見出し画像

#76 こんなことがあった(ひな人形)

もう大人なんだから、しかも半世紀も生きているんだから、子どもの頃の記憶を引きずるのはいい加減にしろと、自分でも思うことはある。

同時に、子どもの頃に、なぜ私は子どもとして正当に扱われなかったのか、なぜ私だけが物わかりのいいふりをして我慢しなければならなかったのか、そういう煩悩のような記憶に対して、過去の話なんだから、今が良いんだからもういいじゃないかと、水に流してしまえばいいじゃないかと、物わかりのいい人のふりを続けることは私にとって不誠実だとも思っている。無かったことにしてしまえば、私を私として、その年なりの子どもとして扱って欲しかった私を殺してしまうようなものだと思っているので、記憶が消えてしまったり、死んでしまったりする前に、思い出を掘り起こしながら、ぽつぽつとこちらのシリーズについても書き連ねていこうと思っている。

節分が過ぎれば、季節イベントとしてはひなまつりがある。
父方は転勤族(郵便局長かなにかで特に父が十代のころは数年毎に転勤していた)の転勤族(父自身も出世のために転勤は必要不可欠だと考えていて転勤の打診に対して拒絶することがなかった)、しかも父方は男兄弟だけということもあって、ひなまつりのようなイベントには一切関心無し。母方はそういうイベントにはこだわりがまだある方だけれども、母は次女だし、私はいわゆる外孫にあたるため、妻側の郷がしゃしゃり出るのはちょっと、という感じだった。さらに、「転勤族」のため、数年に一度は引っ越す可能性を常に視野に入れる必要があるため、必要不可欠ではない物は増やしてはいけないという暗黙のルールがあった。しかも、両親ともに戦後教育を受けている割には男尊女卑な考え方が残っている人だった。

そういう家庭で、ひな人形はどういう物と分類されるかは、容易に想像がつくと思う。そもそも女の子は面倒なので、産むなら男の子が良かったと娘である私に直接言ってのける母だったので、娘が産まれたからと言って、女の子のイベントの準備を楽しむようなことはなかった。着物を着ている七五三の五歳の写真があるが、これは母ではなく、母の姉の伯母が着物を借りてきてくれたり、化粧をしてくれ、従兄と写真を撮ったものだった。

ただし、ひな人形については妻側の実家が、五月人形については夫側の実家が贈るというような慣習(マナー?)があったみたいで、母方(伯母)がひな人形を贈ってくれた。転勤族なので七段飾りみたいなものは不要ということで、収納箱が台座になる感じの、お内裏様とお雛様とその周辺の飾りがセットになったものだった。

姉なので衣服などは新品が買い与えられることが多いが、そこは年上の子が優遇されていると言えなくはないが、姉妹ではなく姉弟なので、弟におさがりになる服あるいはペアルックになる服を想定して買い与えられるため、こういった女の子らしい物を新品で買ってもらえたことは多分かなり嬉しかったのだと思う。

小学校の低学年までは社宅に住んでいたので、同年代の子どもと社宅内の行き来があったが、社宅でも七段飾りのような立派なひな人形を飾る家はあった。あるいは社宅ではない子の家にある立派なひな人形を見せてもらったこともある。前者については、「転勤族なのに、何を考えているんだか」と言う感じの母の批評を聞かされていたし、後者については、転勤族とそうではない人は世界が違うということは既に知っていたので、すごいな、立派だなと思ってもうらやましいとまでは思うことは無かった。もう少し女の子文化みたいなものが私の周りにあれば違った感想を持ったかもしれないが、基本的に弟とセットだったので、人形遊びをする機会もなく、ひな人形についても、とりあえず自分のひな人形がある、祖母や伯母に買ってもらえたという満足感で十分だったのだと思う。札幌の時の写真にはひな人形を飾ってもらったものがあるが、その後、福岡に引っ越した後は、ひな人形を毎年出すようなことはしていなかったのかもしれない。そういう季節のイベントを大事にする家ではなかった。

さて、体が弱く子育てが十分にできなかったらしい実母の代わりに、父の転勤で北海道に引っ越す2歳までの私の世話を焼いてくれた伯母は、女の子が好きだったので、2歳くらいの私の髪型や服装はかなり凝ったものが多かった。その伯母に待望の娘が産まれたのは、私が小学生にあがった時のことだろう。

私のひな人形は祖母(伯母)に購入してもらったものなので、妻側の実家からひな人形を贈るルールと踏襲するとなると、私の母が従妹にひな人形を贈るということになっていたのだと思う。

母は、祖母・祖父・伯母といった衣服その他にセンスがある(こだわりがある)家で育った割には、あるいは「あなたはこれが似合う」と言う感じで選んでもらうことに慣れ過ぎてしまった(本人曰く、それは嫌だと言えない状況にあったし、似合わないかといえばそういうわけではないので、抵抗をあきらめたらしい。)ので、自分で贈り物を選ぶことがストレスらしい。また、他人に贈るものにお金を使うことがあまり好きではなかったような気がする。父は稼ぐ分、自分の交際や飲食(特にお酒)に金を使ってしまうので、家計のやりくりは大変だったことは知っている。

何をしてしまったのかというと、「あんた、ひな人形はもう要らんやろ」という感じで、私に贈られたひな人形を従妹にプレゼントしてしまったのだった。祖父母と住んでいる従妹は、私よりも衣食住で贅沢に育っていたが、まだ物心つく前だったかもしれないにせよ、従姉(私)のお古のひな人形を渡すか?という点で、その考え方にショックを受けた。確かに節約面では正解だったかもしれないが、こういう縁起物でやるのか、そこに節約は必要なのか、と小学生ではあったが、嫌だなと思った。

同時に、ひな人形を新しく買って贈る経済的余裕がない中で、親戚づきあいとしてひな人形を与えなければならない状況を把握している物わかりが良い私が、「要らんやろ」と言われて、「要る」とは絶対に言えないが、それでも、「私のひな人形が奪われた」「奪ったのは母だ」というショックは多分強かったのだと思う。それ以降、ひな人形は見ないように、ひなまつりなんてそんなの知らないという感じで振る舞う様になった。実際、中学生ぐらいになると、ひな祭りで友人宅を行き来するようなことは無くなるので、そういったものは私の視界からフェイドアウトしていったのだと思う。

ひな祭りのCMや店先でひな人形をみると多少心が揺れるものの、そういう娘を持つ親ならではのイベントが大事ではない家に生まれたことに多少は傷つきながらも、それで人生が大きく変わる訳でもないから、と言う感じで、見ないようにして成長した。

そして、その後、祖父母が亡くなり、特に、もともと長男家族との同居を望んでいたらしい祖父の意向を受けたらしい長男(伯父)とのトラブルがあって、伯母家族は祖父母宅からマンションに引っ越すことになった。その際に母は処分されることになった食器とともにひな人形を2セット自宅に持ち帰った。

伯母の手元にひな人形が2セットあったことは古傷の傷口を開くようなものだった。祖父母との同居があって、私と勝手に比べられる発言もされて気の毒なところはあったが、物質面では従妹はかなり贅沢に育っていた。そこから推測すると、従妹には伯母もしくは祖母が吟味したひな人形が買い与えられていたのだと思う。母が無駄なことにお金を使わない、節約しようと考えて、私の手元から奪って従妹に贈ったひな人形は、従妹や伯母にとっては迷惑なものだったのだろう。たとえ品物自体はもともと伯母が選んでいるはずなので、それなりに良いものであったとしても、中古品はふさわしくないと、私も思う。それではその私に贈られたひな人形はどうなったのだろう。物置にしまい込まれたままだったのだろうか。

そして、そういうことを想像して暗澹たる気持ちになっている私には全く気付かず、そのあたりの感覚がちょっとズレている母は、「処分するというからもらってきたけど、2セットはいらなかったかも」などと呑気に言うのであった。

最近では、地域イベントで、家で眠っているひな人形を従来とは異なる形(たとえば居酒屋風に楽しんでいるお囃子のひとたちと言う感じ)でショーウィンドウに飾ったりしている。それはそれで創意工夫があるとは思うけれども、本来の形で飾られることのなかったもともと私のところにあったひな人形に思いを寄せてしまい、そういう使われ方でいいのか?と思ってしまって、要は、私のひな人形に関する記憶の傷がえぐられてしまって、単純に面白いとは思えかったりする。これは勿論私の体験と記憶の問題なので、地域イベントでひな人形を使うことを批判するつもりは全くないし、見立ての創意工夫は面白く思っている。

それと同時に、成仏できない煩悩のひとつみたいな感じで、ひな人形へのあこがれみたいなものをまだ引きずっている。もう半世紀を生きていて、今更何を、という感じだし、物を増やすつもりはあまりないので(気が付くと増えるけれど)、たとえば老人ホームに持っていけるような掌サイズのもので構わないから、「私の」ひな人形が欲しいと、2月になると思うときもあって、木彫りやガラスの小ぶりのひな人形を眺めてしまうときもある。ただし、いくら眺めても購入には至らないので、そのあたり自分自身でも「ひな人形はもういいか」と思っているところもあるのかもしれない。

ひな人形と言えば、吉德ひな祭 俳句賞というものがあって、大学生の頃に「公募ガイド」で見て応募したことがある。

ビギナーラックで上位入賞して、その副賞で日本人形を頂戴したことがある。黒田杏子先生が選んでくれた俳句は「ひさしぶり私と同じ年の雛」(第8回吉徳ひな祭俳句賞 一般の部三席)。上で書いた通り、ひな人形が手元にない私の想像の俳句である。

日本人形を飾るような生活をしてこなかったので、頂戴した時の箱に入れたまま数十年が経過していたが、こちらは数年前に実家から引き取って現在は私の家にある。新しくひな人形に来てもらうのではなく、こちらの日本人形と老人ホームに行くのもいいかなと思っている。


第8回吉徳ひな祭俳句賞でいただいた日本人形

なお、吉德ひな祭 俳句賞は、選者の黒田杏子先生の逝去によって、令和5年9月に閉幕が告げられている。