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#70 こんなことがあった(父、ため池で釣りを楽しむ)
小学校3年生の夏に、大阪府下の熊取町に引っ越した。
父の勤務先の関連会社が開発した建売住宅を購入したためだ。その前の枚方市までは社宅(ただし、枚方市はそれまでの集合住宅とは異なり一軒家の社宅)だったが、ここで建売とはいえ新築の家に引っ越したので、親としてはひとつステップを上がった感じで嬉しかったのではないかと思う。
家はイオン日根野店や大阪観光大学の近くだが、引っ越した当初は両方とも存在せず、前者の場所はだだっぴろい採石場みたいなところ、後者(最初は明浄短期大学?)はため池が連なっていたと思う。日根野といえば、日本史をある程度学んだ人だとすぐに「日根野荘」が連想するらしいが、そのまさに荘園のためのため池がいくつかあるだけの手つかずの土地で、焼け残ったような不気味な木が連立していたり、ハトの野太い鳴き声が響いていたりしていた。
家を購入してようやく一国一城の主みたいな気分になったのだろうか、この数年は父が家に人を招いたりした、家や家族に関心があった時期だと思う。もっとも同時進行で家のローン返済のために母が節約して貯めたお金を「交際費」で使いつくしたり、知らない間に借りたサラリーローンの返済が滞ってローン会社から厳しい文面(見ていないが母から聞いた)の督促が届いて母を脅かせたり、借金返済のために母が内職や学童の指導員などを始めた時期でもある。家族の団らんというのは地獄と紙一重なのだなと思う。
「釣りは鮒に始まり鮒に終わる」という格言があるらしい。
その言葉を何度も口にしながら、接待ゴルフなどのない週末になると、父はため池に釣りに出かけるようになった。
目の前の池なので、釣り道具と、釣果を収めるクーラーボックスを持っていくつかあるため池の、比較的奥の方を縄張りみたいにして釣りを楽しむようになった。そのうち、同じように暇を持て余したのか釣りが好きなのかはしらないが近所に住んでいるらしい老人と適度な距離を置きながら釣りを楽しむときもあり、あるいは桃谷に住んでいた弟(叔父)を誘って釣りを楽しむときもあった。そうして、その父のもとへお弁当を届けることが私の役目となった。弟は今で言えば多動気味の要配慮児童みたいなところがあって不注意による事故に何度も巻き込まれていたので、お使いに行かせたら池に落ちてしまうだろう、そんな可能性を懸念した母によって、そう決まった。
今から考えると、既にその当時も、たとえば下校途中の女子児童が玉ねぎ小屋(玉ねぎを干しておく小さな小屋)で変質者に襲われたことを耳にすることはあったし、かなり後とはいえ平成15年に発生した未解決事件として、吉川友梨さん(当時小学4年生)が行方不明になったが、子ども、特に小学生の女の子が襲われたり事件に巻き込まれるといった可能性を考えるようなことは両親ともになかったらしい。
運動会にもっていくような二段か三段のお弁当箱に、おにぎりとおかずを詰め、冷やしたビールも持って、昼頃になると父がいるだろうため池に向かった。多分歩いて20分程度だったと思うが、人気のない、車が通った後はあるとはいえ草が生い茂る場所を突っ切っていかなければならなかったため、子どもなりに神経を研ぎ澄ませて、多少おびえながら父のところへ行ったような記憶がある。そして、今更ながらによくぞ無事だったと自分で自分の幸運をほめたたえたいような気もする。ちなみに何かとタフなので、慣れてくると野イチゴをむしって食べたりもした。私は完璧にインドア派なのだけれども、子ども時代のこの手の体験があるので、想像されるよりはちょっと野生児みたいなところがある。
緑色のヘドロが浮いたところもあった、決して「清流」みたいな場所ではないため池の、護岸工事というのだろうか、ブロックが埋められたすり鉢状のため池の水際に、ポロシャツ+短パン+カラフルな帽子といったお気楽な格好をして釣りを楽しむ父がいた。釣り用に折りたたみ椅子みたいなものを買って、それに座っていたと思う。
鮒釣りはウキの動きに集中しなければならないので、大きな音を立ててはいけない。父を見つけると、静かに静かに近づいて、そうして父が私に気が付いて声をかけてくれるまで傍で静かに座ってその瞬間を待つのだった。
気づかないわけはないと思うけれども、すぐに気づいてくれる時もあれば、そうでもない時もあった。後者の場合は釣りが思うようにいかなくて少しイラついている時なので受け答えに注意しなければならないとわかっていた。
しばらくすると「おう、来たか」と父は言って、私が来るまでに鮒が連れている時は機嫌よく、そうではない場合は釣れない理由を何かしら言ってから、日によっては弁当箱を開けておにぎりを手渡せ、あるいはビールを寄越せなどと言い、助手のように私は父の指示に従うのであった。父が釣りを通じて多少の会話を楽しむようになったお仲間みたいな老人と食事を分け合うことは、私の記憶の限りではなかった。そういうところのガードは堅い人だったので、何か共有したり交換したりしたとしてもせいぜいビール缶程度だったのではないかと思うし、それもまあなかったような気がする。
時には父が食事をする間の竿を任されることもあった。失敗するわけにはいかないのでウキの動きをじっと見て竿を持っているものの、気づかない間に餌をとられることもあって、そんな時は「母さんに似てどんくさいよな」と言われるのだった。
そうして、父の食事が終わるとお弁当の空箱や、時によっては「そろそろ帰るから先にこれを持っていけ」と、魚が入ったクーラーボックスを運ぶように言われることもあった。今にして思えば私ってとても健気じゃないか、なんでそこで「嫌」と言わなかったんだと不思議に思うが、当時は親から用事を言いつけられること=頼りにされていること が私の存在意義みたいだったので、不満に思うことはあまりなかったようだ。
一時期は、「どんくさいお前でもできるから」と、モロコの瓶釣りを思い立ち、プラスチック製の瓶釣りの道具を父が買い、釣りを始める時に瓶を沈めて置き、私がお昼ご飯を持ってきたと時にその瓶の引き上げるよう言うこともあった。ゆっくり瓶を引き上げると何匹か魚が入っていて、それはとても嬉しかった。朝から昼食時、昼食時から帰宅する時の2度、瓶釣りは行われた。
釣った魚は、モロコは唐揚げ、鮒は煮つけにしたものだった。体が弱く実家では家事などはしなくていいと言われてお嬢さん扱いだった母は生きた魚をさばくことができず、しかも大騒ぎをするので、鮒については文句を言いながら父が料理をしていたようだった。母が強気な言い方をする時だと多分「釣った人間が責任をもってどうにかしろ」と言っていたと思う。どちらにせよ私は助手としてその作業に関わっていたが、弟がその場にいた記憶はない。
九州(熊本)の人で醬油を多く使うため、というか、味付けは焼酎、醤油、砂糖だったと思うけれども、辛くておいしいと思うことはなかった。これに似た味はその後ベトナム旅行中に昼食付の現地ツアーに参加した時に出た料理と同じだったので、その醤油味がきつすぎる魚を食べた時に父を思い出した。
モロコについては、衣の準備を母がして、まだ生きている魚に衣をつけて油に放り込む作業は私がしたような気がする。こちらは唐揚げなので基本的にまずいはずはないが、内臓などを取り除かない唐揚げなので、その苦みと骨があまり好きではなかった。(ちなみにそれから十年くらい後になって、魚にはそれほど痛覚みたいなものがないと聞き知ったらしく、母が生きた魚を料理するときに騒ぐことは減った。)
この数年間の父のため池での釣りは、おそらく父の沖縄への単身赴任で終わりを迎えたのだと思う。
もともと一人で家の中で本を読んでいる方が好きで、友人宅で遊ぶのは「集団登校」の関係でコミュニケーション維持のためにするべきなのだろうなという感じだったので、釣りをする父のところへお昼ご飯を持っていくのは嫌いというほどのことは無かったけれど、その道中はやはり怖かったと思う。その怖さを訴えて問題を解決してもらえるような環境で育っていないことは、これは私にとって不幸だったとやはり思う。
うるさい父が釣りで不在、この間に家事をしたり近所の人とおしゃべりができると思ったのだろうか、母が私に付き添うことはなく、他のことと同じように「あんたに任せたわ」という感じだった。多分、近所に出かけた時は弟を伴っていたのだろう。後々、「普通だったら、父親は息子と触れ合うもので、キャッチボールをやったりするのに、あんたがその機会を奪った。」とこれもまた、それはひどいな、と思うような非難の一つとして私の性格の悪さを物語る際に言われたものだったが、父の世話を私に押し付け、もう一人の世話の焼ける弟に集中することを選んだのは母であり、大人と子供(小学生)の力関係を考えれば、筋が通らない非難だと思う。
とはいえ、たいていのことは結果オーライなわけで、女の子ではあったが最低限の釣りの知識があって釣りができなくもないこと、瓶釣りを体験していたこと、魚を丸一匹買って家で捌くようなことはしないとはいえ何となく魚の料理ができるかもしれないと思えることなどは、悪くはなかったと思っている。
子どものリクエストで、子どもが小学校中学年になってから何度か釣り堀に連れて行っている。針の扱い、餌のつけ方、魚が餌に食いついた時に引き上げるタイミングなどは釣り堀での釣り体験を通じて子どもは身に着けているが、魚を針から外すことは暴れる魚が怖くて今でもできないらしく、「お母さん、お願い」と言われる。ばたばた暴れる魚は面倒だけど、針を外すことは騒ぐこともなくできる、そういうのは小学校の時のあのため池の釣りの体験があるからだろうなと思っている。