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イベント・お出かけメモ#20 香良洲歴史資料館

津市では8月の第1土曜日と日曜日に「津平和のための戦争展」が市役所隣接のリージョンプラザで開催されています。良くも悪くも戦争について関心がある小学生男児がいるため、この数年は子どもに頼まれて「戦争展」に連れて行っているのですが、そこで三重海軍航空隊(予科練)跡地にある香良洲歴史資料館のリーフレットや展示があり、子どものリクエストで資料館へ行ってきました。

津市でも旧市街に住む者にとって平成の町村合併後に津になった地域というのは津市ではあるけれどよくわからない場所がまだ多かったりします。「香良洲」という地名も車を走らせていると道路標示で見ることはあるのですが、今回初めて香良洲という場所に行ってきました。

ナビを使いましたが、香良洲地区はイオンモール津南の海側でした。「洲」という感じが含まれているだけのことはあって、三角州地帯でした。子どもによると理科の授業で香良洲のことは習うのだそうです。このあたりは梨が特産らしく、梨をアピールする看板を見かけました。

香良洲歴史資料館は、そこへ至る道が細すぎたりすることは無く、無事に到着することができました。建物の外に移築した正門や、碇、慰霊碑などがあります。昭和17年から昭和20年まで海軍飛行予科練習生(予科練)教育隊として開隊された三重海軍航空隊がこの地にあり、14歳以上の若い男性たちが学びそして各地へ配属されて行きました。
                 (*詳細は66 三重海軍航空隊


予科練の碑

コロナ禍で休校中の子どもに頼まれて家系図を作成した時、基本的に私のルーツは由緒正しい農民で、そこに薩摩の下級武士や北摂あたりの末端のお寺に住む僧侶が混じるぐらいの、職業軍人とは縁遠い家柄であることを再確認したのですが、その中に高知海軍航空隊で亡くなった人がいます。

母方の祖母の弟です。生前の祖母は、8月になると通天閣で行われていた戦争展に足を運び、人間魚雷の展示を見ては弟を思い出して泣いていたので、多分、人間魚雷に関連して亡くなったのだと思います。

但し、両親ともに職業軍人の家ではない我が家の場合、戦争に関する話自体がタブーみたいな雰囲気があったので、泣いている祖母にその弟の死について詳細を尋ねるようなことはできないままになってしまいました。取り寄せた戸籍にある「高知県香美郡前濱村沖(高知航空飛行場南西三浬)に於て死亡高知海軍航空隊司令加藤秀吉報告」が喉に引っかかった小骨のようにずっと気になっています。

三重海軍航空隊歌の碑

その顔も知らない大叔父のことを、こういった施設に来るとどうしても連想してしまいます。農家に生まれた男の子が、徴兵ではなく志願して高知県に向かい、そこで20歳になる前に何で死んでしまったのか。死ぬまでの日々は大叔父にとって楽しいこともあったのか、あるいは辛い日々だったのか。息子を持つ親としても、そのあたりはどうしても気になるところです。


さて、話を資料館に戻しましょう。
香良洲歴史資料館の入館料は無料です。入口で靴をスリッパに履き替えます。管理人さんの注意事項(3階の遺品コーナーは写真撮影禁止)を聞いてから、1階から順番に見て行きます。2階が戦時中の人々の暮らしなどについて、子どもの訪問目的だった三重海軍航空隊関連の展示は3階です。

3階への階段を上って右側に遺品資料、左側に航空隊関連資料があります。

司令室にあった扉らしい


航空隊関連資料は、授業や日課などを想像できるような資料が展示されています。戦術や英語のノート、使っていたハンモックや机、そして個人的には大嫌いな「精神注入棒」などもあり、楽しい時もつらい時もあったことが推察できます。ここの資料は本当によくぞ寄贈してくれました、という感じでした。

真ん中奥にあるのが「精神注入棒」
こういうもので殴られたくはないし若者を殴りたくもない

遺品資料は、家族へ送った葉書、仲間内の寄せ書き、戦死して昇進した息子を持つ母がその戦死に関する任務に参加していた(そして戦死した)部下の親に書き送った手紙(ほれぼれするほど達筆)、遺品、敗戦後に自決をした人の資料、そして海軍航空隊を経て各地へ向かった若者たちの顔写真とその死に関するパネル展示などがありました。

フィリピンや南洋諸島で戦死した人、奄美諸島で戦死した人、負傷して治療を受けたものの亡くなった人、そして大叔父と同じように戦地に行く前に何らかの事故で亡くなった人などの若々しい顔を見ると、ここに私の息子の顔写真が掲載されるようなことはあってはならないと思うのでした。自分の子であっても、そうでなくても、子どもや若者を敢えて殺したり、あるいは死地に向かわせることは親として、大人としてあってはならないと思います。成長して、生きて、そしてそれぞれの人生を満喫して欲しいです。

真ん中の階段と左右に階段がある
このタイプの階段を見る機会が減りました

さて、3階から1階に戻ります。1階には関連書籍などが置かれたコーナーがあり、その気になれば何時間も過ごせそうでした。

私たちが訪れた時は他に2組ぐらい来館者がいたような気がしますが、校外学習などとバッティングしなければ、混雑するようなことはないような気がしました。

こちらの資料館は三重海軍航空隊の敷地のごくごく一部の土地に建てられており、「香良洲町の面積のおよそ三分の一に当たる一・三平方キロメートルを占有した施設であり、最盛期には一五、〇〇〇人以上の予科練習生が在隊し、香良洲の町は若い活気に満ちあふれたようです。」(上記 三重県歴史の情報蔵リンク先参照)といった、往時の全貌を想像するのは少し難しいですが、三角州の大半を敷地としていたみたいです。


建物外にある海軍所縁の遺品

親切な管理者の女性に当時の正門の場所への行き方を教えてもらい、また、海岸から初日の出を楽しむ人が結構いることなどの話を伺った後、資料館を後にして正門跡(その場所までたどり着きましたが、往時を偲ぶ記念碑みたいなものはそこには無かったと思います。もしかしたら見つけられなかっただけかもしれませんが。)、そして当時の敷地跡だと思われる個所を車でざっと走り、海岸線で一休みして帰宅しました。


敷地裏手になるのでしょうか、海岸側


子どもは丁度、郷土の戦争遺跡に関心を持っているみたいなので、また別の場所に連れて行くことになるのかもしれません。