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秩序なき世界とリスク管理社会
新型のコロナウィルスの世界への拡散が時々刻々と報道されているが、以前にも似たような光景を目にしたことを覚えている人もいるはずだ。2008年に金融危機が世界中に感染したかと思ったら、翌年には「豚インフルエンザ」というものが現われた。
金融危機と同じく、世界中に刻々と感染が広まっていくような過程が毎日報道されていて不気味であったが、結局大したことにはならなかったようだ。だが、この時の震源地はメキシコであり、当時、自分は家族を米国に残して逆単身赴任のような形になっていたから、他人事じゃなかった。
しかし、よく考えると、昔は知らないうちに広まっていた流行病の発生がかなり早いうちから監視下に置かれて、その情報が一瞬のうちに世界中で共有する体制が出来上がったということでもある。昔の小説に出て来るペスト対策なんかに比べても、どうやら人類の疫病に対する管理能力は格段に向上しているらしい。報道過剰にうんざりする面もなくはないが、ありがたい話ではある。
天災が人災になった
だが、知ったからといって不安が収まるわけでもない。かえって、知ってしまったことにより余計に不安になる。知らなければ、天災として「運が悪かったな」で済んだのだろうけど、知ってしまったからには、流行病を抑える責任が生じる。
ウルリッヒ・ベックという社会学者が書いているけど、現代社会とはリスク社会。科学技術の進歩でかつては人間の能力の及ばなかったリスクのコントロールが可能になった。
でも、新たなリスクの発見はそれを抑制する必要を生み出し、終わりのないリスク・コントロールの悪循環に陥る。インフルエンザが天災であったころは、流行がやむまでじっと待っているくらいしかできなかっただろう。インフルエンザのワクチンや薬がなければ、死者が出ても「遺憾」で済んだ。
でも、インフルエンザの原因がわかって、その感染の経路が明らかになって、しかもワクチンが開発されてしまうと、天災は人災になってしまう。誰かがやるべきことをやらなかったから疫病の拡大が予防できなかったとか、抑止しきれなかったことになってしまう。
責任者出てこい
簡単に解決しない問題に直面したとき、人間というのはまず「悪者」探しをするものらしい。当時のNYタイムズに、「豚インフルエンザ」と言う俗称の政治的・経済的・外交的な影響の面白い記事が出ていた。
養豚業者にとっては「豚インフルエンザ」というのは迷惑な名前である。そもそも、「豚インフルエンザ」のウィルスというのは鳥インフルエンザと人間のインフルエンザのウィルスが混ざってできたようなので、「豚」だけ名指しというのはおかしい、ということだ。
それで「メキシコ風邪」と呼ぼうという人がいる。豚肉の輸出国であるタイや豚を不浄なものとするユダヤ教徒が多いイスラエルがこれに同調している(イスラエルの場合は国民が「豚」という不浄な言葉を口にしなくともいいようにという理由で)。
でも、これはメキシコに迷惑な話である。実際、感染の拡大をメキシコの初動の遅れに帰するような論調も見られはじめた。それだけじゃなくて、メキシコの医療水準や貧富の格差なんていうところまでつつく人たちが出て来た。在中国のメキシコ大使は、過去流行したインフルエンザの多くは中国南部で発生しており、メキシコにも誰かが持ち込んだに違いない、なんて発言したらしい。
WHOは、はじめて感染が確認された地域の名前をつける前例に倣って、「北米カゼ(さすがにメキシコ風邪と呼ぶのは気が引けるらしい)」という名前で呼ぶのが適当としている。でも、米国政府のスポークスマンは「H1N1ウィルス」という「科学的」な名称を使用しているらしい。
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