「教科書検定は機能しているか」【手奇塾】第8回は、「教科書は、万世一系も縄文時代まで遡ることも書かないです。

6月中頃オリンピック・パラリンピックの表彰式に、ボランテイアの方々が着る衣装のデザインについて、一部の方々が、和服の方がよいとか、朝鮮風とか非難をされました。しかし、この縄文時代の土偶と比べるとどこか似ていて、洗練されたすばらしいデザインのような気がしてきます。そして北海道、東北地方の縄文遺跡群が世界遺産に登録されそうです。中でも有名な山内丸山遺跡は、今から5500年から4000年前に栄えた共同体と言われています。これは、三内丸山遺跡で発見された柱の跡から計算、復元した建造物です。地元の説明では物見やぐらといっていましたが、神殿の可能性の方がはるかに高いでしょう。神様は太陽かもしれません。鋼鉄よりも硬いヒスイに穴を開ける世界最先端の技術を持ち、600kmも船で移動し、栗を大量に管理し、イモ、豆、エゴマ、ヒエ、ひょうたんを栽培していたことが分かっています。栗を入れたポシェットや裁縫針も発掘されています。煮炊きをした縄文土器に付着した遺物の解析から、豊かな食生活をしていたことも分かっています。今では考古学会でも、縄文時代に稲作が始まったことが認められているというのに、どの教科書も自由社以外、申し合わせたかのように、稲作は弥生時代に、朝鮮半島から移り住んだ人々によって、九州北部に伝えられ、やがて東日本にまで広がったと記述されています。とんでもない、イネのDNA解析により朝鮮半島経由ではないことがすでに分かっています。水田稲作が早まったので弥生時代の始まりを早めているようです。縄文土器でコメを煮炊きしても弥生時代とは笑えますね。弥生時代には金印や、邪馬台国、卑弥呼の話が、必ずと言いてもよいほどでてきます。ところが、日本最古の歴史書の古事記や、日本書記に書かれている、出雲の国譲りや天孫降臨、神武天皇のお名前は出てきません。これらは神話としてごく簡単に記述されている程度です。これでは、縄文、弥生時代や、神話の記述をいくら読んでも、いつ、誰が、日本国を統一したのか分かりません。なぜ天皇というのかも児童、生徒諸君は、学校で教えてもらえません。自由社が「日本の皇室は、神話の時代から現代まで続く世界で最も古い王朝です」と記述すると、文科省から神話が事実であるかのように生徒が誤解するとして、検定意見が付くのです。これは教科書を書いている方々が、反天皇、反ご皇室の思想をもっているからではないでしょうか。文部省もです。日本で最も古い歴史書が、古事記と日本書紀です。712年に古事記が完成し、720年に「日本書記」が完成しています。魏志倭人伝にかかれていることは、事実であるから、これ以降が日本列島の歴史で、それ以前は、たとえ古事記、日本書紀に書かれていても歴史的事実ではない、神話であるとして、その神話でさえも詳しく教えないようになっているようです。我が国の歴史学者は、中国の史書は信用できますが、日本人が書いた記紀は、信用できないとおっしゃっているようです。これもGHQによるキャンセル・カルチャーが今でも尾を引いているのではないでしょうか。しかし、魏志倭人伝に書かれていることが事実かどうか、何も証拠がありません。邪馬台国や、卑弥呼が存在した証拠も、何処にもありません。魏志倭人伝には、倭の国には邪馬台国という国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていたと記されていました。邪馬台国が大和国で、卑弥呼がアマテラスオオミカミであったとすれば、なるほどと腑に落ちるわけですが、その証拠は、今のところ何もありません。そもそも倭は背が低く背中が曲がっているという蔑称です、邪馬台国の邪も卑弥呼の卑も卑しい漢字を当てています。卑弥呼を王と見下しているわけです。後の宋の歴史書にも倭の王たちが朝貢して、臣下、つまり属国となっていたことが記されていました。このころの倭国は、華夷秩序にがっちりと組み込まれているわけです。ところが後でお話しします、古墳時代のワカタケルおおきみ、雄略天皇のころには、日本の統一が完成し、国力も増大し、情報を得るために朝貢はしても中国王朝に柵封されない国、臣下にはならないという不臣の朝貢国となります。この時以後大和の国は、柵封体制からはずれて独立国となったのです。
では、大和の国とはなんだったのでしょうか。記紀に出雲の国の国譲りの話や、天孫降臨の話、神武天皇ご東征の話がでてきます。記紀には初代天皇がご即位された年が、今から2681年前の1月1日と書かれています。新暦の1月元旦です。126代今上陛下からさかのぼりますと、誰かが初代天皇様で、縄文時代の終わりごろまでさかのぼります。ですから日本は、ダントツで世界一古い国なのです。今では大勢の研究者が10代崇神天皇の実在を、認めていますから、9代さかのぼった、初代神武天皇の時代は、紀元前250年頃と考えることもできるのではないでしょうか。紀元前660年も250年も大きな違いはないでしょう。では天孫降臨という、高間が原のあまてらすおおみかみが、地上を支配されたのはいつごろでしょうか。初代天皇からアマテラスオオミカミまでさらに5代遡るとして200年くらいとしますと、やはり長い長い縄文時代の終わりころとしかいいようがありません。その天孫降臨の少し前に、出雲の国のオオクニノヌシの神の国譲りがあるわけです。いうまでもなく、今上陛下のご先祖は、アマテラスオオミカミです。出雲のオオクニノヌシの神はオオミカミのド親せきです。縄文時代の終わりころ、アマテラスオオミカミの命令で、出雲の国が支配下にはいり、その後おおみかみのご子孫が、高天原をお出になられて、各地を支配されたのでしょう。でも従わぬ小さな国もいくつもあったかもしれません。ですから、神武天皇のご東征とか、弥生時代に入ると、12代影行(けいこう)天皇の第三皇子、ヤマトタケルの尊の遠征がありました。古墳時代の、21代雄略天皇の時代で、国内統一が終わったのでしょう、朝鮮半島の新羅まで遠征しています。このようにみていきますと長い縄文時代の終わりころ、日本列島の関東から九州まで統一行動が始まり、統一が完了したのが古墳時代の中頃ということになります。これぐらいのことは教科書に書いて教えるべきだと思いますが、文科省は許さないのです。これは、平成12年から13年にかけて出雲大社の境内から発見された巨大な柱。3本1組となったスギの大木です。この柱は、鎌倉時代に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなったそうです。この柱の太さから計算されて復元されたのが、写真の神殿です。前に述べました、出雲の国譲りには、巨大神殿の話が出てきます。アマテラスオオミカミの命を受けたタケミカヅチ(茨城県・鹿島神宮に祀られている)から「国を譲ってほしい」といわれ、大國主神は、引き換えに天皇と同じ立派な宮殿をつくってほしいという条件を出した。それができればそこに静かに鎮まると。記紀にしるされた出雲の国譲りの話にでてくる伝説の神殿も、もはや神話と言っている場合ではなくなりました。天照大神は今伊勢神宮に祀られていますが、出雲に出かけたタケミカズチの神は茨城県鹿嶋神宮に祀られています。そして高天原という地名も鹿嶋市にあります。天照大神も高天原におられたのではないでしょうか。天照大神やその子孫の方々は都を高天原から支配しやすい地域にいろいろ移されたのかもしれません。初代神武天皇のときに大和に落ち着いたと考えてもよいのかもしれません。このようなことが神話としてではなく、やがて遺跡の発掘とともに明らかとなって、教科書に載るようになるといいですね。

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