狐につままれた日
夢か現か、幻か。
夏某日、伏見稲荷大社にて。
少しひやりとした出来事。
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京都駅からJR奈良線に乗って五分。あっと言う間に稲荷駅に到着した。
目的地はもちろん、伏見稲荷大社だ。
「ははは!人がゴミのようだ!」
駅を出ると同時に、ムスカ大佐よろしく、心の中で叫んでしまった。
ここは駅前。まだ境内でないのにも関わらず、黒山の人だかりだったのだ。
踵を返したい衝動に駆られる。人混みは苦手だ。
「でも、せっかくここまで来たのだから」と、私はこの人海に飛び込むことを決意して、駅前にある大鳥居をくぐった。
「やっぱり帰ればよかった」
千本鳥居に差し掛かってすぐ、後悔した。
千本鳥居は一本道。道幅も広くは無い。
そこに参拝客が一気に集中したので、渋滞が発生していたのだ。
ここは真夏の京都。
人の熱気も相まって、千本鳥居の中は蒸し風呂状態だった。
「蒸されそう…肉まんの気持ちがわかる…」
と訳のわからないことを考えながら、千本鳥居を進む。
人が多くて思うように歩けない。
雑踏にかき消され、蝉時雨も聞こえない。
暑さで頭もぼんやりする。途端に頭が重くなる。
頭の重さに耐え切れず、思わず下を向いた。
そう言えば、成人の頭は5kgあるって聞いたことがあるなぁ。
がくりと垂れた頭が一層、重くなった。
…………。
あれ…?
蝉時雨が聞こえる。
さっきまで聞こえなかった蝉時雨が、はっきり聞こえる。
ぱっと顔を上げた。
人が、いない。
えっ、と振り返る。
いない。
先ほどまで溢れかえっていた人が、どこにも。
蝉の鳴き声が千本鳥居の中に響く。
ぽつんと一人、呆然と蝉の合唱を聴いた。
ここは一本道だし一方通行だし、そもそも渋滞する程の人出で…
ああ、蝉時雨が見事だな...夏だなぁ...じゃなくて人、人がいない...
先ほどまで人の多さに辟易していたのにも関わらず、掌を返したように不安になった。
確かに人混みは疲れるけど、だからと言って人っ子一人いないのはちょっと、ほら、ね!心細いから!
と、心の中で訴えた。誰に向けてかはわからないけれど。
不安なら来た道を戻ればいいのに(どうせ人がいないのだから)、「ここは一方通行だから」と律儀にそのまままっすぐ進んだ。
動揺のあまり、の行動だったのかもしれない。
さっきまで大勢いた人が忽然と消えてしまったのだから。
動揺しないわけがなかった。
蝉時雨しか聞こえない、がらんとした千本鳥居を足早に歩く。
この先に、人がいることを願いながら。
絶え間なく続いた鳥居の列が途切れた。
奥社の奉拝所に着いたのだ。
参拝をする人、おもかる石を触る人、
狐の形をした絵馬にお願い事を書く人。
人いるじゃん!あーもうびっくりしたー!
そりゃそうだよ人がいなくなるなんてそんなことあるわけない。
ほら、暑さでぼんやりしていたし、きっとそのせいだ。
人が消えるなんてそんな、ないない。
久しぶりに焦っちゃったよ。ああもう本当にびっくりした。
あー良かった!
奥社奉拝所より先へ進んだ。
奥社で引き返した人が多いのだろう、がらんとしている。
神社と言えど、ここは山。
参道は緩やかに上り坂で、正直疲れる。
履きなれたスニーカーで来たけれど、足も痛くなってきた。
私も帰ろうと思った時、浴衣を着た男女の後姿が前方に見えた。
浴衣で、しかも下駄で、ここまで来るなんて凄いなぁ。
と不思議に思いながら、その絵になる風景にシャッターを切った。
……いやいや、いやいやいやいや。
見間違い、見間違い。
そう、見間違いだ。きっとそう。
まったく、動揺しすぎでしょ。落ち着いて私。
もう一度確認しよう。あっ、拡大すればちゃんと見えるかもしれない。
今撮ったばかりの写真を拡大表示する。
カーソルを男女の足元に合わせ、足元から頭の方向へ少しずつカーソルを動かした。
足、胴、胸部、肩……
…………。
…………………。
知らない、何も知らない。何も見ていない。
写真を消した。
そして、足早にその場から立ち去った。
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伏見稲荷大社。
ここはお稲荷さん。
狐に化かされたんです、きっと。