グルーヴ感がある社会・会社
十年以上も前の話だが、カリブ諸国の閣僚や大使を招いた大使公邸での晩餐会に参加したことがある。ディナーが終わって客間で食後酒などをちびりちびりやって談笑しているとき、ある大使がこんな話をした。
訪日したとき邦楽を聞きに連れていかれたんだが、これが神妙なもので、ポンと太鼓の音がしたあとずっと沈黙がある。そうしてしばらく経ってからまたポンと太鼓がなる。世界にはこんな音楽もあるんだなと感心したが、眠くなるので参った。
これを聞いて、わが国の大使以下日本人参加者はみんな「あれは眠くなるな、ハハハ」といっしょになって笑っていたんだが、自分だけは腹からは笑えなかった。もとより自分も邦楽に同情があるわけじゃないが、やられたらやりかえさないとならんのは、領海・領空侵犯されたときやミサイルを撃ち込まれたときにかぎらない。外交でもやはり打ち返すときは打ち返さないとなめられる。だからといって正面から抗議なんかしたら逆効果である。社交的にやんわりとウィットをきかせて、だが毅然と「なめんなよ」というメッセージを伝えるべきなんである。
こういう時に、例の紳士的教養という奴が役立つ。しかし、くやしいことに、うまい反撃が思いつかない。自分も真面目に邦楽など聞いたことがない。自分の国のことを知らないと、こういうときに困る。非常に悔しい思いをして、自分たちの国のことをもっと知ろうと心に決めたのである。
間(ま)の芸術
そうして持ち帰った宿題をしばらくは考えていた。「間(ま)の芸術」とでも呼べるものがあって、音楽であると五線譜の小節を音符で埋めていくのではなく、音のないすき間で音符をつないでいくようなイメージである。だから、この間はただの沈黙ではなくて、音楽の構造上積極的な役割を果たしている。無は無でも有とつながった有機的な無である。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。