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#53 こんなことがあった(祖母の死と夜行列車)

父の転勤は、大阪→北海道→福岡→大阪→沖縄→徳島→大分→大阪→下関→熊本だと思う。これに加えて大阪府下での転勤は数回ある。沖縄からは妻子を大阪に置いての単身赴任となったので、父と同居は私が中学1年生で一旦終了し、その後、大学院生の時にまた数年同居した程度、合計で15年位だと思う。勿論、単身赴任中も赴任先に私や母が行くこともあれば、父が大阪の家に来ることもあるので、全く交流が無くなるわけではないが、それでも一緒に過ごす時間が少ない分、父と大阪に残された家族との距離は遠くなることは仕方がないことだったと思う。そして単身赴任の原因を作った私は、そういう不自然な家族になったことなどについてその後も長く母から責められるのだった。

下関に単身赴任していた頃は、私は大学院生だった。母の考えでは大学院生=働いていない=遊んでいる だったので、よく「ごくつぶし」と言われたものだった。「暇でしょ」ということで、父の社宅(一軒家)の掃除などに派遣されたものだった。交通費がもったいないということで青春18切符で。まあ、列車の車窓の景色を眺めるのは好きなのでそれはそれで嫌いではなかったけれど。

その時は母と一緒に父宅の掃除などに来ていた。10月下旬なので、青春18切符の時期に合わせた訪問ではなく、父の仕事上の付き合いに母が駆り出されるような用事があったか、あるいはたまたまスケジュール的に都合が良かったのか、そのあたりは覚えていない。

大阪から下関(社宅は長府)に到着して、少し休憩してから近くの小さなスーパーに食料を買いに行き、本格的な掃除は明日からにして、とりあえず目につくところを少しでもマシにする程度の片付けをして、夕食をとっていたことだったかもしれない。父はいつものように仕事の付き合いで夜は遅くならないと帰ってこないので、私と母だけの食事だった。

そんな時、母の姉から電話があった。携帯電話の利用者が増えつつあった平成6(1994)年のことなので、私や弟は携帯電話(PHSだったかもしれない)を持っていたが、まだ母は携帯電話を持っていなかったような気がする。それだから、下関まで連絡が来るのに時間がかかったような気がする。母方の親戚とも予定などを頻繁に情報共有するような間柄ではなかったので、おそらくは大阪の家に電話をかけ続け、連絡がとれないので父のところに電話をかけ、私たちのところに繋がったのだと思う。電話の内容は祖母の死を知らせるものだった。

母方の祖母は晩年は体調を崩しがちではあったものの、どこかへ行きたいと思えば伯母が車を運転して連れて行くなどしていたので、家に引きこもっているタイプではなかった。しかし、伯母と従妹は当時はガールスカウトの活動で多忙で、その日はたまたま祖母が留守番をしており、二人が帰宅した時には祖母は無くなっていたのだそうだ。事件事故の両面から捜査をせざるを得ない警察の対応をしながら、母に電話をかけ続け、そして母に電話がつながった時には、既に下関駅から乗ることができる新幹線は終わっていた。そこで父が手配してくれたのが、夜行の寝台列車だった。

定かな記憶はないが、ざっと調べた限りでは、「あさかぜ」だったのかもしれない。父が社宅まで呼んでくれたタクシーに乗って、建て替えられる前の下関の駅舎まで一緒に来てくれて、泣きじゃくって危なっかしい母のことはお前に頼むな。(多分)新大阪駅まで伯母か従兄に来てもらうように連絡しておくから。俺も急ぎの仕事を片付けて明日には大阪に行くから。と言ったことを聞いたような気がする。その夕べの下関の駅舎はだだっ広くてなんだかひどく別の世界のような気がした。

まだコンビニがそれほど普及していない時だったので、何か買ったとしても自販機で飲み物程度だっただろうか。初めて乗る青い列車の寝台車輛は人は少なく寂れた印象を受けた。二段寝台のどこが私の場所になったのかは覚えていないが、カーテン越しに母が長い間泣いている気配を感じつつ少し眠ったような気がする。だから私のいわゆる「ブルートレイン」の記憶は、泣いている母と結びつけられてしまっている。

朝になるとさすがに母は泣き止んでいたが、それまでにかなり泣き続けたのであろう腫れぼったくなった顔で、駅に迎えに来てもらった後の手順などについて私に説明をし始めた。ただし、迎えに来てくれた従兄の車の中でまた泣き始めた。

その後、いろいろなことがあったもののありすぎてきちんと覚えていない。ただ、祖母の遺体を家から運び出す時に祖母と同居していた従妹が「おばあちゃんはこの曲が好きだった」といってピアノを弾き始め、その曲が流れる中で遺体を運び出すという、従妹の自己陶酔感というか同居の孫ならではできることだよなという感じ、あるいはその日の夜、通夜に残された祖父、そしていつの間にか来ていた父との間で、ろうそくの炎をみながら、ぽつりぽつりと言葉が交わされてはしばらく沈黙が続くといった場に私もいたことなどが妙に強く記憶に残っている。