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#72 こんなことがあった(青春18きっぷの思い出1:青春18きっぷを知る)

2024年冬からもはや別の存在になってしまった「青春18きっぷ」。
大学でその存在を知り、特に大学院時代には大変お世話になりました。そこで今回はその思い出についていくつか書き留めたいと思う。今回はまず「青春18きっぷ」を使い始めた頃の話。時代としては1990年初頭です。

「青春18きっぷ」の存在を知ったのは、電車通学をしていた中高生の頃だと思う。改札後の階段を上った渡り廊下的な場所に貼ってあったポスターのひとつがそれで、18歳になったら「青春18きっぷ」を使って旅を楽しむのだろうな、それはいいな、と思っていた。そう、この時にはこの切符は年齢制限(18歳にならないと使えない)と思っていたのだった。

どちらかというと堅物だったのと、中高時代は通学(片道1時間ちょっと)と進学校ならではの大量の課題でいっぱいいっぱいだったのと、周囲に列車旅の嗜みのある人がいなかったので、「青春18きっぷ」に関する関心は薄く、ただ、駅で旅に誘う「青春18きっぷ」のポスターを見かけると、ああ、夏休み(冬休み、春休み)が近づいているからな、と思う程度だった。

実際に「青春18きっぷ」がどのようなものかを知り、そして使うようになったのは大学に入ってからのことだった。当時は5回分1セットがひと綴りで(多分1セット11300円?)販売されており、また、大学生協(および多分チケットショップ)にはそれがばらけた形で販売されていた。1回分だと2000円+α。

大学1年の夏に「上野発の夜行列車」に乗って、連絡船ではなく海底駅(竜飛海底駅)経由で札幌に行ったりする旅行サークルにも入っていたこともあったので、多分、そのサークルメンバーの鉄道ファンから情報を得て、じゃあ使ってみようと思ったのではないかと思う。

大阪の実家まで、「青春18きっぷ」を使い、「ムーンライトながら」に乗っていくというルートがあることを知ったので、挑戦することにした。この当時(1990年初頭)はインターネットで検索すればある程度の情報を入手できる時期ではないので、サークルの先輩に尋ねたり、時刻表で調べたりしたのだと思う。

東京駅で日付が変わる最初の駅の横浜まで(600円位)のチケットを購入して、23時台の「ムーンライトながら」を待つ。飲み会帰りの会社員たちが帰宅を急ぐ中、彼らの邪魔をしないように、しかし席を取れないと大変なので、「ムーンライドながら」乗車予定の人達が並び始める頃を見計らって、出来る限り列の前の方で電車を待った。

立っているのに多少疲れた頃に「ムーンライドながら」がホームに入って来て、ドアが開くと、我さきに席を確保するために急いで電車に乗り込んだのだった。リクライニングシートなどない時代なので座席は硬く、熟睡はしないまでもうとうとすることを考えると窓際の席を取ることができれば上等、という感じだった。こちらは終電に近い存在だったので、「青春18きっぷ」で長距離移動をする人と、首都圏近辺の家に帰る会社員が混在していて、東京駅出発当初は満員、ということもよくあった。会社員が下りたあたりで通路に新聞紙を敷いて座り込む人も見慣れた景色だった。

23時なので、気を抜くとうとうとしそうになりながらも、東京からだんだん離れていく景色を眺める。横浜駅あたりで日付がかわり、帰宅する人達が下りて行った車内は、いろいろな目的があって長距離移動する+「青春18きっぷ」利用者が多数を占めるようになってくる。繰り返しになるが、1990年代初頭、windows95発売前、携帯電話もまだ普及していない時代なので、写真を撮ってSNSに投稿することが無く、黙って電車に揺られている乗客がほとんどだった。

「青春18きっぷ」利用者になれた車掌さんが、横浜駅を出た後に車内に現れると、東京駅から横浜駅までの乗車券と、日付が入っていない「青春18きっぷ」を出して、「青春18きっぷ」に日付を入れてもらい、そこでようやく新たな一日をめいいっぱい電車に乗っても大丈夫なのだと安心して、窓側の壁にもたれてうとうとしたりするのだった。

ひとりで行動しているし、車内で盗難事件が発生したことに遭遇したこともあるので(名古屋に近づいたあたりで、「あれ、無い、泥棒?」といった感じの声があがりざわざわした)、完全に気を緩めることはできないけれど、それでも、不正乗車ではなくちゃんと「青春18きっぷ」を使っている、という安心感で、抑え気味の明りになった車内からの外の景色を眺めたり、うとうとしたりして夜明けを待つのだった。

季節にもよるが、少し外が明るくなってくると、名古屋駅が近づくころだった。大阪に生まれ、転勤族だったので親の仕事で引っ越しを何度かしたとはいえ、基本は大阪で育ち、そして大学で東京に出てきた者にとって、名古屋は「名古屋飛ばし」と言われていたように、大きな町らしいけれどよくわからない場所という認識だった。外の景色も、当時は大きいけれど「大都市」っぽくはないなという感じで、「ああ、これが名古屋なのか」と思って眺めていた。この時はまだ名古屋に降り立ったことは無かったか、あるいはその前後に能楽部の全国大会で来た程度(新幹線往復)だったので、名古屋というのは未知の存在だった。

「ムーンライトながら」は大垣行で、今から思えば大垣経由ルートも試しておけばよかったと思うものの、目的地は大阪なので、名古屋で下車。その後、四日市―亀山―加茂―奈良ー天王寺―泉州地域の自宅 のルートで、午前10時位には実家最寄り駅には到着したと思う。四日市はアナウンスなどが東日本っぽいのに、亀山からは西日本のイントネーションになることや、亀山からの電車のモーター音がにぎやかで、何か「旅をしている」感じがして楽しかった。

未だ、女性は短大でいい、四大に行かせるのは贅沢だ、という認識の人が多かったり、大阪をはじめとする近畿圏には大学がたくさんあったので、それにもかかわらず東京の大学に娘を出すことは贅沢だ、という圧力みたいなものを家庭の内外で感じさせられる時代だったし、弟がいる身で高いお金を払って東京の大学に通わせてあげているんだ、贅沢をさせてやっているんだ、ということは絶えず母から言われていたので、片道3000円で東京から大阪に帰ることができる「青春18きっぷ」はとてもありがたかったし、時刻表でおおまかな行程をチェックしておけば、あとは電車でどこでも行くことができるのだという点で「青春18きっぷ」はキラキラとした存在だった。

学費とか生活費の仕送りの金額は当然知っていていたので、ちゃらちゃらとした大学生活を送ることは許されないのだとわかってはいても、どこかに行ってみたいという欲望もあったので、「青春18きっぷ」には大変お世話になった。

東京から大阪にもどる時によく使っていた「青春18きっぷ」の別の話、また、一番よく利用していた大阪の大学院時代の話はまた別の機会にまとめたい。