れたと思うが、父の生家はいわゆるアッパーミドルに属する。元はおそらく富裕な農家・酒造家であるが、維新後にクリスチャンに改宗して家業を捨てた。そして、家長たちは経済資本を学歴資本に転換して身を立ててきた。父も祖父も東大で、おそらく何も言われなくても、子が勝手に東大に行かなくてはと思うようになるような家風だった。

ここから先は

2,196字

¥ 300

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。