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傷を悼む季節

秋の風は古傷を撫でていく

季節がまた変わろうとしているのを、古傷が色付いて気付く。
私の手足に有る傷が、夏の日差しで焼けた肌から浮き出てくる頃、ちょうど9月になる。
何度も掻き毟ってケロイドにした傷たちが「久しぶり」とでも言うように、目に見えて分かる形として現れるから、私もまじまじと見返してしまう。

恋人に「これはこういう傷でね、道具はこれで、ここは文字になっていて…解読しないでね」と、なるべく朗らかに説明するのは何だかとても可笑しい。
悪い意味では無く、私はこれをどうしても”幸せ”だと思ってしまうのだ。

私が生きるためにつけた傷は無様で、滑稽だ。
当時はよく、抱かれた男に「何度私を抱いても、貴方は私の傷の場所や数さえ知らないのね」とアンニュイな気持ちになったりした。
とんだ厨二病思考だなと嘲笑すればそれまでなのだけど、10年経って古傷になった今、私の傷の場所や数を、愛する人に教えている。
私の求める愛の形は、結局何時まで経ってもこうであったということなんだろう。

だから私を傷つける人が好きだったし、私を泣かせる人が好きだったんだろうな。

沢山傷つけられた心の古傷にも、夏とは違う風が吹き抜けていく。

見えないから切なくなるしか出来ない

目には見えない心の古傷は、何故か秋風がよく沁みる。所謂センチメンタルな気分にさせる。
運動するには気持ちのいい季節だからと、自転車を漕いでいけば、学生時代の恋人との思い出が浮かんでくる。
これは少し不愉快。何だか浮気している気分だから。あの時より何となく「当時は愛されていたんだな」という気持ちになるのが一番”そう”たらしめているんじゃないだろうか。

高校時代の恋人は、彼の家から約20kmの片道をスポーツバイクを漕いで、私の家の下で待っていてくれるような人だった。
当時は「彼は自転車が好きだからやっているのだろう」なんて卑下していたけれど、そんな訳が無いよな。
自分が彼の家に向かう約20kmは、愛があるから出来ていると自負していたのに、同じように相手を見れていなかったのが、若さであり青い。
結局私は彼と、人生のライドを共にすることは出来ずに、職場までの道をママチャリで漕いでいる。

好きだったな、全力で。悲しかったな、全力で。

今、幸せだから、辛くないけど、少し過ごしやすくなった冷たい風が私の体を吹き抜けると、もう握れなかったあの人の手と、私の手の間に出来た距離を思い出す。
隣同士なのに、触れそうなのに、いつも握ってくれていた彼が、握ってくれなくて。最終的に握ってくれたんだっけ、どうなんだったっけ。
あの空気感はこんなに覚えているのに、あの日の結末は思い出せない。終わってしまった事実はここにある。

胸の奥がキュッとする。寂しさが込み上げる。生きていくしかない平凡な日常に、どうしようもなさが通り過ぎていく。
そうなったから今の生活がある。だから大丈夫、それだけは不確かに確か。何かを沢山言い訳しながら、切なくなるしか出来ないのだ。後悔に感謝して、悔やむ事も許さないまま、時間が進む。

幸せな日常を守らなきゃいけないから、秋を通り過ぎて、やり過ごして、噛み締める。

少し古傷がいたむ季節だから、体を温めて、愛を確かめて、生きていくしかないと抱きしめて。
なんとか。



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