世界的小市民の教養主義(何のための教養か)
生まれは卑しくとも高貴な魂がある。ボロは着てても心は錦。勉励刻苦でそうなる人も皆無じゃないけど、統計学上はなかなかそうはならないらしい。外見だけじゃなくて中身、もっとも個人的なものであるとされる趣味でさえ、親から受け取る資本の量や種類(財力、学歴、教養、交際)によってほぼ決められている。
年末にかけて、ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』やゲーテの自伝などを読んでいて、そんなことを自分は思わされた。文化とか教養はエリートの徴である。これを表立ってはいいにくい世の中になって、かえって文化や教養の民主化についても話がしづらくなった。そんなこともあってか、人文諸学なんか有閑階級の趣味にすぎんよ、という告発に、みずからを生き証人として身を委ねるような若い人文学徒がまた増えてるように見える。自分は、それが歯がゆくて仕方がない。
誰も知らない(?)文化の秘密
そのブルデューに引用されてたニーチェの言葉に、次のようなものがある。
もし本当の教養人の数が最終的には信じられぬほどわずかでしかありえないということがわかっていたら、誰も文化=教養など必死に求めはしないだろう。
真の教養人というのは、その本性上、人類のごくわずかな部分である(そして、君もぼくもおそらくその一人ではない!)。みんなが平等であるはずの民主社会に生まれ育ったぼくらにとって、これだけでも十分スキャンダラスである。しかし、ニーチェはさらに続ける。
しかしまたこのわずかな本当の教養人も、もし大衆が心の底で自分の本性に逆らう決意をし、もっぱら魅力的な幻想にまどわされて文化に夢中になるということがなかったならば、おそらく存在しえないことだろう。
このごくわずかな教養人でさえ、永遠の真理とか普遍的な善とかのために教養を身につけるんではない。大衆に優越感を感じるためにそうする。そのために、大衆に自分たちのものではない教養を、ありがたいものだと信じさせないとならない。「だから」、と彼は続ける。
本当の教養人の数と文化の巨大な装置ともいうべき大多数の人々の間のこうした滑稽な不均衡については、何一つ人前で洩らしたりしてはならないのだ。
ほんの少数の人にしか役立たない教養を、万人にありがたがらせる。そうしないと、文化自体が育たない。ニーチェは、教養や文化は万人のためにあるという神話に、容赦なく止めを刺す。
文化の本当の秘密はそこにある。つまり無数の人々が文化を獲得しようとして闘い、文化のために働いており、それは一見自分自身のためのように思えるのだが、じつはただ少数者の存在を可能ならしめるためにすぎないのだ、と。
「文化」とか「教養」と呼ばれるものは、特権者を特権者の地位に維持するためにあるもの、少数の者を他の大多数から切り分けるために作られるもの、つまり階級差別化のための防塁である。そうニーチェは言ったわけだ。
だが、ニーチェはこの秘密を大声で口にした。ニーチェを読める人が増えていけば、この文化の秘密はもう秘密ではなくなる。民主化が進むにつれて、「もし、それが文化とか教養という奴であるなら、余裕のある人が趣味としてやってくれ」という声が出てきても、何の不思議もない。
教養と階級闘争
ブルデューはニーチェのエリート主義を共有していないが、『ディスタンクシオン』は統計データを駆使して、このニーチェの命題を確認した。「教養」とか「文化」が何であるかという問いは、階級闘争と深く結びついている。それを視野の外に置いた教養論も文化論も、自分たちが何をやっているか理解していない。
「教養」や「文化」は金持ちのもので、貧乏人はそれをもつことができない、という単純な構図ではない。ブルデューは資本の量に加えて質のちがいも考慮する。資本にも経済資本と文化資本があって、支配階級内でも前者を比較的多く持つ人々と後者に恵まれた人々との間に対立がある。
このうち文化資本に比較的に恵まれた集団が階級内では弱い立場にある。それが故に、文化エリートは下層の階級と結んで階級内の支配層に抵抗したりもする。
いずれにしても、ヨーロッパでは文化・教養をめぐる問いは、階級闘争と連動している。知識人や大学教授のような文化エリートたちも、彼ら自身がしばしば思いこんでいるように、その闘争の外側に立っているわけではない。
日本の教養階級
しかし、同様なことが日本の教養階級にも言えるだろうか。一般的には当てはまるところが多いのだが、一つ大きなちがいがあるように思える。
近代日本においては、西洋近代が文化的模範とされた。つまり、文化的価値の中心が自国の外に置かれた。であるから、日本などでは教養や文化の問題が国内の階級闘争に止まらず国際化する。そして、教養階級は国内では根無し草となって孤立し、支配階級からも被支配階級からも疎まれやすい。それで教養が重んじられるヨーロッパの階級社会に憧れたりする、という逆説も生じる。そういう面がないだろうか。
ニーチェの文章の「文化」を「西洋的教養」と読み直せば、日本の状況に近くなる。その際の「少数者」は国内の支配階級ではなく欧米の文化エリートになるから、「教養」と国内の支配階級とのあいだに断絶がある。日本の政治エリートや経済エリートが「無教養」に見えるのも、また日本の支配階級から「文化=教養」が冷遇されるのも、ここら辺に原因があるかもしれない。
責任の一半は教養階級の方にもある。知識人が、欧米諸国の支配階級との比較において、国内の支配階級を後進的であると批判する。日本ではお馴染みの風景である。ここにブルデューのいう経済資本と文化資本の対立もあるのだが、国際的な覇権競争がその対立に重なってくる。
日本の教養人は、いわば世界の新興プチブル(小市民)階級である。国内の「大衆」から自らを区別し、支配階級の仲間入りをするために、覇権を持つ国や地域の「上流」の作法を真似しようとしてる。
これが、日本の知識人に妙な屈折を生む。ブルデューがプチブルの特性として挙げたような行動パターンが、日本の教養階級には色濃く見られる。欧米の「上流」の作法を真似しようとして真似しきれない。やりすぎて不十分になってしまう。慣れないナイフとフォークを使えるとこ見せようと思うあまり、お里が知れてしまう。
だが、もっと深刻なのは、下層階級からみずからを差別化しようという努力が、そのまま自国や被支配国・地域の歴史や文化の蔑視や無関心を生みかねない点である。これが国内の支配階級にとっても庶民にとっても、知識人を危険で信用のおけない存在にする。だが、同時に、この同じことが、教養階級を国内で孤立させ、とるに足りない存在とする。ともすると、「愛国心の足りない西洋かぶれ」「文化的裏切者」のようなラベルを貼りつけやすい人々なのである。
教養のグローバル政治
非欧米諸国では文化秩序の中心点が自国の外にあるがために、上昇志向の集団の目標がいわば横にズレる。国内の支配階級の提示する価値を否定し、さらに上位に位置する欧米の(しばしば理想化され美化された)集団の価値を目標とすることができる。「西洋派」「欧米派」「グローバル・スタンダード」などである。
これが国内の批判勢力としての知識人の拠り所であるが、ここに階級闘争に加えて、「文明の衝突」的対立軸が重なってくる契機がある。日本におけるように、勝利した西洋派が新しい西洋派に批判されて「非欧米的」になったり、ということが繰り返し起きてくる。西洋や欧米の意味するもの自体が闘争の対象となるのもこの文脈である。
学者や知識人は、この「西洋的なもの」の正統の解釈を決定し押し付ける役割を果たしてきた。そうすることが、自らの階級的利益の維持・増大のための戦略にもなった。
これに対して、国粋派知識人は文化的エリート集団内の闘争において、官学アカデミズムを中心とする西洋派に反旗を翻す。その際に階級闘争からは距離を置くか、階級闘争自体を巻き込んで自らの地位の向上を図るかで、体制派と反体制派に分かれる。しかし、支配階級と結んで反動的になるか、あるいは欧米に反感を抱く「大衆」に迎合して排外主義的になるか、ということになりやすい。
そう考えれば、日本や他の非欧米諸国の知識人が、トランプ現象やヨーロッパのポピュリズムに対して、まるで自分のことのように感情的に反発する理由も理解できる。欧米において正統的文化=教養が否定されるということは、彼らにとって「自分のこと」以外の何ものでもない。国内の自分の力もこれに影響されるから、まさに自分事である。
なぜ国内の「リベラル」と「保守」が、米国の政治をめぐって論争しなければならないかも理解できる。「リベラル」と「保守」は相同な関係にあって、「プチブル」の「上流」に対する憧れと反発の二側面を反映していて、ちょうど米国国民のそれと相似形である。おそらく、統計学的には、文化資本が多めの人は、米国のリベラルへの同化を志向しやすい。文化資本が少なめの人がトランプを支持するのは、米国のリベラルというより日本のリベラルへの反感である。
日本などにおける政治の対立軸が単純に右左、保守・革新の軸で一元化できないのは、国際的な文化階層秩序に組み込まれてるからである。学者・知識人が覇権構造に取り込まれて、この国際秩序と国内秩序を結びつけるリンクの役割を果たしている。つまり、学問が二重の意味で政治化されてる。国内の階級秩序と国際的な文化階層秩序に関わっている。
「西洋派」知識人の盲点は、欧米の学問の輸入に終始するかぎり、自らがやってることの意味を完全に把握できない、ということにある。欧米知識人には参照すべき文化の中心点は外にはないから、無意識のナショナリストでいられる。これをそのまま日本に輸入すると、自らの学問の政治性が隠蔽されることになる。
日和見主義の教養
この批判は、しかし半面しか的を得ていない。正統的文化=教養が国際的な権力構造と結びついているから、覇権が大西洋から太平洋に移動していくにつれて、学問の世界も大きなパラダイム転換にさらされている。政治学だけではなく、ほとんどすべての分野でそうなると思う。もうその兆しがあちこちに見られる。
日本の場合、目指される「上流」がイギリスかドイツかアメリカかと移りかわっても、プチブル的上昇志向自体は戦前、戦後を通じて変わってない。だから、よほど反省しないかぎり、中国が覇権国として台頭しても、同じような行動をとる人が増えるかもしれない。
結果として、いつになっても、日本的な教養階級は、世界の「上流」からは成り上がりのはったり野郎と見下されながらも、国内の「大衆」からは勝ち馬に乗る者、文化的裏切者として嫌われる。そういうことになりはしないかと、自分なんかは懸念している。
偶然ではあるが、このブルデューの『ディスタンクシオン』は、何かのメディアでとり上げられたらしくて、ちょうど自分が読んでいるときにあちこちで話題になってた。自分はぜんぜん違う経路でこの本を手にとったのだが、自分が図書館からこの本を借り出してるあいだに、後ろに大行列ができててびっくりした。
自分などはいつでも読めるし、別にこの本でなくても読むものがたくさんある。せっかくこんな一般向けではない書をひも解こうという人が増えているのに、自分のような者が借り出していては罰が当たる。そう思って、急いで返却した。
そして、どんな議論が出てくるか、楽しみに待ってた。がっかりさせられたのは、このような教養批判の本を、教養主義的に受容してなんの疑問も抱かないような人が多いのである。自分を「大衆」から区別し、その上に置いてくれるものであれば、何でも「教養」として吞み込んでいく、底なしの胃袋みたいなことになってる。目指すべき教養が何かについては、覇権の移り変りに委ねてる。厳しめの言い方であるが、このようなものが従来から教養主義に投げかけられてきた批判であるから、自分の発明ではない。
どうやら、みずからの世界小市民性を反省することなしに、日本の教養階級が日和見主義的教養から脱け出すことはむずかしい。階級差別化の手段ではない文化とか教養とはいかなるものか。この問いに何らかの答えを与えないかぎり、民主社会における人文諸学の立場は危ういものでありつづける。そんなのが、自分の懸念なのである。
もちろん、これは日本にかぎった話でもない。よく調べていないから断言は控えるが、他の非欧米諸国の新興知識人や教養階級も似たような課題に直面しているのではないかと思う。
自分が国際政治の論文の主題としては異色である柳田国男を選んだのも、この知と国際権力構造との関係に注目したからであった。残りの人生の仕事もその半分は、こんな話を読んで、理解して、いいねしてくれる人を一人でも二人でも作ることであるはずだった。今までいったい何をしてたんだろうかな、といま猛省を迫られてる。
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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。