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12月のアラビアンナイト
東京の小平市にある1DKのマンションの一室で、サトルは隣で寝息を立てている恋人のエリカを起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
冬の朝日がカーテンのあいだから小さな部屋へ差し込んでいる。ひんやりと寒い。
白いあくびを吐きながら隣のキッチンへ向かい、昨日冷凍しておいた夕飯をレンジで温め、手早く静かにスープを作る。
サトルとエリカはもう一年程、この部屋で一緒に生活をしている。付き合ってニ年を超えた。
互いに地方から出て来てこの街で出会った。
元々はエリカが一人暮らし用に借りた部屋で、そこにサトルが身の回りの荷物だけを持ってやって来た。一緒に住もうよと、エリカが誘ってくれたのだ。サトルの住む部屋は隣の街にまだ残してある。
エリカは都内の特別支援学校で新米教師をしている。
仕事から帰ってきても、いつも夜遅くまで机に向かい生徒への指導計画書を書いている。
その一方でサトルは、輸入インテリアを扱う会社を鬱で一年も休職している。いつも出来ていた仕事が急に出来なくなったのだ。
復帰するなら目処もそろそろ立てないといけない。
けれど、鬱になって外にもなかなか出られない。他人の目線が怖い。
そんな自分にエリカは一緒に住もうと言ってくれた。
せめて何かしなきゃ申し訳ないなと思い、この部屋での家事をはじめた。彼女の為に出来る事をしたかった。
「おはようサトル」
カーテンを開ける音がして、エリカが眠い目を擦りながらキッチンへやってくる。
「うん、おはようエリカ。朝ごはんもう出来るよ」
「毎朝頑張って早く起きてご飯作らなくても大丈夫なのに。でも、ありがとう」
そう言ってエリカは優しく笑う。
「僕がそうしたくて作ってるんだ。それにエリカはいつも仕事で疲れてるでしょ」
サトルは照れながらもそっとエリカの頭をなでる。
朝のやり取り。いつもの会話。
二人でリビングのテーブルへ出来上がった朝ごはんを運び、いただきますと手を合わせる。
TVで朝のニュースを見ながら少し急いで食事を済ませ、エリカは仕事の身支度を始める。
「そろそろバスの時間。行ってくるね。今日は早めに帰れると思う。無理しないで過ごしてね」
「いってらっしゃい。鍵閉めとくよ、仕事終わったらまた教えて」
コートを羽織りマフラーを巻いた後、バタンと扉が閉まり、エリカはマンションの階段を降りて近くのバス停へ向かう。そこからバスで駅まで10分。中央線に乗り換え、電車で40分ほど掛けて職場へと出勤する。
程なくしてサトルは食べ終わった食器を洗い、そのまま部屋を片付ける。今日はキッチンとリビングにも掃除機をかけ、少し寒いけれど換気の為に窓を開ける。
冷たい密度の詰まった空気が流れ、冬の匂いが鼻を突く。好きな匂いだ。
部屋着のまま着替える事も無く、この部屋で一日を過ごす。
体調の良い日は近所くらいになら買い物に出掛ける事は出来るけれど、あまり長くは出ていられない。
鬱が酷い時になるとTVも音楽も、外部からの情報を身体が受け付けず、ただずっとうずくまって過ごすしか無い。
どうにかしたくても、どうにもならないのだ。
それでも今日はまだ体調は良いかもしれないと感じながら過ごしていると、サトルのスマホが鳴る。
東京へ出て来た大学の時からの友人、シゲオだ。
シゲオは東京の撮影スタジオで働きながら、ゆくゆくはフリーの写真家を目指している。痩せ細っていていつも不健康そうだ。
「ようサトル、久しぶり❗️元気になったか?」
「うん、まあ、ぼちぼち…w」
「また今度会おうぜ😁
お前、インスタもTwitterも全然更新してないから皆んな心配してるぞ。出れるようになったら出て来いよ❗️」
「うん。まあその内にな…w」
シゲオは時々こうやって気を回して安否確認の連絡をしてくる。付き合いも長い。
SNSで仲良くなったネットだけの友人は、もうあまり連絡はしてこないし、そもそも最近はインスタもTwitterも開いていない。
シゲオとのやり取りも終わり、洗濯を終わらせて夕方まで部屋で過ごしていると、エリカから連絡が入った。
「今日、早く帰れそう!一緒に晩御飯の食材を買いに行こうよ。で、一緒にご飯作ろう。帰りに寄るから20時くらいにヤオコーで待ち合わせね。駅からバスに乗ったらまた連絡するね」
ずっと部屋に居るサトルに少しでも外出させようと、早く帰れる日にエリカはそうやって気を使って連れ出してくれる。
そしてサトルはそんなエリカの優しさに背中を押され、感謝し、少し緊張しながらも部屋着から外出用の服へ着替える。
さむっ…
そう呟きながらサトルはベージュのコートを羽織り夜道を歩いて近くのスーパーマーケット、ヤオコーへ向かう。
待ち合わせはいつだって胸が高鳴る。体調が戻れば、前みたいにまた色んな所へ二人で出掛けたい。
そんな日を早く取り返したい。
ヤオコーへ近付くと、エリカがバスを降りてこちらへ向かってくるのが見える。
普段は凛とした表情をしていて、周りからは隙のない人間だと思われているらしいけれど、末っ子の彼女は本当は人懐っこい。
周囲に人が居ないと途中、わざと物陰に隠れたりしながら歩いている。
「おかえり」
「えへへ、ただいま」
ヤオコーの入口へ向かう。
エリカは店の自動ドアの直前で両手を真っ直ぐ前に出し、掌を近付け自動ドアの開くタイミングに合わせてそれぞれ左右へ開く。
まるでアラビアンナイトの魔法で扉が開いたように。
振り返るエリカにサトルが言う。
「今日は何食べたい?」
二人が店内へ消えていく。