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他人に「言うことを聞かせる」方法

割引あり

言うことを聞かせる必要

なんだか不穏な題名でありますが、世のなかには、他人に言うことを聞かせる必要を感じることがありますね。「言うことを聞かせる」というのは、よくよく考えると面白い言い方ですが、ただ耳の穴の通気をよくして聴覚を働かせてもらうだけではありません。自分が言うとおりに行動してもらうことでもあります。

「いや、わたしは誰かに言うことを聞かせようなんて考えたこともない、わたしはわたしで自由にやるし、他の人も自由でいい」。そういう寛容なかたもたくさんいらっしゃいます。しかし、それはもうひとびとが言うことを聞いてる状態であることが多いからであって、「じゃあ、自由にやらせてもらうよ」とみんなが一斉に誰の言うことにも耳を貸さなくなったら、やっぱり困ることがたくさん出てきそうです。

たとえば公共のルールです。われわれが安心して外を歩いたり、あるいは子どもを学校に送り出したりできるのは、みんながだいたいルールを守ってると信じているかぎりでありまして、飲酒運転による事故や通り魔や痴漢なんかが近所で起こってしまうと、この信頼が揺らぎます。やっぱり守ってもらわないと困るルールがあると認めずにはいられない。これを守らない人がいれば、何とかして「言うことを聞かせる」必要がある。

そういう人は犯罪者とはかぎらんのでして、子どもなどはたいがい「言うことを聞かない」ものであります。だからといって、じゃあ放っておけるかというと、親としてはそういうわけにもいきません。「勉強しなさい」とか「ゲームはほどほどにしなさい」とか「好き嫌いせずに食べなさい」などと小言を言って、それを聞いてもらえないとやっぱり怒って、なんとか言うことを聞かせようとします。

あるいは、職場でもそうですね。部下に言うことを聞いてもらえなければ、上司は仕事にならない。上司に耳を貸してもらえなければ、部下も仕事が進みません。ご近所のルールもそうでして、「ごみの分別をお願いします」と書いてあったって、「お願い」だから聞かなくてもいいのかと思っもらっては困る。「分別しなさい」という命令を婉曲していったものと理解しなければなりません。仮に分別しないでごみを出す住民がいたとしたら、なんとかして言うことを聞かせないとならない。

「言うことを聞かせる」というといやがる者に強要するというニュアンスが入ってくるので語弊があるんですが、「わたしとつきあってください」とか「結婚してください」なんていうのもあります。「お願い」なんでありますが、やぱり自分の言うとおりにしてもらいたいし、断られると傷つきます。だから、なんとかして言うことを聞かせようと骨を折りますし、たいがいは言われた方だってそう期待する。

でありますから、「いかにして他人に言うことを聞かせるか」は、案外日常的な問いでありまして、はっきりと言語化されてないだけで、日々の実践のなかでぼくらはこれに答えています。自分も他人の言うことを聞きますし、他人に言うことを聞かせようともしている。言語化されていないにしても、どうすればこれに成功しやすいかについて、誰もがなんらかの暗黙知を有していると考えられます。

カネで釣る

突き詰めて考えますと、他人に言うこと聞かせる方法は三つくらいありそうです。カネで釣るか、暴力で脅すか、情に訴えるか、の三つです。

まずカネですが、ここでは貨幣や紙幣にかぎらず、なんらかの快楽を約束するもの全般のことです。カネはいろいろなものと交換できますから重宝されるわけで、別にモノやサービスで釣ってもいい。「これやるから、言うことを聞け」ということですが、その裏には「言うことを聞かないとあげないぞ」が暗に示唆されてます。親切といやがらせが表裏一体です。

などというと、なんだか犯罪っぽいんですが、われわれが日常的にやっている取り引きの大半はこれであります。カネを払って望む財やサービスを提供させるというのは、カネで言うことを聞かせるのでありまして(「カネに物を言わせる」という面白い表現がありますね)、なぜならカネを払わないと言うことを聞かせることができないんであります。逆も同じです。店員は財やサービスを提供することによって客にカネを払わせる。なぜかというと、そうしないとカネをくれないからであります。くれないものを無理にとったら、所有権の侵害であります。犯罪であります。

余談ですが、今日では多くの店員さんは被雇用者でありまして、必ずしも買い物客と取引してるわけではありません。店員さんは、雇用者から賃金をもらって労働力を提供しているのでありまして、こっちが本当の取り引きです。お客の払う金がそのまま店員の懐に入るんではない。客はただこの取り引きに入ってくる媒介変数に過ぎません。だから、店員は雇用主の求めることだけをやればいいのであって、お客の言うことを何でも聞く義理はないわけであります。お客は支払うカネの所有者ですし、店員を財・サービスの所有者の代理と見なしますから、ここに認識の違いが生じる。それでカスハラみたいなことも起きてくるわけです。

会社が社員に言うことを聞かせるのもまた、この範疇ですね。「これをやれば、相応の報酬を払おう」と「やらなければ、報酬はやらん」によって、言うことを聞かすわけであります。これらは経済的な取引でありますが、家庭でもカネで釣るようなことが起きます。「試験でいい成績をとったら、プレステを買ってやろう」とか「勉強しないと、どこどこに連れてってやらんぞ」とか、「いい子にしてないと、サンタさんがプレゼントをもってきてくれないわよ」と言うようなときですね。これを怪しからんと怒る人もいるにはいますが、よほどの道学者先生であります。ただ、あんまり濫用されると、教育上好ましくない弊害があるかも、と心配されるだけであります。

ちなみに、この点については、わたしの少年期は少し特殊な事例でありまして、勉強にしても他のことにしても、カネで釣られた経験がほとんどありません。父親が決してカネで子どもを釣ろうとしない道徳の持ち主だったんです(母親は頼まれずともなんでも与える仏のような人で、やっぱりカネで釣ることがありませんでした)。でありますから、勉強をするのもいい子にするのも自分の意志であって、カネのためにやるということを学ばなかった。

それでありますから、大人になってもカネで釣られるのが嫌いですし、他人をカネで釣るのも侮辱であると感じてしまう。えらい親だなと感心してくれるかたもいるかもしれませんが、そうとばかりも言えません。それでいてカネがいらないというわけではないんですから、潔いのか悪いのかよくわからないことになっています。まあ、商売なんかはとてもできない人間になって、かなり損もしてるのであります。

暴力で脅す

じゃあ、親はまったくの自由放任で、おまえに何のしつけもしなかったのかといいますと、そうでもありません。カネでは釣りませんが、言うことを聞かないと父親の手や足が飛んできました。口より先に手が飛んできた。というより、後にも先にも口で説明があったためしがありませんで、ただ痛撃を喰らっただけであります。だから、何が悪かったのかは自分で考えないとなりませんでした。

この父親の鉄拳が恐ろしいがために、言うことを聞いてた。つまり、暴力で言うことを聞かせられたんです。ただ、父のために言っておきますが、とくに暴力的な人であったということではありません。癇癪もちではありましたが、その時代にしてはかなり進んだ思想の持ち主でもありまして、母などは父に手を上げられたことなど一度もないと言っています。ただ、子どもに言うことを聞かせるときに、カネでも情でもなく暴力に訴えることが多かったまでであります。

若いころは他の家庭の事情を知らないんのでわからなかったんですが、いろいろとみなさんのお話を聞いていると、うちの父親は不干渉主義でありまして、あんまりうるさいことは言わない人でした。だから、叱られることも多くなかった。では、どんなときに父に殴られたり蹴られたりしたのといいますと、思い出すかぎりは子ども同士で喧嘩して騒いでいたときだけです。「○○ちゃんが先にぶった」とか「××ちゃんがバカっていった」とかやって大騒ぎしている。まあ、ぼくらがネットなんかでよく見かけるような喧嘩ですね。そういうときに、父が二階から降りてきて有無を言わさず双方を黙らす。子ども心には「ぼくは悪くないのに」と思っているんですが、父は子どものケンカの仲裁なんかやる気がぜんぜんなかったようなんです。

この幼いころの体験がトラウマになりまして、わたしなんぞは父親的な存在を極度に恐れ憎むような人間になりました。男たち、とくに年輩の男たちと一緒にいるよりは、女たちと一緒にいるほうを好むようなところがあるのも、たぶんそのせいかと思います。日本みたいなホモソ社会では、これが立身出世などにはマイナスに働きますから、この点でもやっぱり損をしてる。ですから、子どもの教育法としては、果たしてカネで釣られるのとどちらがよかったのか、自分でもよくわかりません。

これもまた、「それは怪しからん親だ、大変な目に遭ったんだな」と同情してくれる方もいるかもしれませんが、本人にとってはどこの父親もそんなもんだと思っていたので、とくに自分が不幸であるとは思いませんでしたし、今でも思ってません。ただ父が嫌いでしかたなくて、家から出られるようになったらさっさと出ていって、めったに実家には戻らなくなったというだけです。

ですから、父親のためにこんな言い訳だかなんだかわからないことを長々と書いてるのは、他人の同情を買いたいからではありません。暴力によって言うことを聞かせるというのは非常に悪いことで、決してやってはいけないことである、というのが常識として認められたのは、実はけっこう最近に過ぎないということを指摘したいがためであります。今日では、おそらくカネで釣るよりもずっと罪が重いとされています。それもそのはずで、これをおおっぴらにやるとだいたい刑事事件になります。被害者のみならず国家にたいする犯罪なんです。親が子どもにたいして暴力をふるってもそうであります。

ところが、これがなぜ国家にたいする犯罪なのかと考えますと、それは国家の暴力の独占を侵害するからであります。つまり、暴力を正当に用いることができるのは警察官や軍人のような国家のエージェントに限られるわけでして、それ以外の立場で暴力を行使することは、正当防衛を除いてゆるされない。そういうことになっています。

すなわち、法律に関しましては、われわれにかわって国家が他人に言うことを聞かせてくれますから、私人としては放っておいてもよいし、放っておかなければならない。国家のエージェントがしっかりこの仕事をしてないときに、声を上げるくらいでよろしいわけでして、自分で言うことを聞かせる必要はないわけであります。だから、「いや、わたしは誰にも言うことを聞かせようなんて思ってない」と思えるようになったのであります。

しかし、いかに仕事熱心な警察官でも、言うことを聞かない子どもまでは取り締まってくれませんから、家庭や教育現場では、暴力を用いずにいかに子どもに言うことを聞かすかということが、けっこう悩ましい問題になってるんではないかと思います。

ですから、個人としては暴力を振るわなくとも、ぼくらはやっぱり他人に言うことを聞かせるために暴力に頼っている。この事実は変わらないわけであります。ただ、それが極度に中央集権化されているというだけで、ぼくらが他人に言うことを聞かせるために暴力に頼る度合自体は、まああまり変わっていない。それどころか、国家権力が増大するとともに、暴力によって言うことを聞かせられることも増えていきますから、ひょっとするとより暴力に頼るようになってるかもしれません。むろん、あからさまに暴力が用いられることはめったにないんですが、「ご理解いただけないなら暴力に物を言わせざるを得ませんな」という脅しでもって、言うことを聞かせるわけです。

情に訴える

しかし、カネも暴力手段もたいして有さない者たちは、まったく他人に言うことを聞かせられないのかというと、どうもそうではありません。そういう手段を欠く者にも、他人に言うことを聞かせる方法がある。それは情に訴えることであります。だから、親や先生も暴力を使わずに子どもに言うことを聞かせられるわけであります。

厳密に申しますと、カネで釣るのも暴力で脅すのも、貪欲とか恐怖という情に訴えるのでありますが、それには当てはまらない、もっと複雑な感情がありますね。たとえば、自尊心でありますとか、苦しむ者への憐憫、恩にたいする義理、不正にたいする義憤などであります。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。