#74 こんなことがあった(青春18きっぷの思い出3:青春18きっぷだからできたことなど)
〇紀伊半島ルートは気軽に挑戦してはいけなかった
大学1年時に「青春18きっぷ」の存在を知り、東京から大阪に帰省する際に使ってみて、時間がかかることさえ気にならなければ非常に使い勝手がいいことを実感したので、大学・大学院時代は「青春18きっぷ」に大変おせわになった。
大学時代に一番使ったルートは、「青春18きっぷの思い出1」で書いたように、東京―名古屋-亀山-奈良ー天王寺ー最寄り駅ルートで、これだと午前10時には家に到着した。
ただ、私はこの時点で既に「乗り鉄」傾向があったため、上のルートを数回使った後、ふと思ってしまった。
「せっかく1日乗り放題なのに、午前10時で使い終わるのはもったいなくないか。」
「もうちょっと電車に乗ることはできないか。」
そして、多分今もあるだろうけれど、電車の中の路線図(路線地図)を眺めていて、奈良を通過するのではなく、和歌山経由を試すのも面白いんじゃないか、と思ってしまった。奈良経由で午前10時なんだから、多少時間がかかっても夕方には到着するんじゃない?と思ってしまったのだった。
思いついたら実践したくなるタイプなので、次の帰省の時に紀伊半島ルートで帰ることにした。電車の知識がある人はもうどうなったかわかると思うが、途中で、「これ、本日中に大阪(和歌山より)の家に帰れないんじゃないか」と何度も思ったことを覚えている。
名古屋-四日市ー松阪。多分ここまではスムーズだったのだが、松阪でまずかなり待つ。要するに乗り継ぎの便利さが奈良経由とは全くちがったのだった。大きめの駅でいきなり1時間ほど電車が停車する。トイレ休憩的にはありがたいその停車時間も、度重なれば、「いやもうそんなに停車しなくていいから、さっさと次の駅に向けて出発しよう」と思うようになり、「これは夕方までに楽勝で家に帰っているということは無理じゃないか、帰るのは夜になるんじゃないか」と思うにいたった。先にそのあたりを時刻表で調べておけ、というものである。結局奈良ルート+12時間かけて家にたどりつくことになり、家族にかなりからかわれたものだった。
実はこの時までに、大阪の家(泉州エリア)から新宮を「青春18きっぷ」を使って日帰りで行ったことがあったので、その体験からまあなんとかなるんじゃないか、と軽く考えて、時刻表で旅行行程を下調べすることをしていなかったのだった。
紀伊半島ルートは、下調べ不足もあったので、かなりハラハラするものだったけれど、新幹線の路線よりも格段に趣のある在来線に乗って、自分が知らないだけのその地域の大きめの町の駅だとか、あるいはここで電車が止まったらどうしたらいいんだと心配になるような人里離れた無人駅だとか、それぞれが持つ駅の雰囲気を車窓越しとはいえ堪能できることがとても楽しかった。
駅だけではなく、「どーんと山」「左側全部海」「海ぎりぎりの線路」といった車窓の景色も堪能できたし、幸か不幸か時間帯によってはその車両には私しかいないといった貸し切り状態も「この景色は車両ごと私がひとりじめ」という感じで良かった。
さらにローカル線の最大の魅力は、乗り降りする人の観察で、久しぶりに乗り合わせたみたいな知り合いの老女ののどかな会話や、下校途中のにぎやかな学生さんの会話も場所によってそのイントネーションやテンポが異なって楽しかった。
人が数名しか乗っていない車内の、4人掛け対面の座席の一つに、とある学校の生徒(丸刈りだった)とその教員という2人が、「なー、どう考えてる?」「えーっと」というちょっとまったりしたテンポで進路指導っぽいことをやっている様子を、聞くとはなく聞こえてくるのもなんだか楽しかった。その他にも難読漢字の駅名を「へー」と思いながら眺めることも、その記憶は長くは留まらずすぐに忘れてしまうことが多いとはいえ、楽しかった。
東京から紀伊半島ルートで帰省することはさすがにその長時間にこりてしまって、チャレンジしたのは一度きりだったけれど、キラキラとした海の記憶とともに、とても楽しかった記憶として残っている。そういう軽率なことに気軽にチャレンジしようと思ったのも、実際にできたのも、「青春18きっぷ」のおかげで、仕事を持つと移動時間の短縮や体力温存を優先してしまうので新幹線をメインで使うようになるとはいえ、子どもにもそういう無計画な鉄道旅を体験させてあげたかったとは思う。
せめて20代までの人向けの「ユース一日券」みたいなものがあればいいなと思う。
〇「ムーンライトながら」以外のムーンライト
お世話になっていたのは「ムーンライトながら」だったが、ムーンライトに関心を持つと、それ以外にもムーンライトがあることに気づく。私は基本的に西日本の人間なので、「ながら」以外に使ったのは、多分(マメな乗り鉄ではないので、ちゃんと覚えていない)、「ムーンライト山陽」「ムーンライト松山」そして「ムーンライト九州」だと思う。
月光=「ムーンライト」と名付けられた夜行列車は、まず、乗る電車を待つその時間が楽しい。それは非日常イベントに参加するわくわく感で、いつもだったら家に居る、あるいは帰宅の途にある時間帯に、いつもとは逆に今からどこかに行くということ自体が楽しかった。次に、夜行列車ならではの静かさみたいなものが好きだった。私が乗っていた時は私も含めて一人旅の人が多く、複数で乗っている場合も夜行なので騒ぐ人はおらず、抑え気味の声で必要最低限の言葉を交わすそのぼそぼそした音がとても心地よかった。
そしてやはり車窓を眺めるのがとても楽しかった。行ったことがある駅でも夜行で通り過ぎる時は他人顔になっているし、行ったことが無い駅を通り過ぎるときは、まさにどこか知らない場所に旅に出ているようで楽しかった。さらに夜が終わって皮がめくれるようにうっすらと明るくなる夜明けの景色は素晴らしかった。微妙な色合いを楽しみたいのに夜明けの景色はすぐに変わってしまってたちまちに真面目顔した朝になってしまうのだった。また、夜と朝が入れ替わって、通勤客が増えていく駅を通過するのも、あなたは日常・私は非日常という感じを強く認識させて、それがとても楽しかった。
「ムーンライト」を利用した中で、「ムーンライト松山」に乗った時に、伊予大洲とか道後温泉とか坊ちゃん列車に子規記念博物館、そして宇和島の八幡浜港から大分の別府港までのフェリーに乗ったのだと思う。大分は私の高校時代に父が赴任していた場所なので、その時に行った場所などを再訪したのだった。ちなみに大分時代は「青春18きっぷ」を理解していなかったので、高速夜行バスで大阪から大分の父宅へ行った。
これは、「ムーンライト」なるものに乗ってみたいという母の希望を叶えるためのものだったので母と一緒で、そのため(母は遊びなどではスケジュールを詰めても大丈夫な時もあるが、注意しないと後日倒れるので、状況をよく見て対応する必要があるため、そして日常生活全般で「無駄遣い」NGだったため)、ひとつひとつの訪問地でちょっと贅沢して+αのことをすることは最初からあきらめており、またいつかくるからいいさーと思っていたのだが、実のところ今になっても再訪できていない。しかも「ムーンライト」自体も使えなくなってしまった。
やはり、行ける時にちょっと無理してでも行っておけ(災害リスクなどはもちろんしっかり考えた上で)、行った時には「二度と来れないかもしれないから、ここでやりたいと思ったことについて、悔いを残すな」という心構えが大事なのだと思う。私の人生は後半戦に入っており、残り時間も体力も気力も徐々に減っているのだということを自覚して、今からでも行きたい場所は最大限行けるように検討しておかないと、日々の仕事に流されて、いつの間にか行きたいところへ行けなくなったり、行こうという意欲さえ失われていってしまうのだろうな、と思う。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」ではないが、人生の終わりあたりで、外出がままならなくなったり、寝たきりになったとしても、「あそこも行ったなー」と思い出して楽しめるように、これからも色々な場所に行きたい。
〇父の赴任地である下関や熊本へ行っていた時の話
大阪南部の泉州地域にある最寄り駅を朝の8時に出れば12時間後ぐらいには下関(最寄り駅は長府)に到着できた。実際には朝の通勤ラッシュを避けたいので、朝6時台に出発していたので、夏場はまだ明るいうちに下関に到着できた。熊本も「青春18きっぷ」で行ったような気もするが、もしかしたら部分的に(博多から?)バスなども利用したかもしれない。父の最後の赴任地の熊本の時代は、私の方は大学院生で人生いろいろ詰んでいた時代なので、あまりにも嫌な記憶については抹消してしまったみたいで、ところどころ覚えていない。
夜行列車とは異なる昼に電車を乗り継いで下関に行くことはまたそれなりに楽しかった。一人旅なので荷物は最小限、トイレ休憩を考慮した電車の乗り継ぎ(乗り継ぎにある程度余裕がある駅でトイレに行く)などを考える必要はあったが、ぼーっと車窓の景色を眺めることは好きだった。
大阪ー姫路ー岡山。ここまでは感覚的に「近い」。実際に大阪ー倉敷を「青春18きっぷ」で日帰りしたこともある程度。その後、通過する広島までもまあまあ近い。問題は、山口県に入ってから下関までが「遠い」。確かに地図でもみても山口県は横に広いが、「下関」はほとんど福岡という山口の端っこにあるので、山口にはいってから「下関」までは3時間ぐらいかかったような気がする。
下関の用事は父宅の掃除その他の処理だし、いつ行っても父は「仕事のつきあい」その他で午前様であることが多いので、下関に何時に到着するか私も気にする必要はなかったことから、下関の行き帰りに、ついでなので宮島までJRが運営しているフェリーで往復したり、岩国の錦帯橋まで行って帰って来るという寄り道もした。
熊本に行っていた時には、柳川に行くのが好きだった。柳川は私鉄利用のため「青春18きっぷ」を使ったわけではないが、「青春18きっぷ」で父宅の熊本まで行き、そこでの用事の隙をついて柳川に行って季節ごとの「お堀」の舟遊びを楽しんだ。そういうひとりでふらっといく自信みたいなものをくれたのが「青春18きっぷ」だったと思う。その意味で、今回の大幅変更は残念ではあるけれど、逆に言えばそれまで大変ありがたく使わせてもらったと思っている。
熊本×「青春18きっぷ」で、覚えている程度に傷になっている記憶としては、多分私が大学院生、弟が大学4年(翌年春に卒業)の年末年始の話がある。年頃の男の子にはありがちだが、特に大学に入ってからは友人>家族(もともと家族内の用事で何かしてもらおうという期待はかけられていなかった人なので、その分、家族に対する関心が薄い)だった弟が、多分その時にやりとりしていた知人が福岡に居たのだろう、母の、せっかくゆっくりできる大学生の間に、父親の赴任地でありまた父の実家がある熊本で年末年始を過ごして、父方の親戚と交流をしてはどうか、という提案に珍しく関心を持ち、「行ってもいい」と答えた。
母の考えでは、男の子は父親としっかり交流した方が良い(のに、その父親は便利な娘=私を連れていくことはあっても、息子=弟とは一緒に行動することがない。これは娘が息子の得るべき地位を奪ったからである、という謎な思考。あなたの夫は別に娘を溺愛したわけではなくて、対外的に見せる人形として連れていく場合により手間がかからない方を選んだだけ。)、夫の実家の熊本はもともと男尊女卑で親族中の男性を大事にする傾向があるが、その親族と息子(弟)はほぼ没交渉(めんどくさい事から逃れることができたため、そういうやりとりには弟は参加しなかった。あるいは私の存在感が強かった)という気の毒な状況にある。男の子は社会に出てからのコネクションとかが大事なので、この機会に父方親族と会っておくべきだ。と、以上のことを考えていたみたいで、この時はかなり熱心に、交通費も出すから行った方が良いという感じで誘い、弟の方は、ついでに福岡によるなら良いか―という感じでOKを出した感じだった。
珍しく家族・親族イベントで息子の前向きな反応を得たことに喜んだ母は、しかし、箱入り息子なので一人で大阪ー熊本に行かせるのは心配だ、そしてここには大学を出ても働かず大学院に行っているごく潰しの娘が居て、しかもこの娘は「青春18きっぷ」その他を使ってふらっと(資料調査などの目的もあったがそれを理解する母ではなかった)でかける「遊び人」、しかもどうせ冬休み、ここで息子の世話を娘に託して年末年始に送りだせば、自分は実家(大阪・豊中)でゆっくりできて、万々歳じゃないか、という具合に考えたようだ。
私に「行きの新幹線代は出してあげるから」弟を熊本まで連れていくこと、熊本で父方親族が食事会をするらしいから、そこまでしっかりサポートすること、しかし、その食事会では弟についていい印象が残るように気を配ること、その後弟は福岡の知人に会いに行くらしいから、それを見送った後に父宅の掃除その他をして、帰ってきなさい。と告げ、弟は大阪ー熊本の往復(新幹線利用)、私は片道分のお金を渡して、チケットの手配を私に指示したのだった。
言うまでもなく、乗り鉄の嗜みがある者にとって、「青春18きっぷ」を使った列車の旅は楽しいものである。苦痛にはならない。ただし、姉弟で対応を分けるのは、いくら私が「無職」で「親不孝」な「ごく潰し」の大学院生であったとしても、それはないなーと思った。むしろ弟にスポットライトがあたるよう気を配る必要がある分、母親代わりをさせる分、「迷惑代」として+αするか、せめて同じ待遇にして欲しいなと思った。そして、そういう気が付かなくていい、自分は関係ないということが許された弟についても、まだ世の中にはそんな風に手取り足取りサポートを受けて居ることにすら気が付かなくていい立場(下駄をはかしてもらっている立場)の男性が少なくないとはいえ、そんなダメ男を再生産するなよ、それに私を巻き込むなよなとは思った。
今はもうさすがに彼も半世紀近くを生きているので社会経験値なども積んである程度のことはできるようになっていると思うが、就職した翌年ぐらいだろうか、私に「新幹線切符の買い方ってどうやるの?」と真顔で聞き、あ、この人はこのままこの家にいたらダメが加速するわ。20代のうちに家から出して自活の真似事をしておかないと、その後に関わる人が不幸になるわ、と思ったのはまだ別の時の話。