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#31 こんなことがあった(娘は母の愚痴の聞き役なのか)


河野貴代美『1980年、女たちは「自分」を語りはじめた フェミニストカウンセリングが拓いた道』を読んでいた。この本はタイトル通り、日本においてフェミニストカウンセリングを導入しかつ定着させた一人者である河野さんのこれまでの取組や葛藤を主に描いた自伝みたいなもので、フェミニストカウンセリングについて多少関心があり、また、登場人物の本を別途読んだことがあることもあって、語彙が乏しくて恥ずかしいが、「そうだったのか」と思うところが何か所もあった。

その本筋とは言えないところに、とはいえ、フェミニストカウンセリングの基本姿勢に関わるところではあったが、私が母に対するモヤモヤの感情に関する描写にぴったりくる叙述があった。

以下該当箇所を抜粋
”フェミニストカウンセリングで目指す回復=成長論は、まずこの「内なる少女」への認識から始まります。
 これはもともと自分自身が満たされていないという欠損感を持った女性のことです。特に女の子は、素直でやさしくあることが望まれるし、母は夫や彼の親族との葛藤で、娘をカウンセラー代わりにして愚痴をいい、娘自身が求めている要求を掬い取る必要に気がつきません。娘もこの立場に慣れてしまう。これは、フェミニズムが問題視してきた「母‐娘問題」です。端的に言えば、母親は、あまりにも娘との距離が近いために、娘を同一化しており、自己の延長として見ています。自分と違う要求を持つ娘を制御するし、特には怒りを持ってしまいます。
 そこで娘は他者優先志向に走り、防衛的になり、親密さ、援助が必要な時の依存のしかたがわからない等の弱点を持ちはじめます。これが「女らしさ」のジェンダー規範に含まれる受け身性、従属性、消極性、過剰反応、他者優先であり、幼少時から自分の精神的要求を抑制するようになっていきます。いうまでもなく、これらは自己評価の低さを招来し、自己受容を妨げます。かつて評判になった「愛しすぎる女たち」です。愛しすぎるとは、逆説的な表現で、愛しすぎる、つまり相手に身も心も捧げてしまい、自分にまったくかまわない状態を指します。もう少しいえば、相手にかまけて自分自身の問題から無意識に目をそらそうとするような状態、そのことが自分に必要である状態のことです。
 いってみれば母親自身もこのような体験のもとで育っているのです。”
抜粋ここまで。

幸いなことに私はどちらかというと自己評価は低くはなく、海外の知人からも日本人にしてはめずらしいself-esteem があるねと言われたタイプではあるけれど、それでも若い頃は自分よりも他人の快適さを優先して先回りして気を配るタイプだったし、割と厄介ごとを抱えていた時も他人に頼ることなく自分でどうにか解決した後になって、「なんでそれを誰かに相談しなかったの?」と問われたりしてようやく「あ、自分のことなのに他人に助けを求めていいんだ」と思った程度に自分を後回しにすること、自分のことで他人の手を煩わさないことが当たり前だと思っていた。

また、これは大学時代にぐさりと刺さった言葉があって、それ以来自覚的に変えようとしてきたことだが、
「あの子、いつも人の顔色をうかがっていて、気持ち悪い。」
と言われたことがある。
私に話しかけるわけではないが、私に聞こえるように言われた。

これについて、確かに私は心当たりがあった。家において、つまりは母の管轄下において、私は周囲に気を配り、何かよくないことが起きないようにできるかぎり注意をする必要があった。典型例は弟が何かしでかさないように注意をすることだが、それ以外にも母が父の機嫌を損ねすぎないように父の感情の機微を察するだとか、ストレスを抱えると睡眠不足になって体調を崩す母のストレス原因になるようなことをできる限り排除するとか、そういうことなど。

勿論、子どもの頃はそれらについて十分に対応できず、自分が何かを楽しんだりしていたこともあった、そういう時には「調子に乗るな」と母から水をかけるように言われ、楽しかった気持ちが一瞬にしてしぼんでしまったことが何度かあった。

ともあれ、「周囲に気を配り、できる限り波風が立たない様にする」ことは私の義務だと思っていたし、それが家族以外の場にも多分出ていたのだと思う。

周囲に気を配ること自体は悪くはない、危険察知の意味でもそれは大事だと思う。ただ、それが「いつも他人の顔をうかがう」状態になっては良くないのだ。「気持ち悪い」と思われるのだ。その言葉と言葉をかけられた状況が今でも時折思い出されてしまう程度に私にはショックだったのだろう。それからあとも俯瞰癖みたいなものや基本的な世話焼き体質は変わっていないが、少なくとも他人の顔をうかがっているように思われるようなことは止めよう、これは私が軽視されたり馬鹿にされる原因になってしまうと思ったのだった。

年を重ねた今は、微妙にふてぶてしさと全体的な余裕感みたいなものがしっかり身についていて、私が「他人の顔をうかがう」癖が実はあることを知る人はほとんどいない状態にはなっている。頑張った、私。いや、もともとふてぶてしくはあったと思うのだけれど。

それはそうと、河野さんの叙述で一番痛いところは、「母は夫や彼の親族との葛藤で、娘をカウンセラー代わりにして愚痴をいい、娘自身が求めている要求を掬い取る必要に気がつきません。」「娘を同一化しており、自己の延長として見ています。自分と違う要求を持つ娘を制御するし、特には怒りを持ってしまいます。」だ。前者については、父や弟あるいは他の親族や知人の愚痴を何で私に言うのか、特に父や弟のことだったら自分で言えばいいじゃないかとずっと思っていたし、この人は何故私の話したいことをきちんと聞こうとしないのだろうかと不思議に思っていた。また、後者については、「性格が悪い」「あんたはキツイ」と何度も言われるなどの葛藤があった。

母も誰かの娘でその母親の愚痴を聞かされていたかもしれない。ただし、母は病弱で世話を焼かれる側、愚痴を聞いたらそれだけで眠れないなどのメンタル面での影響があるタイプなので、母の母は、母ではなく母の姉にその役割を求めただろうし、母はその意味では蚊帳の外に置かれていたかもしれなくてその点は疎外感という点で気の毒だと思うけれども、少なくとも愚痴の聞き役としてはそれほど期待されていなかったと思う。

その結果、要は私を自分と同一視すること、自分の愚痴は問答無用で聞くべきだといった点において手加減を知らず、それが私にとってはかなり重荷になっていていたのだと思う。母からすればそれこそ「恩知らず」なのだろうが。

自称心身が弱いらしい人で、その親(私からすれば祖母)や姉(伯母)も「〇〇ちゃん(母)は、体が弱いんだから、気ィつけないと。〇〇(私)、しっかりしてな。」という類のことは私の幼少期から言ってきたので私も母は「弱くて、こちらが守らなければならない人。」という刷り込みがあった。ただ、それは今から思えばヤングケアラーとまではいかないにせよ、親子関係としてはいびつであったと言わざるを得ない。

それだけに面と向かってはよほどのことがないと母の際限ない要望に対してNOは言わなかったし、言うときもたいていの場合はその言い方などについてかなり考えてから言っているのだが、それでもキツイとか、こちらの大変さもしらないで、あんたは人としておかしい、そういったことを言われてきたのであった。いや、録音して文字化したらものすごいことを言っているのは私ではなく母なんですけど、と内心思うことが何度もあった。

いずれにせよ、子、特に娘に対して自分と同一視したり、娘が自分とはちがったことを志している時に足を引っ張ったりすること、それでいて上手く行ったときにはその成果を自分のものにしようとしているような振舞はちょっとやめて欲しいんだなと思う。思うこと自体が親に対して冷たいと言われそうだけれど。ちゃんとした大人の親が、子どもと上手くつきあえるような親が欲しかった。