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#44 こんなことがあった(「纏足しなさい」)

150センチの母と180センチの父のもとに生まれた私は身長164センチ。
ただし、警察官だった隣のおじ様が「彼女の歩き方を見習いなさい」と娘さんたちに言った程度に姿勢が良かった(態度が大きかった)こともあって、170センチ近くの弟と同じか、それよりも大きい人と思われることが何度もあった。

そして私の足の大きさは、26.5センチ。幅が広いので男性用だと25.5~26センチだ。最近はそのあたりまで商品展開してくれている靴も増えたが、たいていの靴が24センチ止まりだった時分には、私の足は大きすぎた。

「馬鹿の大足間抜けの小足」というように、一定の基準値から大きすぎても小さすぎても、それを揶揄するフレーズがあったということは、日本人が好きな「型」にはまらないという意味において排除される存在であるかもしれない。ただ、ちょっと考えて欲しいのは、成育過程において身長その他が伸びていくことをどうして否定的にとらえられなければならないのだろうか。

150センチの母の足は22.5センチだった。女性の靴が22センチから24.5センチに集中していた時分には、母の足のサイズだとデザインも豊富だし、セール品も豊富にあって、お手軽価格でいろいろなデザインの靴を楽しめていたことは事実だ。他方において、私の様に24.5を超えてしまうと、スーパーによっては無い「大きなサイズ」のコーナーを見なければならないし、そこにある靴はバリエーションもないし、しかもセールにはならないので、それ以外の場面でも母に言われた「高くつく」こともまた事実だった。

でもちょっと考えて欲しいのは、大量に生産して販売する側のことを考えれば特定サイズ、特定の型で多少バリエーションを持たせたものを大量に作ることは合理的だろうと思うが、人間ってそんなにある一定の型の人ばかりいるのだろうかということだ。一定の型から外れる体型はそんなにダメなことなのだろうか。

中学生の頃には身長も足もそこそこ大きくなっていた私に母が頻繁に言った言葉が、「足が大きいと高くつくので纏足しなさい」あるいは「気の毒なので(=靴のバリエーションが無いのは気の毒なので)纏足しなさい」だった。こういう言葉は息子には投げつけられるものだろうか。

確かに、サイズ的にも靴を見つけることは難しくなるし、靴は足に合えば良いということが基本になるのでデザインは二の次になるし=ダサくなるし、というのは事実だった。お洒落な靴よりもまず履ける靴を探さなければならず、探すのに苦労していたことは事実だった。ただし、それは成長する子どもに対して適切な言葉だったろうか。

あまりにも「纏足しなさい」と母が言うので、中学時代に岡本隆三『纏足物語』(福武文庫)を講読したが、幼少期に足の指を折って緊縛するようなこと、あるいは自由に歩いたり走ったりすることができなくなるようなことを、冗談であっても娘に言うのはいかがなものかと思った。それを告げても「セールで靴を買えないあんたの足が悪い」と言われて、もういいや、と思ったのだった。

靴だけではなく、身長も当時にしては高い方で股下にあったパンツを探すことも大変だったのだが、今にして思えばさっさと男性用衣類から探せば良かったと思う。また、今ではパンツについてはユニクロなどが商品のサイズを豊富に展開してくれているし、ユニセックスな服も靴も増えてきたので、そういう意味では私の様に平均的なちょっと小柄の女性ではない人にとってはマシな時代になったと思う。

性別に分けて、特に女性については全て小さめが望ましいというような既成観念みたいなものが薄れてきたことは本当に有難い。

そして、私の息子は、多分私に似て、小学生にもかかわらず既に足のサイズは28センチを超えている。玄関先にある靴を見ると、「でかいな」と思ってしまう。それでも、子どもの足が大きくなったり、身長が伸びたりすることを決して否定的に判断したくはないし、靴については親のプライドにかけてでも子ども足にあった靴を探し求めたいと思っている。