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オトナのゲンジツとワカモノのリソウ

割引あり

エセ現実主義者の反省

毎年のことだが、空調のない環境で生きてる自分は、夏の終わりにはもう体が弱って死にかける。体を鍛えても、暑さだけはなんともならんらしい。予想はしていたけど、今年の夏はかなり厳しくて、もうかなり命が削られてる。夏の終わりまでもつかどうか不安。こうなると、猫みたいに、なるべく涼しいところで何もせずにじっとしてるしかない。冬眠ならぬ夏眠でしのぐしかない。

不幸なことに、カネを請求する商売を始めてしまったから、暑くても片付けないとならない仕事がある。ぜんぜん儲かってはないから、休んでも収入が減るというわけではないが、値札をつけて商品を展示してる以上、やらないわけにはいかない。それで、働かない頭を無理に働かしてる。

こうなってくると、空調のきいた環境で生活しながら、「まあ自然が相手だから、ぐだぐだ言っても仕方がない、熱中症対策をきちんとやろう」くらいですましてる大人たちに憤りさえ感じて、グレタ・トゥーンベリ氏みたいな「怒れる若者」を見直したくなる。日本にももっと彼女のみたいなひとが出てくるといいのに、なんて考えたりする。

しかし、白状すると、若いころの自分はどちらかというとシニカルな現実主義者を気取るのが好きで、希望や規範ばかりを語る理想主義者に対しては、醜い現実を指さして冷やかしで応えるようなところがあった。今考えると、胸の内にはロマンチックな理想もあったんだけど、それを認めるのを潔しとしないところがあって、外向けには現実主義者を演じてみせることが多かった。それを知性の証しだと思ってた。

だが、人生も秋半ばになったころから、理想のもつ重要性を身をもって実感したのは、何も暑さとトーゥンベリ氏ばかりの功績でない。人間は希望を抱く動物であって、それなしでは、たぶん人間としては生きていけない。希望が人間を人間らしくする。この同じ性質が、人間をして自然の道から足を踏み外させ、動物には考えられない愚かで残虐な行動に走らせたりもするが、同時に自分を超え出させる。人間の歴史とは、理想に過ぎなかったものが実現されていく進歩と、そのために支払う高い代償の物語である。まあ、そんな風にも考えるようになった。

折しも、世間において、ネオ理想主義みたいなものの興隆が見られる。まあ、そんな大仰なものでないかもしれないが、「社会はこうあるべきなのに、そうなってない」という苦情を申し立てて、「変化」を旗印に政治なんかにも積極的に関わっていく。とくに若い人のあいだにこれが顕著で、どんなにナイーヴに思えるものでも、「こうあるべきじゃないか」と主張する者に冷笑を浴びせることが、強い言葉で非難されるのをよく耳にするようになった。それで、自分などはかなりシニカルな世代の産物であったんだなと気づかされて、反省を迫られている。

ただ、その反省が、やっぱりひとは現実主義者ではなく理想主義者であるべきだ、ということにならなくて困ってる。まだまだ反省が足らんということかもしれんが、歴史がただ振り子のように右に左に往ったり来たりする繰り返し運動ではなく、弁証法的な対立を介して上昇していく進歩の過程であるとすると、反省し切って逆の陣営に身を投じるということ自体が、あまり反省的でない。矛盾・対立を避けて通る者に進歩はない。かくなる上は、シニカルな時代に生まれ育ったという運命を引き受け、理想にも長らく払われてなかった敬意を払いつつ、前進するのみである。

「へえ、それはよかったね、勝手に進めば」という話かもしれないが、この反省の意義が自分にかぎられたものでもない。これを文章にして多くの人に伝えることができれば、現実を少しだけでも変えることができる。そう思わんこともない。だから、こんな文章を書かしめるのも、自分の理想主義の残滓なのかもしれない。こんなものにしがみついて、なんとか生き甲斐を保ってるんだから、自分の現実主義も強がりに近かった。

ここで自分が「理想」と呼ぶものは、「こうであったらいいな」という淡い希望(個人のレベルでは「夢」と呼ばれるようなもの)から、「こうでなければならない」という強い規範性をもつものまであるが、「現実」、すなわち「こうあるもの」の客観性に対して、人間の主観性を対置するものである。理想を欠くと、現実を所与のものとして受け容れて、それに適応するだけの選択肢しか残されない。そういう意味で、「自由」と関係がある。ひとがそれから自由になりたいと思うものはたくさんあるが、そういうものをまとめて「現実」と呼んでる。われわれの自由に制約を課すのが現実である。

極端な観念論の信者でもなければ、たいがいのひとはそういう制約の存在を認めてる。「自然」と呼ばれるような物質的な存在がその一例だ。だが、社会的現実と呼ばれるようなものがあって、その現実性は必ずしも物質的なものではない。たとえば、紙幣は物質的には紙片とインクに過ぎないが、みながそれに額面通りの価値を見出すかぎりにおいて、貴金属と同等の役割を果たす。すなわち、多くの他人を説得しえた者が作り出す現実があって、それが社会的現実と呼ばれる。社会自体が、そうした社会的現実の総体である。

であるから、自然とちがって、人間の意志によって社会は変えられる。まだまだ社会は完全ではないのだから、理想の形に近づけるために変えるべきである。どの辺をどのように変えるべきかは、ぼくらの抱く理想次第である。そうなれば、不動の神や固定された自然的秩序は後景に引っ込み、古代ローマの運命の女神が再臨してくる。ひとは気紛れな運命に見えるようなものを統御しようとしはじめた。それが近代における人間主義の一つの帰結であって、ぼくらが暗黙のうちに前提としている考えである。

この考えは、文字通りに革命的なものであった。このおかげで、ひとが抱ける理想の領域は飛躍的に拡大した。近代的な人間主義以前の社会においては、社会秩序も宇宙の自然秩序に埋め込まれていると考えられたから、人間の意志の力が及ばないものであった。そのような社会観が否定されて、社会秩序を自分たちで作りかえる自由が与えられた。たとえ一部であっても来世にしか望めなかった理想を、現世で実現しようとすることが可能となった。問題は、どうすればそれができるかであって、できるかどうかではない。そうなれば、知の領域とされるものも、飛躍的に広がる。

近代においては、そうやって人間の精神世界が、今までにない拡大を経験した。ぼくら凡人にもカンケーない話でない。学校でやたらに学ばされることが多くなったのも、多くの人が成績不良の落ちこぼれにされるようになったのも、その余波の一つだ。

青年と理想

迷惑な話であるが、それがゆえに、近代はまた理想の時代でもあり、若者の時代でもあった。理想主義は若者に限られないけど、若者は元来理想主義的なところがあるし、あった方がいい。理想主義的なところのぜんぜんない若者なんて若者じゃない。

自分は今でもそう思ってるが、実は彼らが口にする理想そのものにはあまり信頼を置いてない。というのも、自分や自分の仲間もかつてはそうだったのが、久しぶりに会ってみると、もうみんな実際的で現実主義的な大人になってる。いちばん理想主義的でなかった自分が、いまではもっとも理想主義的なくらいだ。

そういう自分だって、もう昔の理想を忘れて久しい。若い人を眺めて、なんだか懐かしいなとか羨ましいなと思うくらいである(今日の若い人だけじゃない。自分より一まわり以上年輩の全学連とか全共闘世代の話を聞いたときなんか、あまりに共感を覚えて何度も目頭を熱くした。でも、彼らが支持した理想には、もうそんなに共感を覚えない)。

だから、現実によって鍛えられてない理想は、ひとが成長する過程で簡単に捨てられる、今日の若者が明日の大人で、彼らもまた保守化するにちがいない。そう思うところがある。「最近の若者は」という年寄りの愚痴ではない。自分の先輩たちも、自分や自分の知ってる者もそうだったから、そう思うのである。

それでも理想を捨て切れずにどこかに抱え続けているのは、絶望するほどの苦境を経験せずに済ましてしまったからもあるが、他方でその理想の実現に成功しなかったからでもある。逆説に聞えるかもしれないけど、自分が成功しなかったから、現状に不満が残ってる。こうあるべきなのにこうなってない、まだまだよくすることができるんじゃないか。そのような社会に対する批判を考える動機を失ってない。だから理想主義的であり続けるところがある。もし成功して、社会で確固とした地位を認められていたら、やっぱりもっと現状肯定型の大人になったと思う。

社会的に成功した人が語る理想に対して、自分がちょっとシニカルになるのも、そういう理由がありそうである。自分がたまたま選択し、資源も感情も投資した理想に、それに見合う見返りを得たから疑問を抱けてないだけじゃないか、と疑ってしまう。すなわち、偶然によって守られた理想主義であって、現実に十分に鍛えられてない理想のように思えてしまう。理想がもつ既存の社会の批判よりも、保守的な自己満足の方を強く感じる。

だがしかし、まさにそれがゆえに、そうした理想が多くの若者の心を捉える(成功者を真似るというのが、生きる上でもっとも効率的な戦略。成功者の自己満足は自信として他者に目に映じ、成功者を見分ける一つの印となり、印象操作の対象にもなる)。そして、それがゆえにまた、多くの若者は、成長していく過程で、そうした理想を捨てることを余儀なくされてしまう(多くは成功しないから)。その際に、この理想、あの理想ではなく、理想をもつということさえ捨ててしまいかねない。そうなれば、理想主義というのは、成功者の特権みたいになってしまう。敗残者たちの理想は心理的に抑圧されて、アパシーや鬱積した怨恨感情の温床になり果てる。理想に対する冷笑的な態度は、その一表現にすぎない。

理想を鍛える現実主義

理想主義の脆さ、儚さの原因の一つは、そこにあるように思われる。だから、自分は現実主義を捨て切れない。いや、現実主義の行き過ぎがもたらした苦境が理想主義の再評価を促したように、理想主義に真剣に向き合うことによって、以前には見えなかった現実主義の意義がより明らかになったと言っていいかもしれない。すなわち、理想主義と現実主義は対立するものだけれども、その対立によってたがいを引き立てるものにもなりうる。片方だけだと、どっちも十分に育たない。

たとえば、マキァヴェッリの現実主義が、イタリア人の自由という理想(と彼自身の生を豊かにする政治への復帰という個人的願望)を伴っているのも、この論理で理解できる。後期の漱石のリアリズム(芸術分野であると写実主義と訳され、当時の日本では自然主義文学と呼ばれた)が、前期の理想主義(漱石はロマン主義をこう理解した)から生まれてくるのも同様である。一般には前者は現実主義者、後者は理想主義者に分類されるが、彼らの思想にはそういった安易なラベルをはみ出すところがある。それが彼らの思想に深みを与えている。

完全に一致するわけではないが、現実主義を支える基礎感情のひとつは保守感情である。それは元来、何かをもっている人の感情である。失うものがあるから、守ろうとする。失うものが何もなければ守るべきものもないから、保守的にもなりようがない。これは法的な意味での私的所有物にかぎらない。親しんだ風景、住みなれた町、先祖から受け継ぎ子孫に遺す土地や郷土。そうしたものに対してもひとは保守感情を抱く。

若者には、主観上は失うものが多くない。実は先代から譲られたものがたくさんあるんだが、その大部分を遺産としてはカウントしてない(他人がもっていて自分にないものだけに注意が向く)。知らずに受け継いだ遺産を織り込んだ状態を、ゼロ地点として考える。若者にあるのは、まだ見ぬ未来への憧れ、新たな可能性への希望であり、何であれそれへの権利を奪おうとするものに全力で抵抗する。であるから、視点を換えてみれば、若者にも保守感情があって、その対象が希望であるとも言える。自分に開かれた可能性を、拡げずとも維持しようとする。そう考えれば、理想主義も保守感情の一種であって、保守派にも若者の理想主義が理解可能なものになろうかと思う。

たとえば、投票行動である。投票を呼びかけるのに「投票して政治を変えよう!」という標語が飛び交う。標語としてはそれもよいんだが、自分が思うに、民主主義が定着し、選挙がハレではなくケ、日常の一部となった社会では、投票にいく人の大半は、何かを変えようとして投票に行くのではない。逆に変えられないように、自分がもっているものを守るために投票所に足を運ぶ。普段投票しないひとが投票所に押し掛けるのは、たいがい自分たちのもっているもの(それが権利であれ何であれ)が侵害された(あるいはされそう)と感じたときである。すなわち、口ではなんと言おうと、極めて保守的な理由で投票してる。

であるから、マキァヴェリアンな基準からは、「変えよう」という標語よりは「守ろう」という標語の方が有効となる。同じ理由から、まだ失うものを多くもってない若者には「守ろう」より「変えよう」の方が魅力的たりうるが、内容を精査してみると、やっぱり若者にも自分のよりよき未来という守るべきものがあるらしい。高等教育の権利などは教育自体の価値ではなく、この希望の実現手段として重視されてる。他に手段があれば、大学進学にこだわるとはかぎらないし、たぶん多くは見向きもしなくなると思う。

理想と模倣

若者の保守主義は、そうした未定の未来への期待と結びついているから、大人の保守主義よりも理想主義的に見える。大人を模倣させられることを拒否して、若者の自我を強く前面に押し出すところがある。だが、この理想はいったいどこからやってくるか。

実は、理想もまた模倣される。いな、理想こそ模倣されないと獲得しえないものである。なんとなれば、まだ現実となってないものが理想である。ないものは経験しようがない。自分で考え出さないかぎりは、誰かの頭の中にしかないんだから、何らかの媒体によってそれが伝えらえないとならない。そして、理想像を具体化するためには、なんらかの言語がそれに関わってる。

であるから、理想とは経験されるものではない。まずは語られるものである。理想を模倣するとは、理想が語られる言葉を模倣するということである。自然な言語能力をもつ者にとって、それは難しいことではない。ただ言語能力に差があって、うまく真似できるものとそうでない者がいるだけである。

知能と知性のちがいについて書いたときに触れたが、世に謂うところの「頭のいい人」とは、多分まずは模倣の上手い人のことである。知能は、成功した同類を正しく効率よく真似をするためにある(というよりも、たぶん模倣に資する各種能力の集合を「知能」という名でくくってる)。しかし、自分が思うに、成功してる他人を上手く模倣して成功した者は、同時にもっとも「頭の悪い人」にもなりうる。論理的にあり得ないことのように思えるけど、知能と知性を区別すると矛盾しない。模倣するだけで成功してしまうと、自分で考えて答えを出す機会をもてないからだ。

であるから、一般に「頭悪い」と言われるような人は少なくとも二つのタイプがいると推論されうるし、経験上においてもそれが認められる。ひとつは模倣が下手な人であるが(言われた通りにできない子なんかがそう)、もうひとつは模倣が上手すぎる人。反対に、「頭いい」と感じられるのは、なんでも言われた通りにできる子に加えて、たいがい何かを模倣しようとして失敗や挫折を経験して、自分で悩んで考えたことのある大人だ。

誰でも模倣から出発する。そして、模倣の方がずっと効率がいい。なんでも自分で考えようとしたら、いくら長生きしても足りない。模倣しながら、次第に自分のモデルを批判的に分析し、修正していくところから、創造的な自分らしさが生まれてくる。模倣が上手く行き過ぎると、かえってこのメカニズムが働かない。

これがリーダーとフォロワーのちがいでもある。今までにないものを最初に創った人と、それを模倣して成功したものでは、後者の方が効率がいいから、模倣されたものがオリジナルを凌駕することもある。そこに進歩が累積である理由もある。だけども、それに要される知性の量がちがう。個人ではなく日本みたいなキャッチアップ型発展を遂げた国全体についても、同じことが言えそうである。同じ成果をつかみ取るにしても、そのために費やした投資の量がちがう。「考え過ぎる」人の数に格段の差があって、それがその国の底力になってる。効率よく真似てしまった国に欠けるのはこれである。

この事情が、自分が「優等生型」と呼んでいるようなタイプを作った。模倣上手な人たちである。知能が高いけど、それがゆえに知性を働かし慣れてない。そういう人が社会に増えた(勝手に増えたんじゃなくて、社会が教育を通じて増やした)。正答率が高くなったけど、正答じゃないことを考えることは委縮させられてる。

理想もまたそうであって、まずは模倣されるんだけど、口真似されただけの理想はやっぱりどこかしら軽い。否定を重ねられてなおも生き残った理想には重みがある。若者の理想はまずは模倣であるから(それ自体は悪いことじゃない)、生きていくうちに放棄されたり、または現実との衝突のなかで磨かれたりする。そういう過程を経て、優等生たちは現実主義的な実際家にもなれば、ベテランの理想主義者にもなりうる。社会として後者をもっと増やせるようになると、世のなかがもう少しよくなるんじゃないか。これが自分が捨て切れない、理想とも呼べんようなケチな理想であるらしい。

政治と理想

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。